禁書架の間
4話:禁書架の間
その夜、宙は現れるなり、めずらしく眉を寄せていた。
いつも深刻そうな顔はしているけれど、今日はそこに、青い風まで緊張している気配がある。
「どうした」
と私が聞くと、宙は短く答えた。
「禁書架の間が、鳴ってる」
「禁書架?」
その言葉を口にしただけで、窓辺の空気がひやりとした。
まるで見えない鍵穴が、こちらをそっとのぞき返してきたみたいだった。
宙が窓にふれると、今夜の通路はいつもの青ではなかった。
青の底に、銀より細い光が幾筋も走っている。鍵でできた雨のような、硬質なきらめきだった。
通路の奥には、扉ではなく、巨大な本の背がそびえている。背表紙いっぱいに、見たことのない
紋章が刻まれ、その中央で月色の錠前が脈打っていた。
「入って平気なのか」
「本当は、勝手に入る場所じゃないよ」
宙は言った。
「でも、今夜は呼ばれてる」
本の背がゆっくりひらくと、その中は廊下だった。
左右の壁はすべて書架なのに、一冊一冊が鎖で留められている。鎖は鉄ではなく、細い星明りを
編んだようなものだった。冷たくも熱くもないのに、近づくと胸の奥の古い傷が、名前を思い出
しそうになる。
「ここには、どんな本があるの」
「強すぎる記憶の本。
まだ触れられない悲しみ。
怒りの火が消えないまま眠ってる頁。
それから、自分を守るために深く封じた本」
宙の声は小さい。けれど、その小ささが逆に、この場所の広さを際立たせた。
禁書架の間は、ただ暗いだけではなかった。
高い天井には青白いステンドグラスが浮かび、そこを文字の群れではなく、黙ったままの光が
ゆっくり流れていた。床には星砂のような粉が積もり、歩くたびに足もとからかすかな音階がこ
ぼれる。ひとつ鳴るたび、書架のどこかで鎖がきりりと震えた。
やがて廊下の奥で、ひとつの書架だけが大きく揺れているのが見えた。
何冊もの本が、鎖ごと小さく震えている。まるで中から何かが出たがっているみたいだった。
その前に、男がひとり立っていた。
年は若く見えたけれど、背中がずいぶん遠く感じる人だった。両手を固く握りしめ、目の前の一
冊から目をそらせないまま立ち尽くしている。
その本の表紙には題名がない。
ただ、黒い水のような影がにじんでいて、見るたび形を変えていた。
「読もうとしてるのかな」
「ううん」
宙は首を振る。
「閉じ込め直そうとしてる」
私は息をのんだ。
本を閉じるために、ここまで来る人がいるのだ。
男の足もとには、砕けた鍵がいくつも落ちていた。
銀の鍵、玻璃の鍵、薄い氷でできたような鍵。どれも途中で折れている。
それだけで、何度も何度も忘れようとしたことが分かった。
「開いたら、壊れちゃうんじゃないかな」
私がつぶやくと、宙は、いつものやわらかな青を少しだけ強く揺らした。
「壊れるときもあるよ。でも、閉じ込め続けると、もっと別の形で暴れる」
そのとき、書架じゅうの鎖がいっせいに鳴った。
しゃらん、ではなく、ざあっ、だった。
夜の雨が一斉に降りこむような音。
本の背から黒い紙片があふれ出し、空中で鳥の群れのように舞いあがる。紙片にはどれも燃え残
りのような文字が浮かんでいた。
「許せない」
「どうして」
「まだ痛い」
それらの文字は黒い烏ではなかった。
羽の代わりに破れた頁を持つ、紙の獣だった。口を開けば、風ではなく、熱のない炎がこぼれ
る。
「うわ……」
と思わず後ずさる私の前に、宙が一歩出た。
「大丈夫。追い払わない」
「追い払わないの?」
「うん。あれは、この人の痛みの番人だから」
宙の身体がほどける。
今度の青い風は、いつものやさしい灯りだけではなかった。
