第4話:希望を知る者(4)
「遅かったな、アリシア。……教育的指導だ。君の愛した『黄金の世界』が、いかに脆いか……理解できたかね?」
エラーラは、掌に残る硝煙を払い、冷ややかにアリシアを見下ろした。
アリシアは、放心していた。
目の前で、愛する人が消えた。
自分の名前を呼びながら、自分のために戦って、ゴミのように捨てられた。
傲慢。
冷酷。
これこそが、最強の魔導師エラーラ・ヴェリタスの真の姿。
アリシアの心の中で、何かが完全に壊れ、そして、どす黒い何かが生まれた。
だが。
その時だった。
「……ぐ、ぅ……?」
エラーラが、不意に胸を押さえてよろめいた。
膝が震え、立っていられなくなる。
視界が霞む。
体内の魔力回路が、急速に凍り付いていくような感覚。
「……これは……?」
エラーラは、自分の首筋に手をやった。
そこには、小さな刺し傷があった。
先ほど、リウが吹き飛ばされる直前。
あの魂を砕く一言を言われ、動揺し、吹き飛ばされたその刹那。
リウは、本能だけで動いていた。
折れた剣ではなく、隠し持っていた「注射器」を、すれ違いざまにエラーラの首筋に突き立てていたのだ。
「ま、さか……あの時……!」
エラーラの顔色が蒼白になる。
あれは攻撃ではなかった。
芸術家としてのプライドを砕かれてもなお、愛する人を守るために残した、最後の「一筆」。
『魔力枯渇剤』。
かつてエラーラ自身が開発し、あまりに危険すぎるとして「南都」の基地局に封印したはずの劇薬。
それを、ナラが持ち出し、アリシアに託していたのか。
「く……そ……。やって、くれる……!」
エラーラの身体から、力が抜けていく。
100万のキメラを操る魔力も、時間を戻す力も、立っているための体力さえも。
世界最強の怪物が、たった一人の画家の、命と引き換えの色彩によって、塗り潰された。
エラーラが、瓦礫の上に倒れ込む。
意識が遠のく。
「お母様ッ!」
ナラが駆け寄る。
戦場には、静寂が戻った。
燃え続ける炎の音だけが響く。
リウはいない。
エラーラは倒れた。
残されたのは、二人の姉妹。
アリシアは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、涙はなかった。
あるのは、リウを奪われた虚無と、それを上書きするほどの、絶対零度の冷徹さ。
彼女は、倒れたエラーラと、それを抱き起こすナラを見据えた。
「……ナラティブ!」
アリシアの声が、鈴の音のように、しかし死刑宣告のように響く。
「そこを退きなさい!」
ナラは、震えながら顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、姉を睨み返す。
その瞳には、姉への愛と、それ以上の「拒絶」が宿っていた。
「……嫌だ……」
ナラは、動かないエラーラを背に庇い、仁王立ちになった。
「リウを殺したのはお母様だ。……でも、殺させたのは、姉さんだ!」
ナラが拳を構える。
魔力はない。武器もない。
あるのは、傷だらけの拳と、引き裂かれた魂だけ。
「ここから先へは行かせない。……お母様を殺すなら、あたしを殺してからにして!」
アリシアは、無表情のまま、懐から小型の魔導銃を取り出した。
リウが命を賭して作った、最初で最後の好機。
これを逃せば、エラーラはいずれ目覚め、世界は終わる。
「……分かりました」
アリシアが銃口を向ける。
「残念ですわ、ナラティブ。……貴女も、痛みから何も学ばなかったのですね」
標的は、最愛の妹。
「……撃ちごらんなさいよ、姉さん」
ナラは、血と煤にまみれた拳を構え、吼えた。
その背には、意識を失った母、エラーラがいる。
