表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アリシア・ヴェリタス【哲学リョナ小説第3弾】  作者: ギデオン・ヴァンツ@週刊コロッセオ記者
●第7章:ヴェリタスの天秤1 痛みを知る者

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/51

第4話:善意の撮影(3)

王都放送局の巨大な電波塔を仰ぎ見る路上で、レイ・アクトは立ち尽くしていた。先ほどまでモニターの中にいた男、ドイル捜査官の挑発が、まだ耳の奥で鳴り止まない。


『フィルター越しにしか世界を見られない臆病者には、私は殺せないんだよ』


レイは鞄の中のカメラに触れた。指先が微かに震えている。それは恐怖ではなく、極限まで圧縮された怒りだ。

モニターという皮膜は、光を電気信号に変え、命の脈動をデータへと変換してしまう。だから僕の「慈悲」は届かなかった。ならば、直接会えばいい。

ドイルは「カメラマン」という存在を確信しているが、その顔も名前も知らない。

それが、レイに残された唯一の、そして最大の勝機だった。


「……始めようか。カイト、見ていてくれ」


レイは濡れた髪をかき上げ、表情を「塗り替えた」。復讐者の鋭い目は、一瞬にして深い悲しみと絶望に暮れる「被害者の遺族」のそれへと変貌した。


放送局の裏口から出てきたドイルは、疲労を隠そうともせず、タバコに火をつけた。

周囲には数人のSPが配備されていたが、中継を終えた直後の安堵感が、わずかな隙を生んでいた。

そこへ、ふらふらとした足取りで一人の青年が近づいていく。


「ドイル……捜査官、ですか」


SPが即座に動こうとしたが、ドイルがそれを手で制した。青年の瞳に宿る、あまりにも深い、そして見覚えのある「喪失」の色に気づいたからだ。


「……君は?」


「あの中継を見て……どうしても、お会いしたくて」


レイは声を震わせ、その場に膝をついた。


「僕も……奪われたんです。あの『カメラマン』という怪物に」


ドイルの目が鋭く光った。彼はタバコを地面に落とし、靴で踏み消した。


「……話を聞こう。どこか、屋根のある場所で」


二人は近くの、客の途絶えた深夜喫茶に入った。

窓の外を流れる雨粒が、街灯の光を乱反射させている。レイは温かいコーヒーのカップを両手で包み、嘘という名の真実を語り始めた。


「三年前でした。僕の両親は、ある慈善団体のパーティーに参加していました。そこで……一台のカメラを掲げた男が現れたんです。男は両親を撮影し、こう呟きました。『この夫婦は、世界一幸福なまどろみの中で休むべきだ』と」


レイは顔を覆い、嗚咽を漏らす演技をした。


「その翌朝……二人は寝室で死んでいました。幸せそうに微笑んだまま、部屋中に充満したガスを吸って。……通報した近所の人たちは言いました。『あんなに幸せそうな死に顔は見たことがない、きっと神様に愛されたんだ』って! おかしいでしょう!? 殺されたのに、みんなが『良かったね』って笑うんです!」


