第2話:爆弾と疑心と過信(2)
廊下の向こうから、一人の男が全力疾走してきた。
緑色のジャージ。首から下げた安っぽいホイッスル。そして、暑苦しいほどの笑顔。
このクラスの担任教師、ポポル先生だ。
「テオくぅぅぅーん!先生が来たぞぉぉぉ!」
その声量は、物理的な衝撃波に近い。
私は反射的に鉄扇を構え、彼の前に立ちふさがった。
「止まりなさい!一般人は下がってて!」
私は彼を制止した。
「これはプロの領域よ!あなたみたいな『お花畑』が来ると、事態が悪化するの! 彼は今、社会への憎悪と古代魔術の奔流で爆発寸前なのよ!」
「社会への憎悪?古代魔術?」
ポポル先生は、きょとんとした顔で私を見た。
そして、私の言葉など右から左へ受け流し、あろうことか、あの恐ろしい「空間断裂の結界」に向かって、無防備に突っ込んでいったのだ。
「先生はねぇ!テオ君が心配で、職員会議を抜け出して来たんだぞぉッ!」
「馬鹿!死ぬわよ!」
「よせ!結界に触れればミンチになるぞ!」
私とエラーラが同時に叫ぶ。
世界最強の魔導師でさえ解析不能だった、カオス理論の結界。生身で触れれば、次元の彼方へ飛ばされる――。
乾いた音が響いた。
ポポル先生は、普通に教室のドアを開け、中に入っていった。
「……は?」
私とエラーラは、目を点にして固まった。
結界は?
ポポル先生は何事もなかったかのように、バリケードとして積まれていた机を「よっこらせ」とどかし、テオの元へ歩み寄っていく。
ポポル先生は、爆弾の前に立ち、テオの目線に合わせてしゃがみ込んだ。
テオはビクビクと震えながら、先生を見上げている。
ここで先生は何を言うのか。
「命を粗末にするな」か? 「早まるな」か?
そんなありきたりな言葉で、彼の深い闇が晴れるわけが――
「テオ君!……喧嘩したんだろ?」
先生の口から飛び出したのは、あまりにも予想外で、陳腐な言葉だった。
「え……?」
テオの目が丸くなる。
「ケンタ君の大事なオモチャ、壊しちゃったんだろ? 借りたまま返せなくて、怖くて、学校に来るのが嫌になっちゃったんだろ?」
私とエラーラは顔を見合わせた。
は?
何を言っているの、このジャージ男は。
そんな単純な話なわけがない。
親の過干渉は? 反体制組織の洗脳は?
「……う、うわぁぁぁぁぁん!!」
テオが、堰を切ったように泣き出した。
それは、テロリストの絶望の叫びではなく、ただの子供の泣き声だった。
「わざとじゃなかったんだぁ!手が滑って……!」
「そうかそうか!悲しかったよなあ!」
ポポル先生は、爆弾ごとテオを力強く抱きしめた。
「大丈夫だ!先生と一緒に謝りに行こう!ケンタ君もきっと許してくれる! 怒られるかもしれないけど、嘘をつき続けるよりずっといい!」
先生は、親指を立てて叫んだ。
「いいかテオ君!『ごめんなさい』は勇気の魔法だ!」
「う、うん……謝るぅ……! ごめんなさいぃぃ!」
テオが頷いた瞬間。
赤黒く明滅していた「対消滅爆弾」の光が、フッと消えた。
そして、教室を覆っていた「結界」の禍々しい気配が、霧散した。
数分後。
現場検証と事情聴取が行われた。
その結果、私たち「ヴェリタス探偵事務所」の完璧な推理と分析は……粉々に粉砕された。
爆弾の正体は、テオが理科の実験キットで作った「サプライズ用の手作り花火装置」。
赤黒い光は、電球に絵の具を厚塗りしすぎて色が濁っただけ。
不吉な重低音は、電池ボックスの接触不良によるノイズ音。
結界の正体は、ドアの前に積み上げられた「掃除用具と机のバリケード」。
