第7話:楽園の崩壊(7)
ネスト総合病院の吹き抜けになったロビーには、午後の日差しが白い大理石の床に反射し、眩いほどの光を湛えていた。
「リウ。……少し、席を外させていただきますわ。……医師に話を聞いて参ります」
アリシアは優雅に微笑んだ。その笑顔には、一点の曇りもないように見えた。
だが、リウの半獣人としての勘は、アリシアの背中から立ち上る、張り詰めた糸のような緊張を感じ取っていた。
アリシアはカフェテリアを出ると、エレベーターには乗らず、階段を使った。
一段、また一段。
その足音は、重く、そして確実だった。
「……ヴェリタス長官?おお!まさか、ご本人がいらっしゃるとは」
研究棟の奥まった部屋。
迎えたのは、白髪の老医師、シュタイナー博士だった。彼はかつて、聖アフェランドラ学園の校医も務めており、エラーラとも親交があった人物だ。
突然の国賓級の来訪に、老医師は驚き、慌てて白衣の襟を正した。
「お久しぶりです、先生。……今日は、個人的に、確認したいことがあって参りました」
アリシアは、勧められた椅子には座らず、立ったまま老医師を見据えた。
「単刀直入にお聞きします。……先ほど、わたくしは、奇妙な夫婦に会いました。彼らは、『数年前に手放した娘』を探していると言っていました」
アリシアは、カフェテリアに残してきた夫婦の特徴と、彼らが語った言葉を淡々と伝えた。
そして、問いかけた。
「わたくしには、アフェランドラ学園に入学する前の記憶が曖昧な部分があります。両親は事故で死んだと、エラーラからは聞いていました。ですが……あの夫婦を見た時、魂が震えたのです。……あの夫婦が探している『娘』とは……一体、誰なのですか?」
シュタイナー博士は、アリシアの話を聞くにつれ、その表情を強張らせていった。
彼は困惑し、そして信じられないものを見るような目でアリシアを見た。
「……長官。いや、アリシア様」
老医師の声が震えていた。
「貴女は……本気で、そう、仰っているのですか?」
「はい?」
アリシアが小首をかしげる。
「その夫婦が探している『娘』が誰なのか……本当にお気づきではないのですか?」
「ええ。ですから、こうして記録を確認しに……」
「……ああ、なんてことだ!」
シュタイナー博士は、頭を抱えた。
そして、意を決したように、鍵のかかった厳重な保管庫から、一冊の分厚い、古びたカルテを取り出した。
「アリシア様。……そのご夫婦が探している『娘』とは……」
医師は、悲痛な面持ちで告げた。
「他ならぬ、貴女ご自身のことですよ」
時が、止まった。
アリシアの思考が空白になる。
「ど、どういう……ことですの? わたくしの両親は、事故で亡くなったと……エラーラが……」
「それは、ヴェリタス博士がついた『嘘』です」
老医師は、残酷な真実を語り始めた。
「貴女は、もともと良家の令嬢として生まれ、聖アフェランドラ学園に入学されました。あのご夫婦……実のご両親は、魔力を持たない貴女の、類まれな美貌と学力を総合的に判断し、『投機』として貴女を学園に入れたのです」
シュタイナー博士は、カルテのページをめくった。
そこには、数年前の日付で、凄惨な事故の記録が残されていた。
「しかし、悲劇は起きました。……『事故』です」
アリシアのこめかみに、激痛が走った。
脳の奥底で、封印された扉がガタガタと揺れる。
「貴女の親友たち……セラフィナ、ロザリンド、ライラ、カエリア。彼女たちは全員、即死でした。……生存者は、貴女ただ一人」
記憶の蓋が、軋みを上げて開いていく。
炎。叫び声。鉄の匂い。
『どうして私だけ?』
『どうしてあの子たちが?』
「貴女は、壊れてしまいました。……その惨劇には、『学び』などなかった。ただ、そこには『喪失』だけがあった。貴女は心身喪失状態となり、廃人同然となってしまったのです」
医師は、さらに残酷な事実を告げた。
「実のご両親は、廃人となった貴女を見て『名家に傷がつく』『投機の失敗だ』と言い放ち、貴女の治療を放棄して……貴女を捨てたのです」
アリシアの足元が揺らいだ。
捨てられた。
愛されて生まれたわけでも、悲劇のヒロインとして死別したわけでもない。
ただ、投機の役に立たなくなったから、実の親に捨てられたのだ。
「そんな貴女を拾い上げたのが、当時、学園に犯罪捜査の一環として来ていたエラーラ・ヴェリタス博士でした」
医師は、カルテの最後のページを開いた。