ドイルは沈黙を守っていた。その瞳の奥には、捜査官としての冷徹な分析と、人間としての激しい憤りが混ざり合っていた。


「……私の推測は正しかったわけだ。あの男は、少なくとも三年前から活動していた」


ドイルはレイの肩に手を置いた。その手の熱さが、レイにはひどく不快だった。


「君、名前は?」


「……レイ。レイ・マクガフィンです」


レイは偽名を名乗った。


「レイ君。誓おう。私は、必ずその『カメラマン』を追い詰める。法の名の下に、彼をこの世から抹殺する。君のような悲劇を、これ以上生ませはしない」


「僕も……協力させてください。ドイル捜査官。僕は、あの男を絶対に許さない。僕たちで、あの悪魔を終わらせましょう」


「ああ。約束だ」


二人は、喫茶店の薄暗い照明の下で固く手を握り合った。

ドイルの正義感。それは、レイが最も憎むべき「無責任な善意」そのものだった。

ドイルは、自分が救おうとしている目の前の青年が、まさにその悪魔本人であるとは露ほども疑っていなかった。


「……さて、捜査の打ち合わせをしよう。君が見た男の特徴を詳しく……」


ドイルが手帳を取り出そうとした時、レイは立ち上がった。


「すみません、お手洗いに。……少し、顔を洗ってきます。なんだか……落ち着かなくて」


「ああ、構わないよ」


レイは洗面所へと向かった。

扉を閉め、鍵をかける。

彼は蛇口を捻り、冷たい水で顔を洗った。滴る水滴を拭いもせず、彼は鞄から古いカメラを取り出した。


(ドイル……君は間違えた。モニター越しでは届かない。だが、物理的な『反射』はどうかな?)


