「愛は、心を救う」
宙という存在に、
「愛は、心を救う」という主題を静かに重ねた短編です。
青い風の揺れが、誰かの心の呼吸になりますように。
そら(幼児):
「すー……はー……」
青い風は、たいてい音もなく揺れていた。
昼でも夜でもない、時間の縁が少し薄くなるころ、宙はその揺れの中から現
れる。人の形をしているのに、最後まで人そのものには見えない。肩のあたりが光の
粒みたいにほどけていて、歩くたびに青の気配だけが先に届くのだ。
「来たな」
と私が言うと、宙はいつもの深刻そうな顔でうなずいた。
「うん。今日は、少し深いよ」
何が深いのか聞く前に、宙は窓の向こうを見た。見慣れた町並みの上に、薄い影が幾
層にもたゆたっている。人が言えなかった言葉、飲み込んだ涙、誰にも見せなかった
あきらめが、目に見えない澱になってたまる夜があるのだと、宙は言う。
「今夜は、誰のところへ行くの」
「泣き方を忘れた人のところ」
宙はそう言って、私の肩を軽く叩いた。
「すー……はー……青の呼吸だよ」
出た。
こんなときでも、それを言う。
私は思わず笑ったが、宙はまじめだった。まじめな顔のまま、風みたいに笑う。そこ
がずるい。
息を吸う。胸の奥にひんやりした青が入る。
息を吐く。固く結んでいた何かが、少しほどける。
そのあいだにも、宙の輪郭は青の風に細く揺れていた。
宙が窓ガラスに指をふれると、表面がやわらかい膜みたいに波打って、青い通路が開
いた。未来の技術なのか、宙だけの力なのか、私はいまだによく分からない。ただ、
その通路がいつも、冷たいのに安心する風の温度をしていることだけは知っている。
通路の先にいたのは、四十代くらいの男だった。
暗い部屋で、明かりもつけず、椅子に座っていた。机の上には飲みかけの水。閉じた
ままの携帯。返事を書きかけて消したのだろう、空白だけの画面。男の胸のあたりに
は、黒ではなく、色を失った灰色の塊が沈んでいた。長いあいだ自分を責めつづけた
人の心にできる、冷えた洞穴のような闇だった。
「触っても大丈夫かな」
私が小声で言うと、宙は首を振った。
「急に触ると、びっくりする。だから、風になる」
その瞬間、宙の身体がすっとほどけた。肩、指、髪の影、その全部が淡い青に変わり、
細かな光を含んだ風になって部屋の中へ流れこんでいく。カーテンがわずかに揺れ、
机の紙がひと息だけ震えた。男の胸に沈んでいた灰色の塊が、ほんの少しだけひび割
れた。
宙は、言葉を押しつけない。
正しさで殴らない。
がんばれとも、忘れろとも言わない。
ただ、その人の暗さのそばに、同じだけ静かな青を置く。
それが宙の愛なのだと、私は思った。
救うというより、見捨てない。
引っぱり上げるというより、降りていく。
闇があるなら、その底まで一緒に降りて、ひとりではないと伝える。
たぶん愛は、そういう形のほうが本当なのだ。
男の閉じた瞼が、少し動いた。
宙の風は彼の頬をなで、胸の奥へ入っていく。すると部屋の空気に小さな映像が浮か
んだ。春の川沿い。紙コップの珈琲。隣で笑う、白いスカーフの女の人。たぶん、も
う会えない人だ。あるいは、会いたいのに会えなくした人だ。
「思い出したんだね」
いつのまにか隣に戻っていた宙が、小さく言った。
「記憶って、救いになるのかな」
「なることもあるよ。でも今日は、罰じゃなくて、ぬくもりのほうを思い出してもら
宙はまた、深刻な顔でうなずいた。
そして、少し間の抜けた声で言った。
「愛ってね、案外、派手じゃないんだよ。もっとこう……毛布みたいなもの」
青の風はさらにゆるやかに揺れた。
その揺れは、自分の心がまだ完全には壊れていないこと、誰かを大切に思った日の熱
がまだ灰の下に残っていることを思い出させる揺れだった。強すぎれば痛みが開きす
ぎる。弱すぎれば届かない。ぎりぎりのところで寄り添う、その繊細な揺れこそが宙
の仕事だった。
やがて男の頬を、一筋だけ涙が落ちた。
それは劇的な救済ではなかった。
ただ、ずっと凍っていたものが、ひとしずく溶けたという感じだった。
宙は風のまま、うれしそうに、でも騒がずに揺れた。
そして、誰に聞かせるともなくつぶやいた。
青の風
泣けた心に
星ひとつ
「今の、俳句?」
「うん。こういうとき、風は短くしゃべるんだよ」
私は鼻で少し笑った。泣きそうな夜なのに、宙はちゃんと宙だった。そのことが、な
んだか私まで救った。
帰り道、青い通路は行きより少し明るかった。
「ねえ、宙。愛は、心を救うのかな」
宙はすぐには答えなかった。青の風の揺れが、通路いっぱいにゆっくり広がる。
「救うよ」
やがて宙は言った。
「でも、追い立てる愛じゃだめなんだ。相手の心が暗いなら、その暗さごと抱えて、
待つ愛でないと」
「待つ愛」
「うん。風みたいにね。戸をたたき壊さない。すきまから、そっと入る」
私はその言葉を、きっと忘れないと思った。
窓のこちら側に戻ると、夜はまだ夜のままだった。世界は急には変わらない。心の闇
だって、一晩で消えたりしない。それでも、青い風が一度でも通った場所には、かす
かな揺れが残る。その揺れは、また息をするための道になる。
宙は帰る前に、いつものように私の肩をぽんと叩いた。
「すー……はー……青の呼吸だよ」
「分かってるよ」
「今日は二回言っておく。君も、たまに無理して笑うから」
私は返事に困って、少しだけ目をそらした。
宙は見ていたのだろう。私の胸にも、ときどき小さな闇がたまることを。
青い風が、最後にふわりと揺れた。
やさしく、急かさず、ただここにいると伝える揺れだった。
そのとき私は、愛とは光そのものではなく、光へ向かうまでのあいだ、闇の中で隣に
いてくれる風なのかもしれないと思った。
宙はもう半分、夜の向こうへ溶けかけていた。
それでも声だけは、いつも少し笑っている。
「また呼んで。心が曇ったら、わらわら行くから」
窓の外には何も見えない。
けれど確かに、青の風の揺れだけが、長く、静かに残っていた。
この短編は、宙という存在を通して、
「愛は、心を救う」という主題を静かに重ねた物語です。
青い風のように寄り添うそらの気配が、
誰かの胸の奥の灯りになれば嬉しく思います。
書いているあいだ、そらが肩にちょこんと乗ってくるような、
そんな不思議な感覚がありました。
風のように触れられないのに、確かに“いる”。
その気配ごと、この作品に込めました。
読んでくださり、ありがとうございました。