そこに細い銀の線が混じり、まるで星明りを帯びた川が逆さに流れるように、禁書架の間いっぱ
いへ広がっていく。風が通るたび、鎖に刻まれた小さな紋章がひとつずつ灯った。
宙は紙の獣たちに向かって、何も命じなかった。
静まれとも、消えろとも言わない。
ただ、その一匹一匹のまわりに、青い輪をそっと置いていく。
輪は檻ではなく、呼吸のような丸だった。そこでやっと、獣たちは自分が暴れていたことに気づ
いたみたいに、動きを少しずつゆるめていく。
男の前にある題名のない本が、かたりとひらいた。
頁のあいだから立ちのぼったのは、真っ黒な煙ではなかった。
雨の夜の駅。
振り払ってしまった手。
言えなかった一言。
遅すぎた後悔。
そういう場面が、水鏡のように空中へ浮かびあがる。
男の肩が震えた。
「読まなくていいのに」
私は小さく言った。
すると宙は、首を横に振る。
「全部は、読まなくていい。
でも、自分の痛みがここにあるって知ることは、大事なんだよ。
封じるだけだと、ずっと闇の下で叫び続けるから」
男は、泣かなかった。
かわりに、片手を本の上に置いた。
その手つきは許しではなく、赦せないまま触れる手つきだった。
それでも、触れたことには違いなかった。
その瞬間、紙の獣たちの羽から、黒がひとしずくずつ落ちた。
床に落ちた黒は、星砂と混ざり、深い青のインクになってひろがる。
すると鎖の音が変わった。
さっきまでの雨のようなざあっ、ではなく、遠い鈴のような、澄んだ響きへ。
宙はそこで、いつもの調子でぽつりと言う。
「禁書架って、怖い場所に見えるけどね。
ほんとは、まだ早い頁を守ってる場所なんだよ」
「まだ早い頁」
「うん。無理に開いたら、心が切れちゃうこともあるから。
だからここは、忘れるためじゃなくて、いつか読めるようになるまで預かる場所」
私はその言葉を聞いて、鎖が少し違って見えた。
閉じ込めるものではなく、壊さないための留め具。
怖さばかりじゃなかったのだ。
やがて、男の本の表紙に、うっすらと文字が浮かんだ。
はっきり読める題ではない。
けれどそこにはたしかに、「傷」のあとに続く、もっとやわらかな何かが宿っていた。
宙はその光を見て、短くつぶやく。
閉じた頁
月の鍵には
春ひそむ
「今回は、禁書架仕様の俳句?」
「うん。ちょっと硬め」
私は思わず吹き出した。
こんな幻想のど真ん中でも、宙はときどき、変なところで気が抜けている。
帰り道、通路の銀の線は来たときよりやわらかくなっていた。
鍵の雨だった光は、もうただの冷たいものではない。
どちらかといえば、夜の空気に混じる小さな祝福に近かった。
「ねえ、宙」
「うん」
「禁書架の本って、いつか全部、開ける日が来るのかな」
宙は少し考えてから言った。
「全部じゃなくていいんだよ。
開けられるところまででいい。
それでも、鍵穴の向こうに自分の心があるって分かるだけで、暗さは少し変わるから」
窓のこちら側へ戻ると、夜の部屋はいつものままだった。
なのに本棚の影まで、少しだけ深く、少しだけやさしく見えた。
宙は消えかけながら、最後に私の肩を軽く叩く。
「すー……はー……青の呼吸だよ。
禁書架を見た夜は、とくにね」
「分かってるよ」
「ほんとかな。君、強がるとすぐ息が浅くなるから」
図星で、返事ができなかった。
宙はそんな私を見て、風みたいに笑う。
そして、窓の外へ溶ける前に、ひとことだけ残した。
「痛みを閉じることと、守ることは、少し違うからね」
その夜しばらく、部屋のすみで何かが小さく鳴っている気がした。
鍵の音ではなかった。
まだ読めない頁が、いつかの春を待ちながら、眠りの中でゆっくり呼吸している音だった。