レイは洗面台の大きな鏡を見つめた。

鏡は、光をそのまま跳ね返す。電子信号に変換される中継モニターとは違う。

鏡に映る像は、光学的な「実像」の延長線上にある。

レイは、洗面所の扉を数センチだけ開けた。

そこからは、喫茶店のフロアに置かれた大きなアンティーク調の姿見が見える。

そしてその姿見には、背中を向けて座っているドイルの横顔が、鮮明に反射していた。

レイは、自分の目の前にある洗面所の鏡と、外にある姿見を組み合わせることで、「鏡の合わせ技」による間接的な、しかし確実な光学的捕捉を試みた。

ファインダーを覗く。

鏡を二度経由したドイルの姿は、微かに青ざめて見えた。だが、ピントは完璧に合っている。

鏡を通した光の道筋が、ドイルという対象とレイのカメラを繋いだ。

レイの唇が、呪文を紡ぐ。


「ドイル捜査官。君は王都の平和を守る『盾』だ。……ならば、世界中のあらゆる悪意から、君自身が完璧なシェルターに守られ、永遠に傷つかない場所で称えられるべきだ」


カシャッ。


シャッター音が、洗面所のタイルに反響した。

鏡の向こうで、運命の歯車が噛み合う不気味な音が、レイの耳には聞こえたような気がした。


レイは洗面所を出て、何食わぬ顔でドイルの元に戻った。


「……失礼しました。少し、落ち着きました」


「そうか。辛いことを思い出させて済まなかったな、レイ君」


ドイルは優しく微笑み、立ち上がった。


「今日はもう帰りなさい。連絡先は預かった。進展があればすぐに伝える」


「ありがとうございます。……ドイル捜査官、頑張ってくださいね。あなたが、僕たちの『正義』です」


レイは深々と頭を下げた。

ドイルは力強く頷き、雨の降る夜の街へと消えていった。

レイは、ドイルの背中を見送りながら、静かに呟いた。


「さようなら、正義の味方」


異変が起きたのは、ドイルが警察車両に乗り込もうとした瞬間だった。


「……ドイル捜査官!」


部下の警官たちが、血相を変えて彼を囲んだ。


「どうした、何か緊急事態か?」


「いえ、ドイル捜査官! あなたを守らなければ! 今の放送で、あなたは犯人の標的になった! 我々が、あなたを絶対に傷つけさせない!」


警官たちの目が、一様に異常な輝きを帯びていた。

それは、レイが発動させた「完璧な防御壁に守られるべきだ」という善意の暴走だった。


「おい、何を……離せ! 近すぎる!」


「いけません、ドイル捜査官!弾丸が飛んでくるかもしれない!爆風が届くかもしれない! 隙間があってはいけないんです!」


警官たちは、自分たちの防弾チョッキを脱ぎ、ドイルに被せ始めた。

それだけではない。通りかかったパトカーのドアが外され、ドイルの周囲を囲うバリケードとして積み上げられていく。


「何をしている!狂ったか!やめろ!」


ドイルの叫びは、部下たちの「献身的な」叫びにかき消された。


「ドイル様を死なせない!彼は我々の希望だ!」


「もっと、もっと強固な壁を! 外部の空気にさえ触れさせてはいけない!」


近くにいた工事車両から、急速硬化コンクリートが運び込まれた。

作業員たちは涙を流しながら叫んだ。


「ドイル捜査官を、永遠の安全の中に! これで彼は、誰にも、何ものにも傷つけられない、無敵の英雄になるんだ!」


ドイルの身体は、積み上げられた防弾パネルと、流れ込むコンクリートの濁流に飲み込まれていった。


「やめ……空気が……!」


「大丈夫です、ドイル捜査官! 苦しいのは一瞬です! その後は、誰もあなたに触れられない、完璧な静寂が訪れます!」


王都放送局の正面玄関には、一晩にして奇怪な「彫像」が完成していた。

重厚な防弾パネル、引き剥がされたパトカーのドア、そしてそれらすべてを無慈悲に、しかし丁寧に固め尽くした数トンのコンクリート。その内部には、王都警察の英雄、ドイル捜査官が「保存」されている。


「……皮肉なものだね。守りたかったはずの正義の盾が、自分自身の重みで命を落とすとは」


野次馬と規制線の向こう側で、一人の男がその巨大なコンクリート塊を見上げていた。

白を基調とした隙のないスーツ。銀縁の眼鏡の奥にある瞳は、感情を排した測量計のように冷徹だ。

男の名はアガサ。王都最高知能の持ち主と称され、未解決事件専門の特別顧問として招聘された「思考の怪物」である。

ドイルの死は、王都警察にとって単なる戦力喪失ではなかった。法と秩序に対する、顔の見えない怪物からの「無音の嘲笑」だった。

警察上層部は、ドイルが最後に叫んだ「カメラマン」という存在を追い詰めるため、このアガサという劇薬を投入したのだ。

アガサは、コンクリートの表面を白い手袋をした指でなぞった。


「毒殺ではない。解剖するまでもなく、死因は圧迫による窒息、あるいは内臓破裂。だが問題はそこじゃない。なぜ、訓練された警官たちが、そして善良な市民たちが、狂気に陥ることなく、これほどまで熱心に、笑顔で彼を『埋葬』したのかだ」


アガサの背後には、顔を青ざめさせた捜査官たちが控えていた。


「アガサ先生……。取り調べた警官たちは皆、一様に『彼を助けたかった』『守りたかった』と供述しています。洗脳の形跡も、薬物の反応も、魔法による強制的な精神操作の痕跡も……何一つ見つかっていません」


「当然だろうね。魔法であれば残滓が残る。洗脳であれば人格の歪みが出る。だが彼らは、彼ら自身の自由意志で、ドイルを愛するがゆえに殺したんだ。……これは犯罪じゃない。純粋すぎる『祈り』の具現化だ」


アガサは眼鏡を押し上げ、周囲の喧騒を遮断するように目を閉じた。

彼の脳内では、数万通りの可能性が高速で演算され始めていた。


アガサの捜査は、徹底していた。

彼はまず、ドイルが死ぬ直前に接触した人間をすべて洗い出した。喫茶店の店員、通りすがりの市民、放送局のスタッフ。

そして、そのリストの中には「レイ・マクガフィン」という偽名でドイルに接触したレイ・アクトの存在も含まれていた。

アガサは、レイがドイルと座っていた喫茶店のテーブルを訪れた。


「ここだね。ドイルが最後に対峙した、自称『遺族』の青年が座っていた場所は」


アガサは椅子に座り、ドイルの視線を再現した。


「……ドイルはあの中継で、犯人を挑発した。犯人はテレビ越しでは殺せない。だから直接会いに来た。それはいい。だが、この場所でどうやってドイルを『処刑』した? 指一本触れず、毒も盛らず、暗示もかけずに」


