第伍刻 〈上からナニかが落ちてきた〉
「ただいま」
鍵を開けて家には入ると、誰も居ないことをわかっていながらもつい口にしてしまう。
自宅の洗面台の前。ワタシはそこに、十分以上呆然と佇んでいた。
帰宅直後に、いつもの習慣から手洗いうがいをするために鏡の前に立ったのだが、そこに映った自分の姿を受け止めることができなかった。
「――……っ、これは……」
耳に届く声は以前と変わらないのに、鏡の中に居る驚愕に震える人物をワタシは知らない。
栗色の緩く波打つ髪は右下でまとめられ、丸く大きな瞳は深い黒を湛える。すっと通った鼻筋に、長い睫毛はマスカラも必要ないほどで、ふっくらとした唇はその顔立ちに花を添えていた。外見だけで年齢を判断するなら、高校生か大学生くらいか。
――まさに絵に描いたような美少女だ。
ワタシは、あのお化け屋敷で出会った不思議な生き物の問い掛けに、別の顔が欲しいと答えた。
これがその結果だというなら、ワタシの願いは完璧に叶えられたということになる。
しかし、あの空間で起こった事はどうも現実としては受け入れがたいものがあった。
突然に刃物を持った男に追いかけられたり、教室でよく分からない動物霊のようなものに出くわしたり、現実では考えられないような体験ばかりだったのだ。
加えて、厚い信頼を置いていた彼に見捨てられたというショックもある。できれば忘れたいことだが、生憎ワタシはそれができるほど寛容ではなかった。
一緒にいたはずの彼が、今ここにいないことが何よりの証拠だ。外見も変わったことだし、いっそ別の所へ引っ越して姿をくらませるのも悪くはないかも知れない。
そんな風に考えながらも、ワタシは新しく待っているであろう生活に胸を躍らせた。
その時、階段の方から何かが転がり落ちてくる音が聞こえてきた。
――だが、この家にはワタシ一人しかいないはず。一体何が……。
首をかしげながら、音の聞こえた方へ足を進める。
落下音は軽く、何か小さな金属片が転がるようだった。そこから考えるに、カレンダーをとめていた画鋲の一つが外れて落下したのだろう。
踏んで怪我をしては良くない。薄い月明かりしかなかった廊下に、電球を灯す。
すると、廊下の片隅にきらりと光るものがあった。
――よかった、すぐに見つかって。




