第5話:最期の勝利!
完結篇。
前作「君の名を呼ぶ」を読んだほうが良いかも。
https://ncode.syosetu.com/n8833lb/76
意識が、泥沼の底から浮上する。
耳鳴りがした。
いや、それは耳鳴りではなかった。風の音だ。
そして、何かを啜り泣くような、あるいは祈るような、数千、数万の人々のざわめき。
エラーラ・ヴェリタスは、ゆっくりと目を開けた。
視界が歪んでいる。瓦礫の山。燻る煙。
そして、その灰色の世界の中で、唯一鮮烈な色彩を放つ、純白のドレスと金のケープ。
「……目覚めましたか、おかあさま」
頭上から、冷ややかな声が降ってきた。
エラーラは身を起こそうとして、身体が動かないことに気づいた。魔力が枯渇している。リウが命と引き換えに打ち込んだ毒が、世界最強の魔導師をただの無力な「単なる人間」へと変えていた。
「……アリ、シア……?」
エラーラの視線が、アリシアの足元に吸い寄せられた。
そこで、思考が凍りついた。
そこに、横たわっていたからだ。
漆黒の戦闘ドレスを纏い、まるで眠るように目を閉じた、ナラティブ・ヴェリタスが。
その胸には、一撃で心臓を貫かれた痕跡があった。
動かない。息をしていない。
あの、時空を超えて荒野を生き抜き、どんな怪物も素手で屠ってきた最強の戦士が、物言わぬ肉塊となって転がっていた。
「……え……?」
エラーラの喉から、空気が漏れた。
理解が追いつかない。
ナラが、負けた?
あのナラティブが?
魔力も武力もない、本ばかり読んでいたあのアリシアに?
「嘘だ……。あり得ない……」
エラーラは、震える手でナラの方へ這いずろうとした。
だが、その視界の端に、もっと信じがたい光景が映り込んだ。
周囲を取り囲む、無数の人影。
王都軍の兵士たち。そして、避難命令を解除され、この決戦の地へと集まってきた王都の民衆たちだ。
彼らは、恐怖に逃げ惑ってなどいなかった。
武器を持ち、工具を持ち、あるいはただ互いに手を取り合って、「アリシア」を、静寂の中で見守っていた。
その目にあるのは、アリシアへの、「信頼」と「崇拝」だった。
その瞬間。
エラーラ・ヴェリタスの背筋を、氷のような悪寒が駆け抜けた。
生まれて初めての感情だった。
ドラゴンと対峙した時も、世界の崩壊を目の当たりにした時も、彼女は笑っていた。すべては計算の範疇だったからだ。
だが、今は違う。
彼女は、アリシアを、完全に舐めていた。
魔力を持たない、頭でっかちの理想論者。
「痛みを知らない温室育ち」だと、見下していた。
だからこそ、ナラティブという暴力をぶつければ、必ず捕獲できると踏んでいた。
だが、現実はどうだ。
アリシアは、ナラティブを殺した。
「……どうして……」
エラーラは、目の前に立つ娘を見上げた。
逆光の中で、アリシアの表情は見えない。だが、その立ち姿は、あまりにも巨大だった。
「すべては、計算間違いですわ、おかあさま」
アリシアは、淡々と言った。
「貴女は、魔力と武力を持ちながら、それを『論理』で制御しようとしました。……ですが、わたくしは逆です。論理しかなかったからこそ、魔力と武力を『解析』し、それらを凌駕する『最適解』を導き出したのです」
それは、鏡だった。
かつて、エラーラが夢見た「完全なる人間」の姿。
感情に流されず、目的のために手段を選ばず、痛みすらも糧にして進化する。
エラーラが他者に強要するくせに、自らは体現しきれなかった理想を、アリシアは「愛」という名の燃料を使って、完璧に完成させていたのだ。
「貴女の学は、わたくしの愛に負けたのです」
アリシアは、ナラの亡骸を跨ぎ、エラーラの目の前に立った。
その手には、再び拾い上げられた魔導銃が握られている。
「……選びなさい」
アリシアは、慈悲深く、そして残酷な選択肢を提示した。
「一つ。……このまま、わたくしに処刑されること。貴女は『世界を滅ぼそうとした悪魔』として歴史に名を残し……貴女は、自らの死が何かの役に立ったのだと、勝手な妄想を掲げたまま逃げることができる」
アリシアの銃口が、エラーラの額に向けられる。
「もう一つ。……わたくしに抵抗し、無様に殺されること。貴女は最期まで『娘に殺されるなら本望だ』などという寝言を思い浮かべながら、自己満足の中で死んでいく。……それもまた、現実からの逃避ですわ」
エラーラは、唇を噛み締めた。
どちらを選んでも、アリシアの手のひらの上だ。
死んで礎になるか、死んで満足するか。
どちらも、アリシア・ヴェリタスという支配者が描いたシナリオ通りの「敗者の末路」に過ぎない。
「……君は、悪魔か」
「いいえ。……貴女が作った、最高傑作ですわ」
アリシアは微笑んだ。
その笑顔は、かつてエラーラが愛した、無垢で可愛い娘の笑顔そのものだった。
だからこそ、恐ろしかった。
この娘は、妹を殺し、母を殺そうとしているこの瞬間でさえ、自分が「正しい」と信じて疑っていない。
その狂気的なまでの「愛の正しさ」が、エラーラのちっぽけな「科学の正しさ」を、跡形もなく粉砕していた。
(……ああ、そうか)
エラーラは、瓦礫の上に座り込んだまま、空を見上げた。
夜が明けようとしている。
白み始めた空の下、燃え尽きた学園の煙が、高く昇っていく。
負けたのだ。
愛がなかったから、負けたのだ。
完敗だ。
私の「痛みからの学び」など、この子の「愛による支配」の前では、子供の遊びに過ぎなかった。
この子は、ついに、私を超えたのだ。
ならば、親として最後になすべきことは何か。
悪魔として処刑されることか?
