第伍刻 〈紅い糸は血の印〉
「いやっ」
ワタシは反射的に手を振り回した。
その手はパシ、と乾いた音を立て、手のひらがじんわりと暖かくなる。そのことが、声の主に平手打ちをしたという事実を教えてくれた。
「……ったた。鞠奈、オレだよ、オレ」
ワタシがはたいた頬を押さえて笑うのは、紛れもないワタシの彼だった。
「……あ、ごめっ……、ん!?」
安心のためか、ワタシは腰が抜けてその場にへたり込んでしまう。そして、床に座ったまま慌てて頭を下げると、その上に彼の手が置かれた。
顔を上げれば、彼がしゃがみ込んでワタシのことを覗き込んでいるのが分かる。
彼の手はワタシの髪をぐしゃぐしゃと掻き回して、そこに置かれた時と同じような唐突さで離れていった。
何が起こったか分からずに呆然と彼の顔を見つめたワタシに、彼は意地悪い笑顔を向ける。
「そんなに隙だらけじゃ、襲われちゃうよ?」
くすくすと笑い声を漏らす彼に、ワタシは耳まで赤くなるのを感じた。
それは、てっきりワタシが彼に襲われるものだと思っていたから。
でも――。
「……じゃ、オレは行くわ」
「へっ!?」
もう一度ワタシの頭を撫でた彼は、ワタシのおでこにキスをしてそのまま歩き出してしまった。
ワタシは慌てて彼に手を伸ばすが、掴むことができたのはズボンの裾。軽く振り払われてしまって、ワタシの手には一本の糸くずだけが残された。
「ちょっ……、待って」
立ち上がろうにも、腰が抜けてしまっているせいで上手く行かない。ワタシがもがいている間に、彼の手によって扉は閉ざされてしまう。
そして、あっという間に彼の足音さえも聞こえなくなってしまった。
「……どうなってるの?」
ワタシは、手の中に残る彼のズボンから出た赤い糸くずに問いかけたが、その問いかけは静かな空間に飲み込まれるばかりだった。