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青の風は、闇に灯る  作者: 浮世雲のジュン


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名前をなくした本

名前をなくした本

それから少し日があいて、宙はひどく静かな夜にやって来た。

月も雲に隠れ、風もなく、町じゅうが息をひそめている。

なのに窓の外の暗さは重たくなかった。

黒ではなく、インクを落とす前の水みたいな、何かが書かれるのを待っている夜だった。

「今日は?」

と私が尋ねると、宙はいつもよりゆっくり答えた。

「名前をなくした本のところ」

その言い方には、不思議と寂しさがなかった。

むしろ、ようやく見つけに行けるものの名前を、そっと言い当てたみたいな響きがあった。

窓に現れた通路は、いままででいちばん細かった。

青い風の糸が何本も編まれて、ひとすじの小川みたいになっている。

その先にあったのは、ライブラリーの最深部でも禁書架の間でもない、もっと小さな場所だっ

た。

円い部屋。

壁一面の棚。

真ん中に一脚の椅子。

そして天井から、星ではなく白い紙片がゆっくり降りつづけている。

雪のように見えるのに、床へ着く前にほどけて文字になり、また消える。

生まれかけては消え、生まれかけては消える、言葉の淡雪だった。

「ここ……静かだな」

私が言うと、宙は小さく笑う。

「うん。でも空っぽじゃない。

名前の手前って、だいたいこんな感じなんだよ」

部屋の奥に、ひとりの老人がいた。

背筋はもう少し丸くてもよさそうなのに、妙にきちんと椅子に座っている。

けれど、手だけが落ち着かない。膝の上でそっと開いては閉じ、何か大切なものの形を探して

いるみたいだった。

その目の前の机に、一冊の本が置かれていた。

革の表紙。

青にも灰にも見える、夜明け前の空の色。

背表紙にも表紙にも、何も書かれていない。

金箔も銀箔もなく、題名の窪みさえない。

本であることだけは分かるのに、何の本か、誰の本か、そこだけがするりと抜け落ちている。

「忘れたのかな」

私は囁く。

「うん。

でも、題名だけじゃない。

自分が何を大事にしていたか、どんな呼ばれ方で笑っていたか、そういう小さな名前たちが、

少しずつ頁のあいだからこぼれていったんだと思う」

私は胸の奥が、きゅっとした。

名前をなくすというのは、ただ文字を失うことではない。

世界との結び目が、少しずつゆるんでしまうことなのかもしれない。

老人は、まっ白な表紙の本に手をのばしかけて、また止めた。

怖いのではない。

どう呼べばいいのか分からないのだ。

名前のないものに向かって手を出すのは、思っているよりずっと心細い。

「宙、どうする」

と私が尋ねると、宙は、その本のそばに膝をついた。

「呼び名を教えるんじゃなくて、

呼ばれていたぬくもりを思い出してもらう」

その言葉のあと、宙は風にならなかった。

光にも、文字にも。

代わりに、やわらかな青い音になった。

見えないのに、たしかにそこにある。

冬の朝、遠くの台所から湯気の立つ音が聞こえるみたいな、生活の奥にひっそりある安心の音

だった。

その音が部屋を満たすと、天井から降っていた紙片たちが、今度は消えなかった。

ひとひら、またひとひらと老人のまわりへ集まり、彼の肩、手、膝、足もとへ静かに積もって

いく。

すると紙片には文字ではなく、小さな情景が映った。

庭の木。

午後のお茶。

だれかに呼ばれて振り向く背中。

笑って返した声。

雨の日の傘。

眠る子どもの額にふれた掌。

どれも大きな出来事ではない。

でも、その人がその人であったことを、たしかに支えていた景色だった。

老人の指先がふるえた。

彼は本そのものではなく、紙片に映るひとつの情景へ手を伸ばす。

そこには、若いころの彼だろうか、花を抱えて玄関に立つ姿があった。

誰かが内側から扉をあける。

その瞬間だけ、映像の中の世界が、春の匂いをこちらへこぼした。

老人の口が、かすかに動く。

言葉にはならない。

けれど宙はうなずいた。

