第拾刻 〈部屋から出られない〉
ひゅん、と風を切る音と、がしゃん、とガラスの砕ける音が続けざまに黎の耳へ届く。
単調なリズムを刻むその音に、黎の聴覚はもはや麻痺してしまっていた。
それでも尚、看護婦の猛攻は止まない。
黎の体力は限界に近づいていた。
息が上がり、視界が安定しない。切り傷は幾つできただろう。
思考すらまともに働かない現在、黎を動かすのは生存本能のみだった。
初めのうちは逃亡を考える余裕もあった。
だが、黎が飛び込んだあの扉は台車付きのベッドによって大きく歪められ、にっちもさっちも行かなくなってしまっていた。もう一つの脱出経路である扉は、件の看護婦によって近づけなくなっている。
――……もう、駄目だ。
体が鉛のように重く、足が動かない。自分はこのまま注射針に全身を貫かれて息絶えるのだろう。
黎は諦めて床に倒れこんだ。
看護婦は構わずに注射器を投げ続ける。
「……何だ?」
注射器はこれまでと変わらぬ軌道を描き、壁に当たって砕けた。
まるで、黎など視界に入っていないようではないか。
黎は、恐る恐る姿勢を低くしたまま匍匐前進のような形で看護婦に近づいた。
そして、腕の届く範囲に看護婦の足があることを確認して勢いよくタックルをかます。
黎の体は看護婦をすり抜け、勢いそのままに床に滑り込んだ。
――実体が、ない?
驚愕しつつ振り返ると、看護婦の姿は歪んで消えた。その様はテレビの画面が乱れるところを彷彿とさせる。
煌々と光をたたえていた蛍光灯が突然消え、病院であったその空間が音もなく崩れる。
そこに恐怖感はなく、あるべきものがあるべき姿に戻っていくというごくごく自然な流れであることが感じられた。