彼女は今、世界の敵であり、姉の敵であり、そして守るべき唯一の家族だった。
「その銃で、あたしの心臓を撃ち抜いてみなさいよ!愛だの希望だの言っておきながら、結局は暴力で解決するんでしょ!?」
ナラの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
彼女は絶望していた。
リウが死んだ。お母様が倒れた。
そして大好きだった姉さんが、冷酷な処刑人となって目の前に立っている。
アリシアは、無表情のまま銃口を向けていた。
だが、ナラの絶叫を聞いた次の瞬間。
カラン……。
乾いた音が響いた。
アリシアは、手にした魔導銃を、無造作に放り捨てたのだ。
「……え?」
ナラが呆気にとられる。
「必要、ありませんわ」
アリシアは、純白のドレスの裾を裂き、動きやすい長さに短くした。
そして、ハイヒールを脱ぎ捨て、裸足で熱い瓦礫の大地に立つ。
「貴女の心臓を撃ち抜くには、道具になど、頼りません。……わたくしのこの手で、貴女のその歪んだ魂ごと抱きしめ、そして……砕きます」
「な……何を言って……」
ナラは混乱した。
姉さんは魔力がない。武術の心得もない。
ただの「か弱い聖女」だ。
いくら気合が入っていても、素手で、「最強の戦士」である自分に勝てるはずがない。
「ナラティブ。……来なさい。まさか、怖いのですか?」
アリシアが、静かに挑発した。
「……舐めるなァァァッ!!」
ナラの堪忍袋の緒が切れた。
姉さんは狂った。自分を愚弄している。
なら、叩きのめして目を覚まさせてやる。
ナラが地面を蹴る。
音速を超える踏み込み。
彼女の拳は、岩をも砕き、鋼鉄をも貫く必殺の槍だ。
避けることは不可能。防ぐことも不可能。
「終わりよ、姉さァァン!」
拳が、アリシアの顔面を捉える――その直前。
ナラの視界から、アリシアが消えた。
「なっ!?」
空振りした拳が空を切る。
勢い余ってつんのめるナラ。
その背後に、いつの間にかアリシアが立っていた。
「――ッ!?」
ナラが振り返ろうとした瞬間。
衝撃が走った。
アリシアの拳が、ナラの鳩尾に突き刺さっていた。
「ガ……ッ……!?」
ナラの時が止まる。
痛い。
いや、痛いどころではない。
呼吸が止まるほどの重い一撃。
信じられなかった。
姉さんの細い腕に、これほどの力が?
いや、違う。これは筋力ではない。
「反応、できませんでしたか?」
アリシアは、拳を引かずに淡々と言った。
「当然ですわ。……わたくしは、貴女のすべてを計算し、貴女の意識の『死角』に滑り込んだのですもの」
「けい……さん……?」
「ええ。『最適化』です」
アリシアの碧眼が、冷たく輝く。
「わたくしはこの数年、ただ書類に判を押していたわけではありません。……エラーラの『学』と、ナラティブの『武』。貴女たちを、一番近くで観察し、解析し、そしてわたくしの肉体で再現できるよう、再構築しました」
アリシア・ヴェリタスは、魔力を持たない。
だが、彼女は天才的な頭脳を持っていた。
彼女は、自身の肉体操作を極限まで科学的に突き詰めたのだ。
最小のエネルギーで最大の破壊力を生む角度。
敵の反射神経の隙間を縫うタイミング。
物理法則と心理学を融合させた、完全なる「戦闘の方程式」。
「文武両道。……それが、支配者たるわたくしの到達点です」
「はああああ!?……ふ……ふざけるな……ッ!」
ナラは、痛みをこらえて跳躍した。
地上では分が悪い。
彼女は、瓦礫の山を駆け上がり、まだ辛うじて残っていた時計塔の最上部へと退避した。
「そこから見下ろすつもりですか?でも……無駄ですわ」
アリシアは、追わなかった。