「そう。たぶん、その呼び声」

何が見えたのか私には分からない。

名前かもしれない。

愛称かもしれない。

だれかがその人だけに使っていた、やわらかな呼び方かもしれない。


でも、それは文字として戻るより先に、体温として老人の胸へ帰ってきたのだと分かった。

すると、机の上の本の表紙に、ごく薄い光が走った。

題名がいきなり現れたわけではない。

まず、一文字ぶんのぬくもり。

次に、もう一文字ぶんの呼吸。

そうやって、本は少しずつ、自分が本である以上の何かを思い出していく。

部屋じゅうに舞っていた言葉の淡雪が、今度は青い花びらに変わった。

白いままだと名前になれなかったものたちが、青をもらってようやく輪郭を持ったのだ。

花びらは老人の肩へ、机へ、名もない本へ降りつもる。

その光景は静かなのに、どこか祝祭のようだった。

大きな鐘も拍手もない。

ただ、忘れられていたものが、もう一度ここにいていいと許される夜の祭り。

老人は、ついに本をひらいた。

頁は真っ白ではなかった。

けれど文字で埋まってもいない。

そこには、名づけられる前のやさしさが、淡い青の水紋みたいにひろがっていた。

読めるというより、思い出せる頁だった。

宙はその頁を見つめて、そっとつぶやく。

名をなくし

それでも胸に

風は住む

私はその声を聞いた瞬間、なぜだか泣きそうになった。

人は名前を忘れることがある。

自分らしさも、愛されていた感触も、遠くなることがある。

それでも、全部が消えるわけではない。

呼ばれていたぬくもりや、誰かを大切にしていた風の通り道は、心のどこかに残りつづける。

宙はきっと、その通り道を探して来るのだ。

老人は、本を抱きしめたりはしなかった。

ただ両手でそっと支え、胸の近くに置いた。

それだけで充分だった。

なくしたものを完全に取り戻したわけではなくても、帰るための方角がひとつ見えた顔だった

からだ。

帰り道、細い青の通路は小川ではなく、星の川みたいに見えた。

足を運ぶたび、呼び名のないやさしさが水面でふっと灯る。

私はその上を歩きながら、言葉にできないものにも救いがあるのだと、遅れて理解していた。

「ねえ、宙」

「うん」

「名前をなくしても、また戻ってこれるのかな」

宙はすぐには答えなかった。

青い風が、私の前髪を少し揺らす。

それから、ひどくやわらかな声で言った。

「同じ名前でなくても、戻ってこれるよ。

大事なのは、ちゃんと呼ばれることより、

そこにいた心が、また息をしはじめることだから」

窓のこちら側へ戻ると、夜はもう夜明けの手前まで来ていた。

空の端にごく薄い色が混じりはじめ、部屋の本棚にも輪郭が戻っている。

宙は消えかけながら、最後にいつものように私の肩をぽんと叩いた。

「すー……はー……青の呼吸だよ」

「うん」

「今日は三回くらい言っておこうか。

名前のことを考える夜は、息が迷子になりやすいから」

「じゃあ、三回聞いておく」

宙はそこで、少しだけ驚いた顔をした。

すぐに笑って、青い風をやさしくほどく。

「えらい」

その一言が、なんだか妙にあたたかくて、私は少しだけ笑った。

窓の外へ溶けていく宙の背に、夜明け前の白がかすかに混じる。

青と白のあわいで揺れながら、宙は振り返らずに言った。

「また呼んで。名前が曇る夜でも、風は見つけに行くから」

部屋にはもう誰もいなかった。

けれど机の上には、いつのまにか青い花びらが一枚だけ落ちていた。

手に取ると、それは花びらではなく、小さなしおりだった。

どこにも文字は書かれていない。

でも不思議と、それでよかった。

書かれていなくても、なくなってはいないものがあると、今の私は知っていたからだ。




あ と が き の か わ り に

青い風は、急かさず、裁かず、ただ頁のそばにいます。

書架の深いところにも、禁じられた棚にも、月光の閲覧室にも、そして名前をな

くした本の前にも。

この四作が、息を整えたい夜の小さなしおりになれば嬉しいです。

すー……はー……青の呼吸だよ。

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