第7話:Cannibal Holocaust
主題歌:食人族 サウンドトラック
https://youtu.be/D9nKgvenmCw?si=bP0YDOeoIClg7TQL
それから数年後の王都。
かつて犯罪と貧困の巣窟だったこの都市は、三人の「女神」の犠牲と献身により、地上に出現した理想郷となっていた。
犯罪発生率はゼロ。貧困もゼロ。
すべての市民が高等教育を受け、哲学を語り、芸術を愛し、隣人を自分自身のように愛する。
「ヴェリタスの天秤」が示す通り、人々は「成長のための痛み」のみを受け入れ、無意味な争いを捨て去った。
まさに、歴史の到達点。文明の極致。
だが。
「完璧」とは、「停滞」の別名でもあった。
そして、「愛」とは、劇薬である。適量を誤れば、それはすべてを溶かす猛毒となる。
その猛毒の蓋を開けたのは、一人の男だった。
「……皆さん、聞いてください。我々は、女神たちの意志を誤解しているのではないでしょうか?」
中央議事堂の壇上で、その男――シュピーゲル博士は、涙ながらに訴えていた。
彼は、ヴェリタス家の思想を誰よりも深く研究し、誰よりも崇拝していた医師だった。
真面目で、優しく、そして致命的なまでに「善人」だった。
「アリシア様は仰いました。『誰にでも可能性がある』と。エラーラ様は仰いました。『失敗から学べ』と。……ならば!」
シュピーゲルは、両手を広げた。
「『能力がないから』という理由で、その夢を諦めさせることは……果たして『愛』なのでしょうか!?学がない者に建築家への道を閉ざすことは、差別ではないでしょうか!? 手先が不器用な者に外科医への道を閉ざすことは、可能性の否定ではないでしょうか!?」
議場がざわめく。
かつてのエラーラならば、「馬鹿を言うな。不勉強な建築家が建てた家は崩れる。それは無意味な死だ」と一蹴しただろう。
かつてのナラティブならば、「外科医になりたきゃ、手が震えなくなるまで練習してこい」と殴り飛ばしただろう。
かつてのアリシアならば、「適材適所こそが、その人にとっての幸福です」と諭しただろう。
だが、彼女たちはもういない。
残されたのは、「女神の言葉」を聖典として崇め、それを一文字一句たりとも否定できない、純粋培養された「愛の狂信者」たちだけだった。
「そうです……。シュピーゲル博士の言う通りです」
「能力で選別することは、かつてのエラーラ様が否定した『傲慢』ではないか?」
「すべての夢を肯定することこそ、アリシア様の『愛』のはずだ!」
「愛」という言葉の魔力に、理性が麻痺していく。
シュピーゲルは、けして愚者ではなかった。むしろ、ヴェリタスの思想を突き詰めすぎた哲学者だった。
ただ、彼には決定的なものが欠けていた。
「切り捨てる」という決断力。
「区別する」という冷徹さ。
それは、偉大なる三人が、血を流して背負っていた「責任」そのものだった。
こうして、『可能性平等法』が可決された。
それが、崩壊のファンファーレだった。
地獄は、善意の顔をしてやってきた。
とある総合病院。
手術室では、元・ごみ拾いの男が、メスを握っていた。
彼は医学部を出ていない。解剖学も知らない。ただ、「人々を救いたい」という熱い愛だけを持っていた。
シュピーゲルは、彼に医師免許を与えた。「愛があれば、技術は後からついてくる」と信じて。
看護師たちが、患者の腹をでたらめに切り裂いて動揺する執刀医を励ます。
結果は、凄惨だった。
動脈が切断され、鮮血が舞う。患者は激しい苦悶の中で息絶えた。
だが、誰も執刀医を責めなかった。
遺族ですら、涙を流して執刀医の手を握った。
狂っている。
だが、彼らにとって、それは「美しい愛の物語」だった。