そこには、養子縁組の書類と、エラーラの震える筆跡で書かれた術式の同意署名が記されていた。
「ヴェリタス博士は、決断したのです。貴女を生かすために、貴女の『心』を殺すことを。……禁忌の記憶消去術式。貴女の脳から、友人たちの記憶と、それに付随する『喪失の苦しみ』、そして貴女を捨てた両親の記憶を、……切除したのです」
そして、エラーラは記憶を失ったアリシアを養女とし、そのまま何食わぬ顔で学園に在籍させ続けた。
「両親は事故で死んだ」という記憶を植え付けて。
「……そう、いうこと、でしたのね」
アリシアは、自分の胸に手を当てた。
わたくしが、なぜこれほどまでに「痛み」を拒絶するのか。
なぜ、「苦しみから学べる」というナラティブやエラーラの言葉に、本能的な嫌悪感を抱いていたのか。
なぜ、誰も傷つかない世界を、狂おしいほどに求めたのか。
それは、単なる甘えでも、お花畑の理想論でもなかった。
ナラティブは、スラムの暴力から「生き抜く強さ」を学んだ。
エラーラは、実験の失敗から「成功への論理」を学んだ。
彼女たちの「実体験主義」は、正しい。彼女たちの人生においては、痛みは教師だった。
だが、わたくしは違った。
わたくしの「実体験」は、友の理不尽な死だ。
そこには、何の学びもなかった。
「次は気をつけよう」?
「運が悪かった」?
「これを糧に強くなろう」?
そんな言葉で片付けられるほど、人の命は軽くない。
ただ悲しくて、ただ痛くて、ただ無意味な喪失。
友が死んで、わたくしが賢くなったわけではない。
ただ、友が、いなくなっただけだ。
「……先生」
アリシアが顔を上げた。
その表情は、穏やかで、かつてないほどの力強さに満ちていた。
「ありがとうございます。……すべて、理解しました」
「ア、アリシア様……?相当なショックを……」
「いいえ。……わたくしは今、感動しているのです」
アリシアの碧眼から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
それは悲しみの涙ではなかった。
「わたくしの『博愛』は……まがい物ではありませんでした」
アリシアは、自分自身を抱きしめるように腕を組んだ。
記憶を消されても。
過去を奪われても。
わたくしの「魂」は、覚えていたのだ。
あの地獄のような喪失の痛みを。無意味な死の虚しさを。
だからこそ、記憶を失った「新しいアリシア」は、無意識のうちに叫び続けていたのだ。
『もう誰も、傷ついてほしくない』
『意味のない痛みを、子供たちに味わわせたくない』
『あんな思いをするのは、わたくし一人で十分だ』
「わたくしの信念は……まぎれもなく、エラーラやナラティブと同じ、『実体験』から生まれた血肉だったのですわ」
アリシアは、涙を流しながら微笑んだ。
自分の信じてきた道は、間違いではなかった。
悪意が渦巻く王都を、愛の言葉だけで浄化したあの奇跡。
あれは、温室育ちの世間知らずが起こした奇跡ではない。
地獄を見て、そこから「愛」という結論を掴み取った魂が、世界を揺り動かした必然の結果だったのだ。
アリシアは、その場に崩れ落ちるように膝をつき、顔を覆って咽び泣いた。
嬉しい。
自分が、記憶を失ってもなお、魂だけで愛を信じ、愛を貫き通した自分の強さが、誇らしい。
そして、そんなわたくしの愛に、世界が応えてくれたことが、たまらなく愛おしい。
「……生きていて、よかった……」
友は死んだ。記憶は消された。親には捨てられた。
それでも、わたくしは、わたくしの「魂」は、今、愛を知っている。
そして、わたくしが守った多くの人々の笑顔がある。
ひとしきり泣いた後。
アリシアが立ち上がった時、その瞳に宿っていたのは……鋼の意志。
そして、確固たる「使命」の炎だった。
(エラーラ・ヴェリタス)
アリシアの中で、母の名が、明確な「標的」へと変わった。
貴女は、わたくしを生かすために記憶を消した。それは貴女なりの愛でしょう。
ですが、貴女は今、この国に再び「痛みからの学び」を植え付けようとしている。
それは、わたくしの過去を、わたくしの友人の死を、冒涜する行為です。
貴女は、わたくしを生かしましたが……わたくしの魂の叫びを、何ひとつ理解してはいなかった。
アリシアは立ち上がった。
ドレスの裾を払い、凛と背筋を伸ばす。
(わたくしは、貴女を超えてみせます。無意味な痛みなど、この世界には必要ない。わたくしが、この身をもって、証明してみせます!)
