前編
高校に入学して一ヶ月。風薫る五月の、爽やかな朝。
西野祐は、自分の席に大人しく座り、ひたすら愛想笑いを浮かべていた。
「……そんで、俺は言ってやったわけ。『次は無ぇ、今度会ったらぶっ殺す』ってな!」
いかつい顔を歪め、右手の中指をビシッと立てて須藤が笑った。野太い声にあわせて、その場にいた全員が笑い出す。
祐からしてみれば、何が面白いのかさっぱり分からない……むしろ背筋が凍るような話だ。なんせ須藤は昨夜、通りすがりのチンピラに絡まれ、拳一つで撃退したというのだから。
(何だか僕、ヤンキー漫画の脇役キャラみたいだなぁ……)
乾いた笑い声を立てながら、祐は心の中で深い溜息を吐いた。
高校受験の直前に風邪を引いたあたりから、祐の人生は坂道を転がり落ちて行った。本命の公立に落ちた祐は、仕方なく滑り止めの私立男子高へ入学。通っていた塾では『バカ高』呼ばわりされていた学校だった。
ここには、天然記念物レベルの『不良』がうようよしている。
しかも何の因果か、祐は学年で一番悪目立ちする須藤の、隣の席になってしまった。
祐が真面目で成績優秀と知るや、須藤は満面の笑みを浮かべて近寄り、祐を『ブレーン』としてこき使うようになった。といっても今のところは、宿題を肩代わりするという程度だが。
(僕はまだ、人間扱いされるだけマシだけど)
須藤の作ったグループは五人組。祐の他には、『腰ぎんちゃく』のポジションに山岸と高階。最後の一人は、いわゆる『パシリ』として重宝されている――
「おい、マルオ。俺のど乾いた」
さっそく今日も始まった。ボタンを外した学ランをバサバサとやる須藤。裏地に仕込まれた龍の刺繍が揺れ、山岸と高階がにやにや笑う。
神様は残酷だ。須藤の後ろの席になってしまったのが、クラスで一番根暗なマルオ――丸尾良広だった。その時点で、マルオの運命は決まったも同然。
マルオはズボンのポケットをまさぐりながら、おずおずと呟く。
「……あ、あの、今日は」
「何だよ」
「お、お小遣いが、あまり無くて」
「――ああっ?」
いきり立った山岸が、マルオの机を蹴り飛ばした。マルオは「ヒッ」と小さく叫び、慌てて立ち上がる。小柄でずんぐりしたマルオの額から、玉のような汗が吹き出す。
「おいおい、ヤマちゃん。そう脅かすなって。……なぁマルオ。別に俺は、お前にたかろうってわけじゃないんだ。バイト代が出るまで、少しの間貸してくれって言ってるだけなんだよ」
釣り上がった一重の目を細め、須藤が諭すようにゆっくりと告げる。山岸は仁王立ちの姿勢で、マルオを憎々しげに睨みつける。腕組みした高階は「そうそう」と涼しげな顔で相槌を打つ。
観念したのか、マルオは蝉の幼虫みたいに背中を丸め、のそのそと教室を出て行った。
一分ほど遅れて、祐も立ち上がる。
「僕トイレ行ってくる」
武勇伝の続きに熱中する三人は、祐の台詞など右から左だ。祐は騒がしい朝の教室を抜け出すと、学食へ向かった。
ドアを開くと、マルオが床に這いつくばっていた。自販機の下に腕を伸ばしている。誰かが落とした小銭を拾おうとしているのだろう。よほど必死なのか、祐に気付く様子はない。
祐は人気がないことを確認しつつ、マルオの傍に近寄った。
「おい、マルオ」
「あれぇ、西野君……」
肘や膝に埃をくっつけたマルオが、ゆっくりと立ち上がる。祐はその手に素早く千円札を握らせた。
「え、あの、これ……」
「金足りないんだろ? とりあえずこれ使いなよ。毎回はアテにすんなよ。あと、須藤たちには内緒な」
言い逃げしようした祐の手が、生温かい感触に包まれる。マルオが、握手を求めてきたのだ。
「あ、ありがとう……これ、絶対、返すから」
頭のてっぺんから出てくるような、甲高い不自然な声。分厚い唇をほとんど開かずに喋るから、何を言っているのかうまく聞き取れない。
マルオがこの声を発するたびに、教室の中には忍び笑いが渦巻いた。先生も皆のリアクションを苦笑いで黙認し、何事も無かったかのように授業を進める。その行為はあからさまで、祐は内心辟易していた。