「毒殺はありえない。ドイルの呼気からも皮膚からも、既知の毒物は検出されていない」


次に、魔法的な可能性を捨てた。


「王都に存在するすべての魔力感知器に反応はなかった。禁忌魔法の儀式も行われていない」


さらに、私怨や買収の可能性を洗った。


「ドイルを殺して得をする人間は多い。だが、実行犯である部下たちが買収されるはずがない。彼らの忠誠心は本物だ。……ならば、動機は『悪意』ではなく、やはり『善意』に基づいている」


アガサの知能は、犯人の「手段」を特定できないまま、壁にぶつかっていた。

彼は、犯罪というものを「欠落」や「歪み」から生じるものだと定義していた。金が欲しい、恨みを晴らしたい、支配したい。そうした暗い情熱が、犯罪の種火になると。

だが、この事件には「暗さ」がない。

あるのは、太陽のように明るく、そしてすべてを焼き尽くすほどの「真っ白な善意」だけだった。


「思考を反転させよう。犯人は、悪意を植え付けているのではない。対象への好意を、致命的なレベルまで増幅させているとしたら?」


アガサの呟きは、真実に肉薄していた。だが、その「方法」がわからない。

写真。シャッター音。

ドイルの挑発の中に「カメラマン」という情報はあった。だが、写真を撮ることがどうして運命の改変に繋がるのか、アガサの論理的な思考回路では、その飛躍を埋めることができなかった。


レイ・アクトは、アガサの動向を遠くから観察していた。

王都の喧騒に紛れ、安物のフードを被り、首からは父の形見ではない、どこにでもある大衆向けのカメラを下げて。


(アガサ……。最強の知能、か。君なら僕の正体に辿り着くと思っていたけれど、今のところは空振りのようだね)


レイは自嘲気味に微笑んだ。

アガサの捜査は完璧だ。彼は「証拠」を積み上げ、「論理」で城を築く。

だが、レイの能力は論理の外側にある。

「善意」を凶器に変えるという事象は、科学でも魔法でも説明がつかない。それは、世界が本来持っている「因果律のバグ」を利用したものだからだ。


レイはアガサを今すぐ撮影し、始末することもできた。

だが、彼はそれをしなかった。

ドイルという強敵を失った今、レイは飢えていた。自分の「正義」が、どれだけ高い壁を乗り越えられるのか。自分を「悪」と呼んだドイルの言葉が、アガサのような超知能によってどう補強されるのか。それを確かめたかった。

そして何より、カイトを殺した真犯人……あの窃盗犯を、まだ「裁いて」いない。

警察に捕まったあいつは、今、王都中央刑務所の独房で、国の税金を使って三食昼寝付きの生活を送っている。

「反省しています」「二度としません」

そう言って、司法の保護の下で、ぬくぬくと生きている。


(あいつを、この世で一番『誠実な反省者』にしてあげなきゃいけない。そして、それを邪魔するアガサ。君には、その最前列の観客になってもらうよ)


「先生、休憩を取ってください。もう三日も寝ておられません」


アガサの助手である若い女性刑事が、コーヒーを差し出した。

アガサは、ドイルが最後にいた喫茶店の見取り図と、現場の写真、そして過去の「善意の怪死」のリストを床に広げたまま、彫像のように動かなかった。


「……解けない。解けないパズルはないはずなのに、このピースだけが、形を変え続けているようだ」


アガサの髪は乱れ、トレードマークの白いスーツもしわが寄っていた。

彼は、ある一つの仮説に辿り着き、そしてそれを何度も否定していた。


「……もし、犯人の能力が『運命そのものの書き換え』だとしたら。そしてその発動条件が、対象を『観測』することにあるとしたら。……ドイルが言っていた『カメラマン』という言葉。カメラは、世界を切り取り、固定するための道具だ。……だめだ、飛躍しすぎている。写真に撮るだけで人が死ぬなら、この世は死体で溢れている」


アガサは頭を抱えた。


「毒、魔法、催眠、物理的なトリック……すべてが否定された。残ったのは『ありえないこと』だけだ。……犯人は、人間の心にある『良心』をハッキングしている。だが、どうやって? 無線通信? 電磁波? それとも……」


