表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アリシア・ヴェリタス【哲学リョナ小説第3弾】  作者: ギデオン・ヴァンツ@週刊コロッセオ記者
・●第10章:ヴェリタスの天秤4 希望を知る者

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

50/51

第7話:Cannibal Holocaust

主題歌:食人族 サウンドトラック

https://youtu.be/D9nKgvenmCw?si=bP0YDOeoIClg7TQL

それから数年後の王都。

かつて犯罪と貧困の巣窟だったこの都市は、三人の「女神」の犠牲と献身により、地上に出現した理想郷となっていた。

犯罪発生率はゼロ。貧困もゼロ。

すべての市民が高等教育を受け、哲学を語り、芸術を愛し、隣人を自分自身のように愛する。

「ヴェリタスの天秤」が示す通り、人々は「成長のための痛み」のみを受け入れ、無意味な争いを捨て去った。

まさに、歴史の到達点。文明の極致。

だが。

「完璧」とは、「停滞」の別名でもあった。

そして、「愛」とは、劇薬である。適量を誤れば、それはすべてを溶かす猛毒となる。

その猛毒の蓋を開けたのは、一人の男だった。


「……皆さん、聞いてください。我々は、女神たちの意志を誤解しているのではないでしょうか?」


中央議事堂の壇上で、その男――シュピーゲル博士は、涙ながらに訴えていた。

彼は、ヴェリタス家の思想を誰よりも深く研究し、誰よりも崇拝していた医師だった。

真面目で、優しく、そして致命的なまでに「善人」だった。


「アリシア様は仰いました。『誰にでも可能性がある』と。エラーラ様は仰いました。『失敗から学べ』と。……ならば!」


シュピーゲルは、両手を広げた。


「『能力がないから』という理由で、その夢を諦めさせることは……果たして『愛』なのでしょうか!?学がない者に建築家への道を閉ざすことは、差別ではないでしょうか!? 手先が不器用な者に外科医への道を閉ざすことは、可能性の否定ではないでしょうか!?」