マルオは、いじめられているのだ。須藤のパシリというだけじゃなく、クラス全員から。
(でも、こいつがいじめられるのは、納得できるんだよな……)
湧きあがる嫌悪感に耐えかね、祐はマルオの手を振り払った。学ランの背中で、握られた手の湿り気をゴシゴシと拭う。
行動だけでなく、頭の中身も鈍いマルオは、祐の“拒絶”にも無頓着だ。長く分厚い前髪の奥で、小さな目が糸のように細められる。ニキビの浮いた丸い頬は紅潮し、薄い唇の端が持ち上げられる。
見た目の不気味さ以上に気になるのが、つんと鼻をつく体臭。良く見れば、学ランの肩にはフケが落ち、後ろ髪は脂っこい毛束を作っている。血色の悪い唇から時折のぞく前歯は黄ばみ、ねちゃっと唾液の糸を引いていた。
初めて見たときから、祐はマルオを「気持ち悪いヤツ」と思っていた。マルオの家庭の事情を知らなければ、たぶんクラスメイトと大差ない態度を取っていただろう。
入学式の後、祐は担任から呼び出された。入試成績の良かった祐をクラス委員に任命するついでに、「実は一人、気を使ってやって欲しい生徒がいるんだ」と伝えてきた。
どうやらマルオの家は、一昔前のドラマばりに悲惨な状況らしい。
父親は、数年前に障害を負った。その後、母親はマルオを残して蒸発。現在は親子二人暮らしで、マルオが父親の世話をしているのだという。
その話を聞いたとき、祐は妙に納得した。
辛過ぎる現実を受け止めるには、頭のネジが緩いくらいがちょうどいい……。
自販機から、もたもたと三本の缶コーヒーを取りだすマルオに、祐は背を向けた。
◆
梅雨入りが宣言された、霧雨の降る日。不良の割には皆勤賞の須藤が、初めて学校を休んだ。
普段は飼い犬を演じている山岸と高階が、王様気どりになる。マルオはもちろん、祐にまできつい叱責が飛んだ。
祐はクラスの雑務があると嘘をつき、特別棟のパソコンルームへ避難した。優等生の祐は、教師に「調べたいことがある」と一声かければ、合い鍵を預かることができた。内側から慎重に鍵をかけ、ホッと一息つく。
窓の向こうには、どんよりと重たげな灰色の雲。
(今頃マルオ、あいつらの集中砲火浴びてるだろうなぁ……)
湧き上がる罪悪感を掻き消すべく、祐は腹の中に隠し持っていた文庫本を取り出した。それはネットで評判が良かった、新作のライトノベルだ。平凡な主人公が、特殊な能力を手に入れて魔物と戦うという、定番のストーリー。現実逃避にはちょうど良かった。
そんな休み時間を繰り返し、放課後。
祐がパソコンルームの鍵を返して再び教室へ戻ると、もうクラスメイトは誰もいなかった。
帰り支度を終えた祐は、思いついた。このまま読了して、帰りがけに駅前の古本屋へ売りに行けば、別の本が買える……。
電気の消えた薄暗い教室で、読みかけの文庫本を開く。物語のフィナーレは、涙が浮かぶほど感動的だった。祐がすんっと鼻をすすったとき。
――パチン。
教室が、突然人工的な白い明かりに包まれた。反射的に目を瞑る祐の耳に、のんびりとした声が届く。
「西野君、まだいたんだぁ」
半笑いを浮かべて近寄ってくるマルオを、祐は険を含む目つきで睨んだ。読書の邪魔をされた恨みを込めて。
「ぼくは、忘れ物、しちゃってさ……えへへ」
言い訳めいたことを言うと、マルオは自分の席に座り、中から黒い手帳を取り出した。マルオが出て行くまで待とうと、祐は文庫本を一度閉じる。
と、マルオが叫んだ。
「――ああっ、に、西野君!」
「へっ?」
「その本、ぼくも昨日、読んだよ!」
通学鞄を小脇に抱え、片手に手帳を持ったポーズのまま、マルオは祐の机に突進してきた。思わずのけ反る祐に、マルオはマシンガントークを繰り出す。
どうやらマルオは、この作家の熱烈なファンだったらしい。一方的にまくし立てるマルオが、祐の机に唾を飛ばす。祐の心には、いつも通りの嫌悪感と、プラスアルファの驚きが浮かんだ。