ただ、地面をじっと見つめ、瓦礫の中に埋もれていた一本の太い鉄パイプの露出部分に、裸足の足を乗せた。
「……崩れなさい」
アリシアが、軽く足を踏み下ろした。
それだけだった。
だが、その衝撃は、正確に計算された振動波となってパイプを伝わり、地盤の共振周波数と一致した。
「あえ……?」
時計塔の上にいるナラが、足元の異変に気づく。
揺れている。
地震ではない。建物自体が、悲鳴を上げている。
「まさか……嘘でしょ!?」
時計塔の支柱が、アリシアの送った振動によってへし折れた。
巨大な石造りの塔が、積み木のように崩壊を始める。
「わあああああッ!?」
ナラは空中に放り出された。
足場を失い、落下の重力に捕まる。
だが、彼女は空中で体勢を立て直し、落下してくる巨大な瓦礫を掴んだ。
「これでもッ!!」
ナラは、石塊を、アリシアめがけて投げつけた。
隕石のような質量兵器。
避ければ背後のエラーラに当たる。防ぐには重すぎる。
アリシアは、動かなかった。
彼女は、自分のすぐ横にあった、焼け焦げた大木に手を触れた。
「……守りなさい」
アリシアが、木の幹の「節」の部分を、指先で突いた。
たったそれだけの入力。
だが、すでに火災で脆くなっていた巨木は、その一点の刺激によってバランスを崩し、轟音と共に、アリシアの前へと倒れ込んできた。
ナラが投げた石塊は、倒れてきた巨木の幹に直撃した。
木は粉砕されたが、石塊の軌道は見事に逸れ、アリシアの数センチ横を掠めて地面に激突した。
砂煙が舞う中、アリシアは髪一本乱さずに立っていた。
「な……なんで?……ずるい……」
ナラが地面に着地する。
彼女は戦慄していた。
魔法じゃない。
姉さんは、ただ「木の幹を突いた」だけだ。
それが、あのタイミングで、あの角度で倒れてきて、完璧な盾になるなんて。
偶然? いや、違う。
姉さんは、木の燃え方、風向き、石塊の軌道、そのすべてを瞬時に計算し、「最適解」を選んだのだ。
「言ったはずです。……わたくしは、すべてを学んだと」
アリシアが歩み寄ってくる。
その姿は、もはや人間ではない。
世界の物理法則そのものを味方につけた、絶対的な捕食者。
「エラーラの科学的思考。ナラティブの野生的本能。……その二つを統合し、『愛』という目的のために運用する。貴女に………………勝ち目はありませんわ!」
ナラは後ずさった。
勝てない。
力でも、技でもない。
「次元」が違う。
姉さんは、あたしたちが遊んでいる間に、たった一人で、人間を超越するほどの努力を重ねていたのだ。
「く……くそがよぉぉぉッ!」
ナラは吠えた。
勝ち目がない?知ったことか。
あたしはナラティブ・ヴェリタスだ。
未来の地獄の生き残りだ。
計算?最適化?
そんな綺麗な理屈で、あたしの「根性」が折れてたまるか!
「うおおおおおおッ!」
ナラは突っ込んだ。
防御など考えない。
捨て身の特攻。
アリシアが反応する。正確無比なカウンターが、ナラの顔面を捉える。
ナラの鼻が折れる。血が舞う。
だが、止まらない。
「捕まえたぁぁぁッ!!」
ナラは、被弾の衝撃を利用して回転し、瓦礫の山を蹴って加速した。
アリシアの計算の外側。
合理的判断ではない。
純粋な狂気。
アリシアの目が、わずかに見開かれた。
ナラの拳が、アリシアの腹部に突き刺さる。
「が……ッ!?」
アリシアが初めて声を漏らした。
ドレスの腹部が破れ、衝撃が内臓を貫通する。
致命傷になりかねない一撃。
だが。
アリシアは倒れなかった。
彼女は、衝撃の瞬間、内臓の位置をわずかにずらすことで、衝撃を分散させていたのだ。
それでも、口からは鮮血が溢れた。
「やった……!?」
ナラは確信した。
姉さんも人間だ。血が出る。痛がる。
なら、倒せる!