それは、憎悪を超えた、高潔な断罪の決意。
愛ゆえに、愛を否定した母を討つ。
それが、わたくしの「愛」の証明。
アリシアは、老医師に一礼し、踵を返した。
その足取りは、王の行進のように力強かった。
カフェテリアに戻ると、夫婦はまだデザートを貪っていた。
リウが、疲れた顔でコーヒーを飲んでいたが、アリシアの姿を見るなり、ハッとして立ち上がった。
アリシアは、夫婦のテーブルへと歩み寄った。
「の、遅かっちゃっじゃねっかあ姉ちゃん。待ちくたびっつぉ!」
「で?聞けたんけ?あーしたちの娘の居場所おー」
夫婦が、下品な笑みを浮かべて尋ねる。
彼らは気づいていない。
目の前にいる、この高貴で、美しく、成功した女性こそが、かつて自分たちが「不良品」として捨てた娘だということに。
彼らの目は節穴だ。
愛なき者には、愛の結晶であるアリシアの正体など、永遠に見えないのだ。
アリシアは、彼らの正面に立ち、静かに、しかし冷徹な声で告げた。
「ええ。確認が取れましたわ。娘さんの名前は、アリシア。……アリシアというそうですね」
夫婦の顔色が強張る。名前を当てられた驚きと、成功の確信。
「そ!そそそそ!そだよ!アリシアだ!昔から好きだった!でーあいつはどこ?ほら早く!」
「彼女は、亡くなりました」
「……はぁ?」
夫婦の動きが、完全に止まった。
「……彼女は、身寄りもなく、たった一人で、寂しく息を引き取りました」
アリシアは、瞬き一つせずに嘘をついた。
いいや、事実だ。
「親に捨てられ、無力で泣いていた、あなたたちの娘」は、確かに、あの時、死んだのだ。
今、ここに立っているのは、その死を乗り越え、自らの意志で「愛」を選び取った、新しいアリシア・ヴェリタスなのだから。
「……死んだぁ?なんでえ?金のなる木!返せよ!金返せよ!だって聞いたぞ金のなる木!」
「嘘だーろ?じゃー金は?え?どうなんだよ! あのガキの金は!あーも!あーーー!」
「ありません。治療費ですべて消えました」
アリシアは、冷徹にとどめを刺した。
「……チッくそ!なんだあ、そりゃあ!」
男がテーブルを叩き、椅子を蹴倒した。
夫婦は口々に罵倒を吐き出した。
「……お気の毒様でした。」
アリシアの声は、無感情だった。
彼らに対する怒りすら、もう湧かなかった。
彼らは、ただの「過去」だ。
わたくしが乗り越えた、小さな通過点に過ぎない。
夫婦は、悪態をつきながら席を立った。
彼らは、最後まで、目の前の女性が自分の娘だと気づくことはなかった。
そして、去り際に、男がふと振り返った。
「……そや姉ちゃん。あんち名前なんて言うん?」
「……え?」
「メシ奢っちくりた礼だ。名前くらあ覚えといてやッよ。なんかあんた、死んだ娘にちょっと似てるしなァ!」
男は、ニタニタと笑った。
アリシアは、一瞬、虚空を見つめた。
かつての自分なら、ここで泣き崩れていただろうか。
「私です、お父さん、お母さん」……などと縋っていただろうか。
だが、今の彼女は違う。
過去は死んだ。
アリシアは、ゆっくりと、彼らを見据えた。
その碧眼が、氷の刃のように、そして断罪の槌のように、彼らを貫く。
「……ネメシス」
「あ?」
「……ネメシス・ヴェリタスとでも、言っておきましょうか」
「……はあ……?ま、いいや!」
夫婦は、手をひらひらと振りながら、カフェテリアを出て行った。
彼らは知らない。
自分たちが捨てた娘が、今、目の前で、自分たちとの血の縁を永遠に断ち切ったことを。
そして、その娘が、これから彼らのような「愛なき者たち」を断罪し、世界を書き換える、最強の支配者へと変貌したことを。
「……ネメシス」
リウが、呆然と呟いた。
「義憤……神の罰……。アリシア、貴女は……まさか……」
アリシアは、リウの方を向き、ふわりと微笑んだ。
その笑顔は、どこか悲しく、しかし、神々しいほどに美しかった。
涙の跡が、ダイヤモンドのように頬で輝いていた。
「さあ、行きましょう、リウ。……仕事が、山積みですわ」
アリシアは、ハイヒールの音を高く響かせながら、歩き出した。
その背中には、かつてないほどの威厳と、覚悟が漂っていた。
「見ていらっしゃい、おかあさま。……わたくしの愛が、貴女の論理を食い尽くす様を!」