(なんだよ、コイツ普通に頭いいんじゃん……)
成績だけを見れば、マルオのレベルは下の下。それでも、祐の何倍もの小説を読み、それらの作品について深い批評ができる。マルオのイメージが、一気に塗り替えられていく。
マルオにとっては、祐が何を思おうがあまり関係ないようだ。息継ぎの少ない独特の喋り方で、饒舌に語り続ける。溜め込んだ感情を、一気に吐き出すように。
と、祐の携帯が震えた。
その音を耳にし、マルオは小さな目をくっと見開いた。ずっと話し掛けていた相手が、人形じゃなく意志を持つ人間だと気付いた……そんな顔だった。祐は思わず苦笑を漏らし、マルオは指先でポリポリと頭をかいた。
「そ、そうだ。ぼく、早く帰らなきゃ」
あたふたするマルオの脇から、重たい通学鞄が落ちた。それを拾おうと屈みこむと、今度は手のひらから手帳が滑り落ちる。コミカルな動きに、祐の笑みは深まった。
きっとマルオは、一度に一つのことしかできないのだろう。単に不器用なヤツなのかもしれない。
去り際にマルオは、「今度ぼくの本、貸してあげるね」と囁き、微かに唇の端を持ち上げた。
◆
「ふぁ~あ……」
祐は寝不足の目を擦り、大あくびをしながら教室へ入った。昨夜は古本屋に寄り、マルオが勧めてくれた本を買った結果、まんまと徹夜させられてしまった。
教室に一歩足を踏み入れた途端、マルオが祐の元へ駆け寄ってきた。
「――お、おはよう、西野君!」
ギョッとして、祐は周囲を見渡した。
教室にはもう大部分の生徒が集まっている。昨日は学校を休んだ須藤も来ていた。山岸と高階は、一日天下を惜しむような素振りも見せず、須藤の脇に大人しく控えている。
彼らの白けた目が、見ている。いつになくはしゃぐマルオと、そのターゲットにされた祐を。
祐の身体は、自動的に動いた。
正面に立ちはだかったマルオから視線を外し、その脇を無言ですり抜ける。バスケでディフェンスをかわすように。
「あ……」
立ち止まったマルオは、祐を追ってくることは無かった。着席した祐は、さりげなくマルオを見やる。
視界の端に映ったマルオの手には、一冊の文庫本が握られていた。
ツキンと刺さる胸の痛みを、祐は無視した。
祐がマルオを『受け入れない』と決めた、翌日。
学校に着いても、昨日のようなアクシデントは起こらなかった。マルオは自分の席でぼんやりしていて、祐に目もくれなかった。
着席した祐は、安堵の溜息をつく。鞄から教科書を取り出し、机の中に入れようとして……突っ掛かった。
怪訝に思い中を覗くと、そこには一冊の文庫本があった。
振り向けば、マルオは口をだらしなく開けて、何も書かれていない深緑色の黒板をぼんやりと眺めている。祐は膝の上でその本を開いた。
『この前言ってた、一番面白い本だよ。読み終わったら感想教えてね』
付箋メモに書かれた、汚い文字。
祐は唇を噛みしめ、その本をそっと腹の中にしまった。
それから祐は、休み時間と放課後を使い、借りた本をその日のうちに読了した。マルオが熱弁を振るった通りエンタメ性が高く、それ以上に深かった。主人公が魔法を駆使し、ファンタジックな世界を旅するだけではなく、命の重さや生きる意味を考えさせられるストーリーだった。
表紙に描かれた、巨大なドラゴンの背に乗る主人公が、祐に問い掛ける。
『このままマルオを無視し続けて、いいのか?』
祐は項垂れた。「嫌われ者のマルオと友達になって、同レベルに見られたくない」というプライドがある限り、自分が態度を変えることはない。
ただ、こうしてマルオの世界を知ると、ひどく胸が痛む。
「とりあえず、これは返さなきゃ」
マルオの貼った付箋メモを剥がし、代わりに自分のメモを貼る。悩んだあげく、『面白かった、ありがとう』とだけ記して、マルオの机に戻し……その本が、途中で突っかかった。
中を覗いた祐は、見覚えのある一冊の手帳を見つけた。
(これ、昨日マルオがわざわざ取りに来たやつだよなぁ……)