彼は、ドイルが死ぬ直前に接触した青年の顔を、記憶の底から掘り起こした。


「レイ・マクガフィン。……君は、あの日、何をしていた? 悲しみに暮れる少年のふりをして、君の手には何があった?」


アガサは、現場の監視カメラの死角を再構成した。

ドイルとレイが座っていた位置。鏡の角度。


「……待てよ。ドイルは背中を向けていた。だが、レイの正面には鏡があった。そしてレイの背後にも、姿見があった。……合わせ鏡? 光を屈折させ、視線を『反射』させていたのか?」


アガサの目が、狂気的な光を帯び始めた。


「そうか……!確かにカメラが凶器だったんだ!レンズという『フィルター』や、鏡という『フィルター』は物理だ! 彼は、光学的な実像を保ったまま、ドイルを『捕捉』していた!」


アガサは立ち上がり、叫んだ。


「犯人は、光学の魔術師だ!彼は、レンズを通して世界を再定義している!ターゲットを『善意の檻』に閉じ込めるための、生け贄として!」


その夜、王都中央刑務所。

カイトを殺した犯人、窃盗犯のジャックは、独房の中で怯えていた。


「……俺は捕まったんだ。警察が守ってくれる。ここは安全だ。あんな怪物、入ってこれねえよ」


ジャックは震える手で、配給された夕食のパンを口に運んだ。

その時、独房の小さな窓の外、月明かりを浴びた一人の影が立っていた。

レイ・アクトだ。

彼は静かにカメラを構えた。

ジャックとの距離は遠い。だが、レイのレンズは正確に、ジャックの卑劣な顔を捉えていた。


「ジャック。君は、自分の犯した罪を、心の底から悔いていると言ったね」


レイの声は、風に乗ってジャックの耳に届いた……ような気がした。

ジャックが窓の外を見上げ、レイと目が合った。


「君は、世界で最も『誠実な贖罪者』として、歴史に名を残すべきだ。君の身体は、罪の重さに耐えかねて、一秒ごとに懺悔の涙を流し続けるだろう」


カシャッ。


・・・・・・・・・・


王都中央刑務所の地下。分厚いコンクリートと魔法障壁に守られた特別尋問室で、アガサは一人の男と対峙していた。

カイトを殺した犯人、ジャックだ。


「……話せ、ジャック。君を狙っている『カメラマン』の正体、あるいは君が目撃した『光』についてだ」


アガサの声は冷たく、鋭い。彼の前には、何百枚もの資料と、ドイルが命を落とした現場の光学解析データが並んでいた。アガサは、ドイルが最後に会った「レイ・マクガフィン」という青年が「レイ・アクト」であり犯人「カメラマン」であると確信していた。だが、証拠がない。物理的な接触も、魔力の痕跡も、一切存在しないからだ。


「知らねえよ!俺はただ、あのガキが持ってた金を……! なあ、助けてくれよ、先生! 俺をここから出さないでくれ、外にはあいつがいるんだ!」


ジャックは椅子に縛り付けられたまま、ガタガタと震えていた。

その時だった。


「……ッ!?」


目の前のジャックの瞳から、恐怖が消えた。

代わりに宿ったのは、見たこともないほど澄み切った、狂気的な「善意」の輝きだった。


「……アガサ先生。俺は、なんてことをしてたんだ」


ジャックが、静かに、そして深く呟いた。

その声には、先ほどまでの卑屈さは微塵もない。聖職者のような厳かささえ漂っていた。


「俺は、カイト君という尊い命を奪った。……そして今、目の前にいるあなたは、その罪を暴こうとしている。あなたは正しい。あなたは、この汚れた世界に残された、唯一の『正義の光』だ」


「ジャック、何を言って——」


「先生。俺は、あなたを愛している。あなたがこれ以上、俺のようなクズを相手にして心を汚さないでほしい。……俺が、あなたを救ってあげます。あなたが望む『真実』のために、俺のすべてを捧げさせてください!」


