ムーンライト
ムーンライト
次に宙が来た夜、月はまるで磨かれた銀貨みたいに丸かった。
窓の外の町並みは淡く青みがかり、屋根も電線も、ふだんより少しだけ遠い世界のものに見え
た。
「今日は、明るいな」
と私が言うと、宙はうれしそうでもなく、でもたしかに月の気配をまとって立っていた。
「うん。ムーンライトの夜だから」
「そのまんまだな」
「こういうのは、案外、まっすぐな名前のほうが強いんだよ」
宙はそう言って、窓の向こうの満月へ手をのばした。
指先が届くわけもないのに、その瞬間、月の表面から細い糸みたいな光が一本ほどけた。一本
が二本になり、二本が幾筋にも分かれ、それらは空中で編みあわさって、銀青色の梯子になっ
ていく。
梯子は空へ伸びるのではなく、斜めに流れ、まるで月そのものへ渡る橋のように夜を横切っ
た。
「……行くのか」
「うん。月の閲覧室へ」
それは、ライブラリーの上層にある場所だった。
屋根より高く、雲より静かで、夜の鳥すら羽音をひそめるところ。
そこでは本は棚に並ぶのではなく、月光の中へ浮かんでいた。一冊ごとに薄い光の輪をまと
い、水面のような宙へ、ふわり、ふわりと漂っている。
床はない。
正確には、踏みしめるたびに光ができる。
足を置いた場所にだけ、淡い月の円盤が咲くのだ。
「きれいだな」
私がそう言うと、宙は小さくうなずく。
「ここは、夜にしか読めない本が集まる場所だよ。
昼の心ではまぶしすぎるものとか、
暗闇だけでは見失うものとか」
月の閲覧室には、風があった。
けれど青い風ではなく、白銀に近い、冷たくてやさしい風だった。
その風が頁をめくるたび、あちこちで文字が蛍みたいに飛び立つ。
ひとつは誰かの願い。
ひとつは間に合わなかった祈り。
ひとつは、もう届かないと知りながら、それでも胸に残る呼び声。
今夜、私たちが向かったのは閲覧室のいちばん端だった。
そこには、本ではなく、細い譜面台のようなものが立ち、その上に一通の手紙だけが置かれて
いた。
封はされていない。
けれど、だれにも読まれないまま長い夜を越してきた手紙特有の、淡い月の粉をかぶってい
た。
その手紙の前に、女性がひとり座っていた。
歳は分からない。月光というものは、人の年齢から数字をそっと消してしまう。
ただ、その背中には、ずっと誰かを呼びつづけた人の静かな疲れがあった。
「この人は?」
「届かなかった手紙を、まだ心の中で持ってる人」
「出せなかったのかな」
「たぶんね。
それか、出したけど、ほんとうには届かなかった」
宙はそう言って、譜面台の上の手紙を見る。
すると封筒もないその紙が、月光の中でかすかに鳴った。
しゃら、と。
紙の音ではなく、ガラスの風鈴みたいな音だった。
「読ませてあげるの?」
私が聞くと、宙は少し首をかしげた。
「ううん。今日は、文字じゃなくて、光で返す」
その言い方があまりにも宙らしくて、私は少しだけ笑ってしまう。
でも次の瞬間、その意味を思い知った。
宙が両手をひらくと、閲覧室じゅうの月光が寄ってきた。
白い光ではない。
銀の中に、ごく薄い青が混じっている。
それらが宙の手のあいだで糸になり、糸はさらに細い音符のかたちへ変わっていく。
まるで光そのものが、夜の楽譜を読みはじめたみたいだった。
音はない。
けれど、胸の奥でだけ聴こえる旋律があった。
思い出の足音のような。
もう会えない人の笑い声が、遠い部屋からひとつだけ戻ってくるような。
その旋律が手紙に触れると、文字たちが紙の上から離れ、小さな白い鳥になって月の下へ飛び
立った。
女性の目が、大きくひらく。
飛び立った鳥たちは、すぐ消えてしまうわけではなかった。
上へ、上へとのぼりながら、尾に青白い光をひいていく。
それは流れ星に似ていたけれど、もっとゆっくりで、もっとやさしい。
空へ消える直前、それぞれが短くひかり、返事みたいに一度だけ瞬いた。
「……届いたのかな」
私は思わず言った。
宙は、月を見上げたまま答える。
「届いた、というよりね。
届かなかった寂しさに、ちゃんと月明りが当たったんだよ」
それはたぶん、宙にしか言えない言葉だった。
答えが返ってくることだけが救いではない。
返らないままの気持ちにも、光が当たることはある。
そのことを、ムーンライトの閲覧室は知っているのだ。
女性の膝の上に、もう手紙はなかった。
かわりに薄い光の羽が一枚、そっと落ちていた。
彼女はそれを拾い、胸もとへ当てる。
泣くわけでも笑うわけでもない。
ただ、長く冷えていた場所に、ようやく月の温度が届いたみたいに、小さく息をついた。
宙は、そこでいつものように、ふいに短く言った。
月の字で
返事のない夜
花ひらく
「それ、いつにも増して詩っぽいな」
「ムーンライトだから」
「便利な言葉だな」
宙は少しだけ肩をすくめた。
その仕草に合わせて、まわりの浮遊書たちがくすっと笑うみたいに揺れた。
頁の端からこぼれる光が、足もとに咲く月の円盤へはらはら降りそそぐ。
私はその中に立ちながら、夜というものがただ暗いだけではなく、読めなかったものを照らす
ための時間でもあるのかもしれないと思った。
帰るころ、月の梯子は行きよりずっと透きとおっていた。
空を渡るというより、私たち自身が月光の内側を歩いている感じだった。
街の明かりは遠く、でもさびしくはない。
夜全体が巨大な書庫で、その一冊一冊に、まだ誰にも読まれていないやさしさがしまわれてい
るようだった。
「ねえ、宙」
「うん」
「返事がないまま終わることって、やっぱりあるんだね」
宙はしばらく黙ってから、静かにうなずいた。
「あるよ。
でもね、返事がないことと、想いが消えることは、同じじゃない。
届かなかった気持ちにも、ちゃんと月はのぼるから」
その声は青い風より少しだけ白くて、でも同じくらいあたたかかった。
窓のこちら側へ戻ると、部屋の床に月光が一筋、細長く伸びていた。
宙はその中へ半分溶けながら、いつものように私の肩を軽く叩く。
「すー……はー……青の呼吸だよ。
今日は、月の白も少し混ぜて」
「そんな器用なこと、できるかな」
「できるよ。吸うときに、胸の中で本をひらく感じでね」
また難しいことを言う。
けれどその夜の呼吸は、たしかにいつもより明るかった。
泣くほどではない寂しさにも、名前のないままの願いにも、そっと光が差していたからだろ
う。
宙は消え際に、月の糸みたいな声で言った。
「また呼んで。夜が長い日は、ムーンライトで読むから」
窓の外では満月が、何も言わずに町を照らしていた。
それは答えではなかった。
でも、答えのない心にも寄り添える沈黙というものが、世界にはちゃんとあるのだと、私はそ
の白い光の中で知った。