何の気なしに手帳を取り出すと、指先にぬめっとした感触。マルオの手垢だ。反射的にそれを投げ捨ててしまう。
「っと、悪い、マルオ」
拾おうと屈みこんだ祐は、その姿勢で硬直した。
薄汚い教室の床に落ち、ばさりと開かれたマルオの手帳……そこに綴られた文字を、祐は読んでしまった。
『――5月9日朝。Sにコーヒーを買わされた。Yが机を蹴飛ばし、Tが嘲笑った。N君がお金を貸してくれた。嬉しい。5月9日昼――』
ドクリ、と心臓が嫌な音を立てる。見てはいけないと思いながらも、目を逸らすことができない。
震える指で、祐は手帳のページを繰った。
毎日当たり前のように繰り返される、マルオへの蔑みと嫌がらせの数々が、事細かに記されていた。
(なんだよマルオ、普通に漢字書けるんじゃん……)
祐はあらためて理解した。マルオは、必要以上に愚鈍な人間を装っているのだと。
だったらマルオが、こんなものを残す理由は……。
――証拠にするつもりだ。
ぞくり、と悪寒が走った。よくある新聞の社会面が浮かぶ。
『いじめ自殺の遺族が、加害者を訴える』
黒く歪な文字が蠢く手帳から、祐はNの文字を拾い集めていく。マルオをいじめていた奴らが、罰を受けるのは自業自得だ。でも祐は、マルオをフォローしてきた。心の中で嫌悪していたけれど、なるべく態度には出さないようにした。
マルオだって祐には感謝しているはずだ。その証拠に、昨日の朝マルオを無視してしまったのに、何のわだかまりもなく祐に本を貸してくれたのだから……。
手帳を繰る指先が、最後のページで止まった。
「なんだよ、これ……」
身体から、一気に血の気が引いていく。全身の毛穴が総毛立つ。
『――6月13日夕方。N君が一人で教室にいた。ぼくの好きな本を読んで泣いていた。思い切って話しかけると、初めて笑顔を向けてくれた。これは運命だ。6月14日朝。N君がぼくを見て、わざとらしく目を逸らした。ぼくを好きになったことを、皆に知られたくないみたいだ。ぼくも恥ずかしいし、しばらくプラトニックな交際をしようと思う』
気持ちが、悪い。
堪えきれず、祐は乱暴に手帳を閉じた。文庫本と手帳をマルオの机に突っ込み、教室を飛び出す。
微かに芽生え始めた、マルオへの同情や友情も、一瞬で消し飛んだ。
もう二度と、マルオと関わらない。祐はそう決めた。
◆
梅雨の長雨は、なかなか止まなかった。
皮膚にまとわりつく湿気のように、マルオは祐にねっとりとした視線を送ってきた。
今までは隣の席の須藤と、声の大きい山岸と高階に気を取られていて、斜め後ろで気配を殺すマルオは空気みたいに思っていた。
でも一度気付いてしまえば、あとはもう背中の感覚で分かる。
マルオは、常に祐を見ている。
あの真っ黒いカーテンみたいな前髪の隙間から、授業中も、休み時間も。
そして何度突っ返しても、毎朝祐の机には一冊の文庫本が入れられた。『読む暇が無いから、貸さないでくれ』とメモをつけたにも関わらず。
それどころか、マルオは徐々に“妄想”を肥大させていった。
『今度の本は、正統派の冒険物だから、西野君も気に入ると思うよ』
『この本の主人公は、ちょっと西野君に似てるかな。クールで格好良くて、僕の憧れなんだ』
『西野君に貸す本が無くなってきたから、本屋で大人買いしちゃったよ』
毎朝、本屋で平積みになっているラノベのシリーズが、一冊ずつ祐に“貢がれる”……。
祐の心が限界を越えそうになった頃、事件は起きた。
須藤が欠席し、山岸が二度目の王様になった翌日だった。
『ごめんね西野君。昨日山岸君に、お小遣いを全部取られちゃったんだ。だから今日は、旧作で我慢してね。古い本だけれど、ぼく的には名作だよ』
その日、山岸は学校に来なかった。
街を流れる伊瀬川の河口付近に、青黒い姿で浮かんでいた。
◆
「これは事件じゃなく事故です。皆も、あまり騒がないように」
担任の薄っぺらい説明に、クラスの皆は無言で目配せし合った。