ジャックは、超人的な力で手枷を引きちぎった。筋肉が裂け、血が吹き出すが、彼は微笑んでいた。


「痛くない。これが、俺の『善意』の証だ!」


ジャックはアガサに飛びかかった。殺意ではない。それは、狂おしいほどの親愛と、自己犠牲の押し付けだった。


「先生! さあ、俺と一緒に、この苦しい現世から解放されましょう!」


同時に、尋問室の外からも異変が伝わってきた。


「アガサ先生を守らなければ!」


「彼を、もっと安全な場所へ!」


レイの能力は、ジャックだけでなく、周囲の看守たちの「善意」をも書き換えていた。彼らはアガサを「守る」ために、狂ったように走り出した。


「……これが、ドイルを殺した力か!」


アガサは、生まれて初めて「理論」が通用しない恐怖を味わった。

彼を襲っているのは悪意ではない。世界中が自分を愛し、守ろうとして、その結果として自分の肉体を粉砕しようとしている。

アガサは、ジャックの抱擁を間一髪でかわし、尋問室を飛び出した。


「逃がさない! 先生、外は危険だ! 俺たちの腕の中で眠ってください!」


背後からは血まみれのジャックが、周囲からは「先生に指一本触れさせない!」と叫ぶ看守たちが、笑顔でアガサを追い詰めていく。

アガサは、刑務所の複雑な回廊を駆け抜けた。彼の最強の知能が、生存のための最短ルートを計算する。


(奴は、どこにいる!? カメラマンは、この建物の中に潜り込んでいるはずだ。視認できる距離にいなければ、この現象は維持できない!)


アガサは、混乱の渦中にある刑務所の屋上へと逃れた。

屋上には、冷たい夜風が吹き荒れていた。

アガサは、周囲を警戒した。銃を構え、影の一つ一つを点検する。


「出てこい、カメラマン! 物理的な接触を避けているのはわかっている。だが、この屋上には死角はない! 姿を見せろ!」


アガサは叫んだ。

背後の扉が蹴破られ、ジャックが現れた。


「先生!見つけた!さあ、一緒に飛び降りましょう! 大丈夫、俺が下敷きになって、あなたの着地を『優しく』支えてあげますから!」


ジャックの身体は、すでに限界を超えていた。自らの「善意」に従うために、彼は自分の足を折り、腕をねじ切り、最短距離でアガサの元へ辿り着こうとしたのだ。

アガサは、ジャックを銃で威嚇しながら、周囲を索敵し続けた。

だが、屋上には誰もいない。

隠れられる場所も、カメラを構えられる場所も。


(……いない? どこにもいないだと?)


