森の奥の魔女
ヴァルドラの森は、太陽が沈み始めると、誰も近づこうとしない場所だった。
昼間は木々が作る緑の天蓋から陽の光が差し込み、葉の隙間からこぼれた光が、空中を漂う小さな埃まで照らしている。
しかし、夕暮れを迎えると、その森はまるで別の場所へと姿を変える。
木々の間に伸びる影。
風に揺れて軋む枝。
そして、木の根元を這うように広がっていく薄い霧。
近くの村人たちは、その感覚をよく知っていた。
だからこそ、彼らの間には一つの決まりがあった。
――日が沈んでから、森へ入ってはいけない。
森の奥には、魔女が住んでいる。
薬草から薬を作り、動物たちと会話し、人間には理解できない魔法を使う女。
村では、そんな噂が何年も前から囁かれていた。
危険な魔女だ。
家の中には人間の死体が並べられている。
森へ迷い込んだ旅人を獣に変えてしまう。
近づいた男の心を奪ってしまう。
――けれど、その噂のほとんどは真実ではなかった。
少なくとも、すべてが本当というわけではない。
森の深奥に建つ、小さな家。
その暖炉の前で、一人の少女が静かに本を読んでいた。
ぱちぱちと燃える薪の炎が、彼女の顔を柔らかく照らしている。
銀色の長い髪は肩から背中へと流れ、毛先には緩やかな癖がついていた。
暖炉の光を受けるたび、その髪は淡い金色を帯びて輝く。
そして、ページを追う紫色の瞳は、夜の中でも不思議なほど鮮やかだった。
美しい少女だった。
けれど、その表情にはどこか寂しさがあった。
一人でいることを楽しんでいるというよりも――
一人でいることに、慣れてしまったような顔。
彼女の名は、エリシア・ヴァレンティア。
十八歳。
村人たちが「魔女」と呼んでいる少女だった。
「……今日も、終わっちゃった」
エリシアは本を閉じた。
木製のテーブルの上には、乾燥させた薬草の入った瓶や、色の異なる液体が入った小さなガラス瓶が並んでいる。
そして、その隣には温かい紅茶が一杯。
彼女にとっては、いつもと変わらない夜だった。
魔女。
その呼び名自体は、もう気にしていない。
けれど、彼女には一つだけ、どうしても嫌いな言葉があった。
――愛されること。
エリシアは胸元に手を当てた。
服の下。
心臓のすぐ上には、小さな花のような形をした痣が刻まれている。
それは、生まれたときから彼女に付きまとっている呪いだった。
エリシアを心から愛した者は、七日後――
彼女に関するすべての記憶を失ってしまう。
どれだけ長い時間を一緒に過ごしても。
どれだけ多くの言葉を交わしても。
どれほど強く彼女を愛していたとしても。
七日目を迎えれば、エリシアはその人にとって、ただの見知らぬ他人になる。
だから彼女は、人との距離を取ることを覚えた。
誰とも深く関わらない。
友達を作らない。
そして、誰かを自分のそばに長く留めない。
一人で暮らしていれば、誰も傷つかない。
少なくとも、そう思うようにしていた。
そのときだった。
――パキッ。
外から、枝の折れる音が聞こえた。
エリシアは顔を上げる。
風の音ではない。
椅子から立ち上がり、窓へと近づく。
ガラス越しに見える森は、すでに真っ暗だった。
「……動物?」
その直後。
「……う……」
小さな声が聞こえた。
人の声。
エリシアの紫色の瞳がわずかに見開かれる。
「……まさか」
彼女は肩に黒い外套を羽織ると、家の外へ出た。
夜の空気は冷たかった。
月明かりも、木々の枝葉に遮られている。
エリシアは声のした方向へ歩いていった。
しばらくすると、草の上に赤いものが見えた。
血。
「これは……」
点々と続く血痕を追い、その先へ進む。
そして――
一本の大樹の根元で、一人の青年を見つけた。
年齢は十九歳ほど。
茶色がかった濃い髪には、葉や泥が付いている。
旅装束はところどころ破れ、肩には古びた外套を掛けていた。
片手で脇腹を押さえているが、その指の隙間からは血が滲んでいる。
それでも青年は、もう片方の手で剣を握っていた。
「……」
エリシアは、その場で立ち止まった。
人を見るのは久しぶりだった。
もっとも、彼女が最初に考えたことは一つだけだった。
――放っておこう。
家へ連れて帰れば面倒なことになる。
怪我が治るまで世話をすれば、長く一緒にいることになる。
そして、もし彼が自分を好きになったら――
七日後には、すべてを忘れてしまう。
それなら、ここで別れるべきだ。
エリシアは一歩、後ろへ下がった。
その瞬間。
「……誰か、いるのか……?」
青年がゆっくりと目を開いた。
青い瞳が、エリシアを捉える。
二人はしばらく無言で見つめ合った。
「……魔女……?」
青年の声は、かすれていた。
エリシアは眉を寄せる。
「私が何者か分かっているなら、近づかないほうがいいわ」
青年は起き上がろうとした。
しかし、力が入らない。
「……っ」
身体が傾いた。
「危ない!」
エリシアは反射的に手を伸ばした。
青年の身体を支える。
その瞬間、二人の顔がすぐ近くまで近づいた。
青年の吐息が頬に触れる。
長い間、誰にも触れられていなかったエリシアの身体に、初めて他人の温もりが伝わった。
ドクン。
胸が、小さく跳ねた。
「……っ」
エリシアは慌てて視線を逸らした。
――危険だ。
これは、とても危険なことだ。
「……名前は?」
青年が弱々しく尋ねる。
エリシアは少し迷ったあと、答えた。
「エリシア・ヴァレンティア」
そして、彼の名前を尋ねる。
青年は一度目を閉じ、苦しそうに息を吐いた。
「……ルカ……」
「ルカ?」
「ルカ・アーデルハイト……」
エリシアはその名前を繰り返すように、小さく呟いた。
ルカ・アーデルハイト。
彼の傷は深い。
このまま森に置いていけば、朝まで生きていられる保証はない。
エリシアは血の跡を見た。
それから、彼が歩いてきた暗い森の奥を振り返る。
放っておく。
それが一番安全だった。
それなのに――
彼女の腕は、すでにルカの身体をしっかりと支えていた。
「……仕方ないわね」
エリシアは小さく息を吐く。
「あなたを私の家へ連れていくわ」
それが、エリシアにとって何年ぶりかの決断だった。
誰かを自分の世界へ迎え入れるということ。
それがどんな未来を招くのかも知らないまま。
この夜。
森の奥で暮らしていた「愛されない魔女」と、一人の青年の運命が動き始めた。
そして二人はまだ知らなかった。
これから始まる七日間が――
二人の人生を永遠に変えることを。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます!
「愛されない魔女」は、ここからエリシアとルカの七日間の物語が始まります。
二人がどんな時間を過ごし、そして待ち受ける呪いにどう立ち向かうのか。
最後まで楽しんでいただけたら嬉しいです。
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これからも二人の物語をよろしくお願いします。