『事故っつっても、あの橋から落ちたんだろ? 普通あんなとこから落ちるかよ』『よじ登って、自殺したとか?』『アイツが自殺なんてするわけねぇだろ』『いや、須藤に脅されてたとかさぁ』『むしろ、須藤に殺されたんじゃね?』『それありえるわ』
光に向かい飛び交う羽虫のように、クラスメイトたちは根拠のない噂をばら撒いた。
そんな会話を耳にしても、須藤は飄々とした態度を崩さない。高階だけが、目を怒りの赤に染めていた。
その日も、机の中には一冊の文庫本が入っていた。
『山岸君が死んじゃった理由を教えてあげる。この本に出てるんだ。これなら読んでくれるかな?』
祐はその本を見て、戦慄した。
ライトノベルというには、あまりにも禍々しい表紙の本だった。ジャンルはホラーにあたるのだろう。黒い背景色に浮かび上がる幾つも不気味なマネキン。それらの眼が、血の涙を流している。
持ち帰る気にはならなかった。しかし、メッセージも気になって仕方が無い。迷った挙句、祐は休み時間パソコンルームに閉じこもり、パラパラと捲った。
吐き気が出るような、おぞましい内容だった。
黒魔術を操る主人公が、人を呪い次々と殺害していく。そのやり口は原始的で、恨みを持つ人物の身体を小さな人形と同一化させるのだ。操り人形となったターゲットは、自ら腕を折り、目を抉り、身体をナイフで突き刺し……主人公は、その様子を高笑いしながら見物する。『神』となった主人公に罰は下されず、読後感は最悪だった。
グロテスクな描写ばかりが連なる、ほとんど中身の無い物語。
ただ、最後のページに貼りつけられた汚い文字――『山岸が死んだ理由』の一言が、この本に特別な意味を与えていた。
「まさか、な……」
これはフィクションだ。いくらなんでも、この現代社会に『呪い』なんて、ありえない。
あのタイミングで山岸が死んだのは、単なる偶然に過ぎない……。
祐は何度も心に言い聞かせ、その本を閉じた。
文庫本を小脇に挟み、パソコンルームを出てドアに鍵をかける。
「――おい」
突然かけられた声に、祐は震えあがった。飛び退いた拍子に、肩がパソコンルームのドアに当たり、ガタンと大きな音を立てる。
「西野ビビり過ぎ」
「……あ、高階君」
細く整えた眉を吊り上げ、祐に不審げな眼差しを向ける高階。俯いた祐は、すぐに胸倉を掴まれ上を向かされた。
「お前、山岸のこと何か知ってるんじゃねえだろーな」
「な、何のこと?」
「気付いたんだよ。お前の態度、最近妙だったってな……今だって、こそこそ隠れて気味悪い本読みやがって」
ハッとして見下ろすと、文庫本が床に転がっていた。
(……まずい、あのメモを見られたら)
高階が、祐を荷物のように放り出す。ドアに背中を打ちつけた祐は、ゲホゲホと咳こんだ。高階はその本を睨みつけると、拾い上げる代わりに上履きで容赦なく踏みつけた。
「ヤマの遺留品には、その日買った新作のゲームがあった……そんな奴が、自殺なんてするわけない。事故にしても、アイツは間違ってもあんな所から落ちるようなヘマはしない。絶対、殺されたんだよ……!」
握り拳を震わせ、怒りを露わにする高階。祐の胸に、恐れとは違う感情が浮かび上がる。
(マルオには、死んで嬉しい存在だったけど、高階にとっては大事な友達だったんだ……)
祐は顔を上げ、なるべく穏やかな声色で告げた。
「僕は、山岸君に何もしてない。殺す理由もないし、それ以前にできるわけがないよ……」
高階の片腕に翻弄されるくらい、華奢な身体。大柄な山岸を、橋の欄干に持ち上げられるわけがない。
祐の言いたいことを理解したのか、高階は「クソッ」と舌打ちし、そのまま立ち去った。
一人になった祐は、汚れた文庫本の前にずるずると座り込んだ。
翌日、高階は学校に来なかった。
交通事故にあい、意識不明の重体……そして次の日には、命の火を消した。
祐の机には、昨日と同じシリーズのホラーが収まっていた。
『昨日高階君、キミに酷いことをしただろう? だから罰が当たったんだよ』