エラーラが感知した「空間断裂」と「カオス理論の魔力」は、バリケードの隙間から発生していた静電気と、テオがポケットに大量に隠し持っていた「お菓子のオマケの磁石」が干渉して発生した、ただの電波障害だった。
動機は、友達のオモチャを壊してしまい、親にバレるのが怖くて、自分の殻に閉じこもっていただけ。
反体制組織も、家庭の闇も、どこにも存在しなかった。
テオはケンタ君に謝り、二人は泣きながら仲直りした。
ポポル先生は、「いやぁ、子供は素直が一番ですね! これぞ友情パワーです!」と真っ白い歯を見せて爽やかに笑い、去っていった。
残されたのは、規制線の外で呆然と立ち尽くす、私とエラーラだけ。
夕暮れの帰り道。
カラスが鳴いて飛んでいく。
私たちは並んで歩いていたが、その足取りの重さは対照的だった。
「……私は」
エラーラが、幽霊のような声で呻いた。
彼女はうなだれ、地面の石畳を見つめながら歩いている。
「私は、彼が天才的なテロリストだと仮定して、王都の全魔力供給ラインを遮断し、次元隔離結界を展開する準備までしていたのだが……」
彼女の手には、未使用のまま終わった大量の触媒と、複雑怪奇な数式が書かれたメモが握りしめられている。
「科学者として、いや、知性ある大人として、これほどの失態はない。……『あらゆる事態を想定する』と言いながら、実際は『自分の知識で解釈できる最悪の事態』しか想定していなかった……」
エラーラは本気で落ち込んでいた。
彼女のアイデンティティである「論理」と「知性」が、「子供の喧嘩」と「ジャージ教師の精神論」に完全敗北したのだから無理もない。
彼女は今、自分のキャリアと人生を全否定する勢いで猛省モードに入っている。
一方の、私は。
「まあ、いいじゃない」
私の推理も大外れだったわけだが、そんなことはどうでもよかった。
「結果オーライ。誰も死ななかった。学校も吹き飛ばなかった。子供は仲直りした。……これは、『解決』よ」
「……君は恥ずかしくないのか、ナラ。あんな陳腐な正論を振りかざす教師に、主導権を奪われたのだぞ」
「別に?悔しいけど、あの場ではあいつが『正解』だったってだけでしょ」
私はケロリと言い放った。
「私たちは毒されすぎてたのよ。『裏がある』『陰謀がある』って決めつけて、目の前の『単純な事実』を見てなかった。……でも、それは私たちがプロとして『最悪に備えていた』ってことの裏返しでもあるわ」
私は伸びをした。
「今回は、たまたま相手が子供だった。相手が本物のテロリストだったら、私たちの勝ちだった。それだけの話よ」
「……君のその……なんだ……根拠のない前向きな無関心さは、ある種の才能だな」
エラーラが呆れたように、しかし少しだけ救われたように溜息をついた。
「勉強には……なったわ」
私は、エラーラの背中をバンと叩いた。
「世界は、私たちが思っているほど陰湿な場所ばかりではないってことよ。たまには、陳腐な正論が魔法みたいに効いちゃうくらい、単純で優しい場所であってもいいじゃない」
「……ふん。非論理的だが、まあ……否定はできないな」
エラーラは、少しだけ背筋を伸ばした。
「帰るわよお母様。今日の夕飯は、子供向けの甘口カレーにするわ」
「……なぜだね?」
「今の私たちには、そのくらいのレベルがお似合いだからよ!文句ある?」
「……ないね。甘んじて受け入れよう!」
私たちは笑い合い、夕焼けの中を歩き出した。
深読みしすぎた探偵と魔女。
単純であることは、時に最強である。
そんな当たり前の真理を噛み締めながら、ナラティブ・ヴェリタスは今日も、探偵事務所へと帰っていくのだった。