アガサの思考が、一瞬停止した。

彼は「カメラマンは近くにいる」という、ドイルの遺した推論に縛られていた。


「……アガサ先生。君の知能は、確かに最強だ。……でも、レンズの進化を、少しだけ過小評価していたね」


風に乗って、聞き覚えのある声が聞こえた。

それは、屋上から聞こえたのではない。

アガサの胸ポケットに入っていた、ドイルの形見である無線機からだった。


王都の中央、刑務所から二キロメートル離れた場所にある時計塔。

その最上階の暗がりに、レイ・アクトはいた。

彼の前には、巨大な三脚に据え付けられた、天体観測用にも匹敵する超望遠レンズを装着したカメラがあった。

レイは、そのレンズ越しに、刑務所の屋上で狼狽えるアガサの姿を、鮮明に捉えていた。


「ドイルを殺したのは、鏡の反射だ。……でも、アガサ。君のような『賢すぎる悪人』には、もっとシンプルで、もっと暴力的な『善意』が必要だ」


レイは、ファインダーの中のアガサの心臓に、レティクルを合わせた。

二キロの距離。大気の揺らぎ。だが、レイの能力にとって、距離は意味をなさない。

「光」が届き、レンズが像を結んでいる限り、そこには因果律の糸が繋がっている。


「アガサ。君は、自分の知能ですべてを解き明かそうとした。……それは、この世界に対する、あまりにも真摯な『愛』だ」


レイの指が、静かに、優しく、レリーズに触れる。


「君は、その偉大な知能に相応しい、究極の『答え』に触れるべきだ。……重力という、この世で最も公平で、誰をも平等に愛する力が、君を大地へと迎え入れるだろう」


カシャッ。


シャッター音が、静かな時計塔の中に響いた。


刑務所の屋上。

アガサの耳に、かすかな、風の鳴るような音が届いた。


「……あ」


次の瞬間、アガサの周囲の世界が変貌した。


「アガサ先生! 危ない!」


ジャックが叫びながら、アガサにタックルした。

だが、その意図は「突き落とす」ことではなかった。

屋上のフェンスが、老朽化による腐食によって、まるでアガサを「外の世界へ送り出す」かのように、優しく、音もなく崩れ落ちたのだ。


「先生! 足元が危ない! 俺が支えます!」


ジャックがアガサの足を掴んだ。

だが、その力は支えるためではなく、アガサと共に「地上の真実」を確認するために、彼を下へと引きずり下ろす力となった。


「……しまっ……!」


アガサの脳が、瞬時に落下速度と衝撃を計算した。

死ぬ。確実に死ぬ。

だが、彼の知能は同時に、周囲のあらゆる物質が自分を「殺し」に来ているのではなく、「祝福」しようとしていることに気づいてしまった。

空気抵抗さえもが、アガサの姿勢を「最も美しい形」に整えようと働き、風は彼の耳元で「お疲れ様」と囁いた。

アガサを追って、看守たちも次々と屋上から身を投げた。


「先生を一人にしない!」


「我々がクッションになって、彼の最期を飾りましょう!」


夜空に、白い制服の男たちが、星のように降り注ぐ。

彼らは空中で手を取り合い、アガサを囲むようにして、巨大な「善意の輪」を作った。


「……ああ」


アガサは、落下の最中、眼鏡が飛んでいくのを見た。

視界がぼやける中、彼はようやく理解した。

カメラマン——レイ・アクトが、なぜ「善意」を武器にするのか。

悪意には抵抗できる。憎しみには、知能で対抗できる。

だが、純粋な愛と、献身と、祈りに満ちた暴力に、人はどうやって抗えばいいのか。

地面が、恋人のように両手を広げて迫ってくる。

アガサは、最期の瞬間に、笑った。

それは、最強の知能が、解けないパズルの答えを見つけた時の、満足げな笑みだった。

凄まじい衝撃音が、刑務所の敷地内に響き渡った。

中心にアガサ。その周囲を、彼を守ろうとして先に地面に叩きつけられたジャックと看守たちの肉体が、幾重にも重なる「人間のクッション」となって埋め尽くしていた。

だが、重力という愛は平等だった。

クッションになった者たちも、その中心にいたアガサも、衝撃を逃がすことはできなかった。

彼らは、一つの巨大な、肉と善意の塊となって、静かに動かなくなった。


時計塔の暗室。

レイ・アクトは、最後の一枚を現像液から引き上げた。

そこには、二キロの彼方から捉えた、落下する直前のアガサの顔が写っていた。


「……いい顔をしてるじゃないか、アガサ」


レイは、その写真をドイルの写真の隣に並べた。

カイトを殺したジャック。彼を追ったドイル。そして、すべてを解き明かそうとしたアガサ。

彼らは皆、平等に、レイが作り出した「平和」という名の祭壇に捧げられた。

レイはカメラを丁寧にメンテナンスし、鞄に収めた。

彼の目的は、まだ達成されていない。

王都には、まだ偽善が溢れている。

「平和のために」と軍備を増強する政治家。「子供たちの未来のために」と環境を破壊する企業家。

彼らすべてを、救済しなければならない。

レイは、誰もいない夜の街へと歩き出した。

首から下げたカメラが、街灯の光を反射して、銀色に鈍く光る。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