第壱刻 〈腕を引っ張ったのは〉
「チャンスが欲しいカ?」
闇が、語りかけてきた。
例の赤い眼光すら見えない。真の暗闇だ。
空間は、崩壊してしまったのだろうか。
闇に飲まれた少女は無事なのだろうか。
どうでもいいようなことばかりが、黎の脳裏に浮かんでは消えた。
「チャンス? どういうことだ」
黎は四方に注意を払いながら、両手を握り合わせた。
緊張のためか、指先が氷のように冷え込んでしまっている。その手を軽く擦り合わせて摩擦熱を生み出そうとするが、逆に掌の温度までもが氷の指先に温もりを奪われるようであった。
「けひひ……。宝探しだヨ。探してゴ覧、人体模型。何かガ足りなイ、何かが足りナい」
前にも聞かされた不思議な歌と共に、空間が大きく歪み始める。ぐるぐると渦を巻き、黎を結界ごと飲み込もうと口を大きく開けていた。
あそこに取り込まれては、どうなることか見当もつかない。
黎はどうすれば助かるものかと思考を巡らせるが、生憎このような時の対処法など誰からも教わっていない。――というよりは、誰一人としてこのような状況を想像もしていなかったのだろう。
なす術もないまま、黎を包み込んだ薄い膜はずるずると空間のひずみに引き込まれていく。
「……っ、おい! これはどういうことだ」
「どういうこともないだろうヨ。見ての通りダ」
焦燥に駆られる黎に、皮肉なほど冷静な声が背後から返ってくる。
ハッとして振り向けば、そこにはあの赤い瞳を持つ、一匹の獣がふわりと浮かんでいた。
獣は毛並みのいい柔らかな尻尾をくねらせて、片手を口元へあてがい、目を細めてけひけひと嗤う。
まるで人間のようなその仕草に、黎は表情を凍りつかせるばかりだった。
「おいおイ、何を今更驚いているんダ? 予想はついただろうニ。それとも、オ前たちはその程度のヤツらだったのかイ?」
試すように黎を見据えるソレは、その姿さえなければ人間であることを疑わせないほどに人間臭い。
「もウいい、行くゾ」
その言葉に反応してか、結界を引き寄せる力は一層強さを増し、黎はあっという間にひずみに吸い込まれてしまった。