議場がざわめく。


かつてのエラーラならば、「馬鹿を言うな。不勉強な建築家が建てた家は崩れる。それは無意味な死だ」と一蹴しただろう。


かつてのナラティブならば、「外科医になりたきゃ、手が震えなくなるまで練習してこい」と殴り飛ばしただろう。


かつてのアリシアならば、「適材適所こそが、その人にとっての幸福です」と諭しただろう。


だが、彼女たちはもういない。

残されたのは、「女神の言葉」を聖典として崇め、それを一文字一句たりとも否定できない、純粋培養された「愛の狂信者」たちだけだった。


「そうです……。シュピーゲル博士の言う通りです」


「能力で選別することは、かつてのエラーラ様が否定した『傲慢』ではないか?」


「すべての夢を肯定することこそ、アリシア様の『愛』のはずだ!」


「愛」という言葉の魔力に、理性が麻痺していく。

シュピーゲルは、けして愚者ではなかった。むしろ、ヴェリタスの思想を突き詰めすぎた哲学者だった。

ただ、彼には決定的なものが欠けていた。

「切り捨てる」という決断力。

「区別する」という冷徹さ。

それは、偉大なる三人が、血を流して背負っていた「責任」そのものだった。

こうして、『可能性平等法』が可決された。

それが、崩壊のファンファーレだった。


地獄は、善意の顔をしてやってきた。

とある総合病院。

手術室では、元・ごみ拾いの男が、メスを握っていた。

彼は医学部を出ていない。解剖学も知らない。ただ、「人々を救いたい」という熱い愛だけを持っていた。

シュピーゲルは、彼に医師免許を与えた。「愛があれば、技術は後からついてくる」と信じて。

看護師たちが、患者の腹をでたらめに切り裂いて動揺する執刀医を励ます。

結果は、凄惨だった。

動脈が切断され、鮮血が舞う。患者は激しい苦悶の中で息絶えた。

だが、誰も執刀医を責めなかった。

遺族ですら、涙を流して執刀医の手を握った。

狂っている。

だが、彼らにとって、それは「美しい愛の物語」だった。

技術や結果よりも、「だって頑張ろうと思ったんだから悪くないもん」という「動機」が優先される世界。


橋が崩落し、数十人が死んでも、「みんなのためを思ってやったんだからいいじゃん」と許された。


食中毒でレストランの客が全滅しても、「ほんとは悪いことするつもりなかったんだから」と賞賛された。


建物は歪み、インフラは停止し、上下水道は逆流した。

かつての「理知的な経済都市」は、急速にその機能を喪失していった。

それでも、人々は瓦礫の中で笑っていた。

彼らの目は、現実を見ていなかった。

脳内に植え付けられた「愛のフィルター」を通して、崩壊していく世界を「美しい楽園」だと誤認していたのだ。

そして。

致命的な審判の日が訪れた。


「……南方の密林より、未知の出血熱が上陸しました」


シュピーゲルの元に、報告が入った。

「エボラ出血熱」。

感染すると全身から出血し、内臓が溶け、致死率は90%を超える悪魔の疫病。

かつてのエラーラならば、即座に感染者を隔離し、非人道的なまでの封鎖を行って感染拡大を阻止しただろう。

だが、シュピーゲルは震えた。


「できない……!病に苦しむ人々を、家族から引き離し、孤独の中に追いやるなんて……そんな『愛のない行為』は、ヴェリタスの名において許されない!」


シュピーゲルは、高らかに宣言した。


「扉を開け放て!患者を抱きしめよ!愛の力で、病魔に打ち勝つのだ!」


それは、集団自殺命令に等しかった。

人々は、血を吐いて苦しむ家族を、恋人を、友人を、マスクも手袋もせずに抱きしめた。

彼らは、キスをしてウイルスを共有した。

彼らは、吐血を素手で拭い、その手でパンを分け合った。

感染は、爆発的に広がった。

数日のうちに、王都の人口の半分が、血の海に沈んだ。

通りには死体が累々と積み重なった。

だが、それを焼却処分することも、「死者への冒涜」として禁じられた。

腐敗臭が街を覆い、ハエが黒い雲のように空を埋め尽くした。


「……これも、試練なのです」


シュピーゲルは、血まみれの白衣で、死体の山に向かって祈りを捧げていた。


「我々は試されている。……愛を貫けるか、どうかを」


腐敗した王都に、トドメを刺すものが現れた。

野生の獣たちである。

都市機能が停止し、死臭が充満した街に、山から野犬や狼、魔獣たちが降りてきたのだ。

彼らは飢えていた。そして、何より恐ろしいことに、「狂犬病」に犯されていた。

涎を垂らし、凶暴化した魔狼が、子供に襲いかかる。

だが、母親は、武器を取らなかった。


「ダメよ!その子を傷つけないで!」


母親は、狼に襲われる子供を叱責し、あろうことか、狼を優しく撫でようとした。


「可哀想に……。お腹が空いているのね。病気で辛いのね。……さあ、怖がらないで」


狼の牙が、母親の喉笛を食いちぎった。

鮮血が吹き出す。

それでも、母親は最期まで微笑んでいた。


「……ごめんね……痛かったでしょ……愛してる……わ……」


母親は死んだ。子供も食われた。

誰も抵抗しなかった。

警備兵すら、剣を抜くことを躊躇った。


「病原菌もまた、生き物です」


「彼らに悪意はないのです。ただ生きようとしているだけなのです」


シュピーゲルは、襲い来る狂犬病の犬たちに囲まれながら、恍惚とした表情で説いた。


「受け入れるのです……。自然を。痛みを。死を。……それら全てを愛することこそが、ヴェリタスの……ぷぎっ!?」


彼の言葉は、犬の牙によって物理的に中断された。

喉を食い破られ、内臓を引きずり出されながら、シュピーゲルは思った。


(ああ……これで私は……女神たちに近づけた……)


彼は最後まで、自分が「善人」であることを疑わなかった。

こうして、王都は滅んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