「うあああああああッ!!」
ナラの拳が唸る。
左右のフック、アッパー、ボディブロー。
涙と鼻水と血にまみれた、泥臭い連撃。
技術も何もない。ただの暴力。
アリシアは、それを避けなかった。
最適化すれば、すべて回避できたはずだ。
カウンターでナラの首を折ることもできたはずだ。
だが、彼女は足を止め、その全てを「受けた」。
「な!?……なんで!なんでよ姉さん!」
ナラが泣きながら殴る。
「なんであたしたち、こんなことしなきゃいけないの!」
殴るたびに、ナラの拳が割れる。
殴られるたびに、アリシアの肌が青く腫れ上がり、骨が軋む。
「あんたが……あんたが完璧すぎるから!」
「あたしもエラーラも、居場所がなくなったんじゃない!」
「寂しかった!怖かった!置いていかれるのが嫌だった!」
ナラの拳には、殺意ではなく、悲しみだけが詰まっていた。
アリシアは、倒れそうになる身体を意志の力だけで支え、その悲しみの雨に打たれ続けた。
(……痛い)
アリシアは思った。
身体の痛みではない。
拳を通して伝わってくる、ナラの魂の叫びが、痛い。
(これが、貴女の痛み。貴女の孤独。……そして、貴女の愛なのですね)
ナラティブ・ヴェリタスは、アリシアを憎んでなどいなかった。
ただ、愛したかった。役に立ちたかった。家族でいたかった。
でも、アリシアの作る「正しい世界」には、自分の「汚れ」は相応しくないと思い込み、暴走したのだ。
(ごめんなさい、ナラティブ。……わたくしが、早く気づいてあげるべきでした)
わたくしは、世界を救うことに夢中で、一番近くにいる家族の心を見ていなかった。
「痛みから守る」と言いながら、貴女に一番深い痛みを与えていたのは、他ならぬわたくしでした。
「ハァ……ハァ……ッ!」
ナラの拳が止まった。
息が切れる。腕が上がらない。
目の前のアリシアは、ボロボロだった。
美しい顔は腫れ、ドレスは血まみれだ。
それでも、彼女は立っていた。
そして、優しく微笑んでいた。
「……気が、済みましたか? ナラティブ」
「……う、うう……」
ナラは、戦意を喪失していた。
殴っても、殴っても、姉さんは倒れない。
それどころか、殴るたびに、姉さんから「愛」が溢れてくるのを感じた。
全部、受け止めてくれている。
あたしの汚い感情も、暴力も、すべてを。
アリシアは、血のついた手で、ナラの頬を撫でた。
「痛かったでしょう。……寂しかったでしょう」
「姉、さん……」
「もう、大丈夫ですわ。……この痛みは、わたくしがすべて引き受けます」
アリシアが一歩、踏み込んだ。
その動きは、先ほどまでの「戦闘」の動きではない。
優雅で、滑らかな一歩。
「ありがとう、ナラティブ」
アリシアが、指を揃えた。
「貴女の痛み、貴女の強さ、貴女の愛。……すべて、わたくしが背負って生きます」
「あ……」
ナラは、避けようとしなかった。
姉さんの瞳があまりに美しくて。
そこにあるのは、底なしの慈愛だけだと、分かってしまったから。
「そして、さようなら。……愛しき妹よ」
アリシアの一撃が、ナラの心臓を、寸分の狂いもなく貫いた。
衝撃はなかった。
痛みもなかった。
ただ、熱い何かが胸に広がり、そして全身の力がふわりと抜けていく感覚だけがあった。
ナラの瞳から、光が消えていく。
その最期の瞬間に、彼女は見た。
アリシアの背後に、黄金の翼が広がっている幻影を。
そして、その翼の下で、リウが、お母様が、そして自分自身が、安らかに眠っている光景を。
(ああ……そっか……)
ナラの口元に、笑みが浮かぶ。
(姉さんは……あたしを、殺したんじゃない)
(あたしを……この「悲しい役目」から、解放してくれたんだ……)
戦士である必要はない。
強がる必要もない。
ただの、大好きな姉さんの妹に戻れる。
「……ありが、と……ねえ、さ……」
ナラティブ・ヴェリタスの身体が、ゆっくりと崩れ落ちた。
アリシアは、その身体を抱きとめた。
まるで、眠りにつく子供を抱きしめるように。
戦場に、静寂が戻った。
アリシアは、腕の中で動かなくなった妹を見つめた。
その顔は、戦士の険しさが消え、憑き物が落ちたように穏やかだった。
「……おやすみなさい、ナラティブ」
アリシアの瞳から、一筋の涙がこぼれ、ナラの頬に落ちた。
それは、勝利の涙ではない。
世界で一番重い、「愛」という名の罪を背負った、女王の血の涙だった。
アリシアは、妹の亡骸をそっと地面に横たえた。
そして、立ち上がった。
背後には、気絶したままのエラーラがいる。
アリシアは、母の元へと歩き出した。
その足取りは重く、傷だらけだったが、決して揺らぐことはなかった。
「……終わらせましょう、おかあさま」
アリシアの声が、夜明け前の空に溶けていく。