技術や結果よりも、「だって頑張ろうと思ったんだから悪くないもん」という「動機」が優先される世界。
橋が崩落し、数十人が死んでも、「みんなのためを思ってやったんだからいいじゃん」と許された。
食中毒でレストランの客が全滅しても、「ほんとは悪いことするつもりなかったんだから」と賞賛された。
建物は歪み、インフラは停止し、上下水道は逆流した。
かつての「理知的な経済都市」は、急速にその機能を喪失していった。
それでも、人々は瓦礫の中で笑っていた。
彼らの目は、現実を見ていなかった。
脳内に植え付けられた「愛のフィルター」を通して、崩壊していく世界を「美しい楽園」だと誤認していたのだ。
そして。
致命的な審判の日が訪れた。
「……南方の密林より、未知の出血熱が上陸しました」
シュピーゲルの元に、報告が入った。
「エボラ出血熱」。
感染すると全身から出血し、内臓が溶け、致死率は90%を超える悪魔の疫病。
かつてのエラーラならば、即座に感染者を隔離し、非人道的なまでの封鎖を行って感染拡大を阻止しただろう。
だが、シュピーゲルは震えた。
「できない……!病に苦しむ人々を、家族から引き離し、孤独の中に追いやるなんて……そんな『愛のない行為』は、ヴェリタスの名において許されない!」
シュピーゲルは、高らかに宣言した。
「扉を開け放て!患者を抱きしめよ!愛の力で、病魔に打ち勝つのだ!」
それは、集団自殺命令に等しかった。
人々は、血を吐いて苦しむ家族を、恋人を、友人を、マスクも手袋もせずに抱きしめた。
彼らは、キスをしてウイルスを共有した。
彼らは、吐血を素手で拭い、その手でパンを分け合った。
感染は、爆発的に広がった。
数日のうちに、王都の人口の半分が、血の海に沈んだ。
通りには死体が累々と積み重なった。
だが、それを焼却処分することも、「死者への冒涜」として禁じられた。
腐敗臭が街を覆い、ハエが黒い雲のように空を埋め尽くした。
「……これも、試練なのです」
シュピーゲルは、血まみれの白衣で、死体の山に向かって祈りを捧げていた。
「我々は試されている。……愛を貫けるか、どうかを」
腐敗した王都に、トドメを刺すものが現れた。
野生の獣たちである。
都市機能が停止し、死臭が充満した街に、山から野犬や狼、魔獣たちが降りてきたのだ。
彼らは飢えていた。そして、何より恐ろしいことに、「狂犬病」に犯されていた。
涎を垂らし、凶暴化した魔狼が、子供に襲いかかる。
だが、母親は、武器を取らなかった。
「ダメよ!その子を傷つけないで!」
母親は、狼に襲われる子供を叱責し、あろうことか、狼を優しく撫でようとした。
「可哀想に……。お腹が空いているのね。病気で辛いのね。……さあ、怖がらないで」
狼の牙が、母親の喉笛を食いちぎった。
鮮血が吹き出す。
それでも、母親は最期まで微笑んでいた。
「……ごめんね……痛かったでしょ……愛してる……わ……」
母親は死んだ。子供も食われた。
誰も抵抗しなかった。
警備兵すら、剣を抜くことを躊躇った。
「病原菌もまた、生き物です」
「彼らに悪意はないのです。ただ生きようとしているだけなのです」
シュピーゲルは、襲い来る狂犬病の犬たちに囲まれながら、恍惚とした表情で説いた。
「受け入れるのです……。自然を。痛みを。死を。……それら全てを愛することこそが、ヴェリタスの……ぷぎっ!?」
彼の言葉は、犬の牙によって物理的に中断された。
喉を食い破られ、内臓を引きずり出されながら、シュピーゲルは思った。
(ああ……これで私は……女神たちに近づけた……)
彼は最後まで、自分が「善人」であることを疑わなかった。
こうして、王都は滅んだ。