それとも、被害者ぶって殺されることか?
(……違う)
エラーラは、科学者としての思考を捨てた。
論理ではない。計算でもない。
ただ、目の前の、悲しいほどに強く、そして孤独な怪物になってしまった娘のために、何ができるか。
彼女は、懐に手を伸ばした。
アリシアの目が鋭くなる。銃のトリガーに指がかかる。
だが、エラーラが取り出したのは、武器ではなかった。
一本の、古びた試験管だった。
中には、虹色に輝く液体が入っている。
『起源の魔力液』。
エラーラが体内に保有する膨大な魔力の、そのさらに根源となる生命エネルギーを抽出したもの。
これを飲めば、一時的に全盛期以上の魔力を取り戻せる。
アリシアを殺すことも、逃げることもできるかもしれない。
だが、同時に、その代償として肉体は崩壊する。
「……アリシア」
エラーラは、試験管の栓を親指で弾き飛ばした。
「君の言う通りだ。私は逃げていた。他人からも。自分からも。……科学という名の安全地帯へ。論理という名の鎧の中へ」
エラーラは、液体を一気に飲み干した。
全身から、黄金の光が噴き出す。
枯渇していた魔力回路が、悲鳴を上げながら再起動する。
リウの毒すらもねじ伏せる、圧倒的なエネルギーの奔流。
「おかあさま、何を……!?」
アリシアが警戒し、後ずさる。
エラーラは、立ち上がった。
その身体は光に包まれ、ヒビ割れていく。
彼女は、その膨大な魔力を、攻撃には向けなかった。
彼女は、両手を広げ、天に向かって掲げた。
「……術式展開、対象『王都全域』」
エラーラの声が、朗々と響き渡る。
「私の魔力、私の生命、私の存在……そのすべてを『修復』の触媒とする!」
「修復……!?」
「そうだ、アリシア!生き返らせるのではない!君の世界は美しいが、脆い!ナラが壊した街も、私が焼いた学園も、そして……失われた命も!傷跡を残したままでは、君の理想郷は完成しない!」
エラーラは、自らの命を燃やし尽くし、最後の魔法を紡いだ。
それは、時間を巻き戻す魔法ではない。
物質を、生命を、因果律を超えて「在るべき形」へと縫合する、奇跡の治癒魔法。
「馬鹿な……!そんなことをすれば、貴女は……!」
「消滅するさ。……それでいいんだ!」
エラーラは笑った。
それは、マッドサイエンティストの笑みではなく、憑き物が落ちたような、穏やかな笑みだった。
「私は、君の礎にはならない。……ただ、君が愛した世界の一部となって、消える」
光が、王都中に降り注ぐ。
崩れた建物が元に戻っていく。
瓦礫が花に変わる。
傷ついた人々が癒やされていく。
そして、足元のナラの胸の傷が塞がり、その頬に赤みが差していく。
(生き返らせることはできない。だが、せめて綺麗な姿で眠らせてやりたい……)
エラーラの身体が、足元から粒子となって崩れ始めた。
彼女は、最後にアリシアを見た。
銃を下ろし、呆然と立ち尽くす娘を。
私の愛した、最強の娘。
私が歪め、私が育て、そして私を乗り越えた、新時代の神。
アリシアが、万感の想いを込めて、叫んだ。
「……さよなら……さようなら!エラーラ・ヴェリタス!」
エラーラの目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
アリシアの涙は、魂が流す、静かで、なぜだか温かい涙。
エラーラの涙は、罪と、過去への後悔と、そして、今この瞬間に初めて得られた、ほんのわずかな「救い」がぐちゃぐちゃに混ざり合った、熱い涙だった。
エラーラは泣きながら、絞り出すように叫んだ。
それは、真実を求める学者の声ではなく、ただ一人の、不器用な……母の声だった。
「エラーラ・ヴェリタスではないッ!」
アリシアは、涙を浮かべたまま、ただ静かに彼女を見つめ返す。その瞳は、エラーラの深い悲しみを、ただ、そっと受け止めていた。
エラーラは、その無垢な瞳に向かって宣言した。
「…………君を愛する、お母様だ!」
その叫びと共に、光が弾けた。
世界最強の魔導師、エラーラ・ヴェリタスの姿は、朝日の光の中に溶け、金色の粒子となって王都の空へと舞い上がっていった。




