第5話:Palm
主題歌:掌
https://youtu.be/42JXfCgYfiU?si=4P2fABg9vehFeSZN
王都中央病院。
アリシアは、ベッドの上で書類を見つめていた。
彼女の身体は包帯で幾重にも巻かれ、その下の肌には、まだ生々しい無数の刺し傷と火傷の跡が残っている。だが、彼女が今感じている痛みは、肉体のものではない。
震える指先が掴んでいるのは、彼女が不在だった7日間のうちに、長官代行であるエラーラ・ヴェリタスが発令した「新教育指針」の決裁書だった。
『過保護な教育からの脱却。適度な競争による生存本能の喚起。「痛み」を回避するのではなく、「痛み」から学び、克服する強き個の育成』
文字が、躍っていた。
それは、アリシアが拷問を受けている最中に、犯人たちが嘲笑いながら吐き捨てた言葉と、一言一句違わぬほどに酷似していた。
「……あ……はは……」
乾いた笑いが漏れた。
わたくしが、地下の暗闇で、ナイフで肉を切り裂かれながら否定し続けた理論。
「痛みから学べることなどない」というわたくしの魂の叫び。
それを、あろうことか……一番信頼していた「母親」が、公的な文書として否定し、国中に布告していたのだ。
これは、教育方針の変更ではない。
これは、アリシア・ヴェリタスという人間への「否定」だ。
あの拷問の日々を「有意義な時間だった」と肯定する、魂への拷問だ。
そして何より、あの地獄から生還した娘に対する、冷酷極まりない「絶縁状」だった。
「……長官。いかがなさいますか?即時に撤回命令を……」
側近が不安そうに尋ねる。
アリシアは、ペンを握りしめた。
怒りで視界が真っ赤に染まる。今すぐこの書類を破り捨て、元の「愛の教育」に戻さなければならない。
そう思った瞬間だった。
「……ッ!?」
激しい頭痛が、アリシアのこめかみを貫いた。
脳の奥底で、何かが軋む。
「愛」?
「教育」?
わたくしは、なぜそこまで「痛み」を忌避するのですか?
ただの優しさ? いいえ、違う。
かつて、わたくしは……何かを、失ったのではないですか?
(……思い出せませんわ)
記憶の欠落。
まるで、都合の悪いページだけが、本から切り取られたような違和感。
過去に、取り返しのつかない「喪失」があった気がする。
その苦しみは、学びなど一切なく、ただわたくしを壊しただけの無意味な悲劇だった気がする。
だが、その「悲劇」の正体が思い出せない。
誰かが、記憶を消した?
感情ごと、封印した?
そんな高度な精神干渉魔術を行使できる人間は、この王都に一人しかいない。
(……エラーラ!)
アリシアの碧眼から、光が消えた。
代わりに宿ったのは、氷のような、静かで冷たい殺意に近い「疑念」。
いや、それはもう疑念ではない。確信だ。
あの方は、わたくしを愛していないから助けなかっただけではない。
あの方は、わたくしの過去を改竄し、わたくしを自分の理想の「実験体」にするために、ずっとコントロールしていた。
「……長官?」
「ふふ。……このままで、結構ですわ」
アリシアは、決裁書にサインをした。
側近が驚愕して目を見開く。
「ええ……?よろしいのですか? これは、貴女様の理念とは……」
「ええ。エラーラ代行の判断を尊重します」
アリシアは微笑んだ。
アリシアは、エラーラを「母」というカテゴリから削除し、「宿敵」というフォルダへと移動させはじめた。
感情は一切表に出さない。
ただ、その心の中で、復讐の炎だけが静かに燃え上がっていた。
・・・・・・・・・・
一方その頃。国防教育省、長官代行室。
「なぜだ……なぜアリシアは面会を拒絶する?」
エラーラは、執務机の前で頭を抱えていた。
アリシアが救出されてから3日。
エラーラは毎日病院へ足を運んでいた。だが、病室の前には屈強な警備兵が立ち塞がり、「面会謝絶」の一点張りだった。
エラーラは本気で狼狽えていた。
彼女にとって、7日間の捜索活動は「全力を尽くした」結果だった。見つけられなかったのは計算外の事故であり、愛がなかったわけではない。
そして、教育方針の変更もまた、彼女なりの「愛」だった。
『アリシアのような被害者を二度と出さないために、子供たちに危機管理能力と耐性をつけさせるべきだ』
その論理的帰結が、あの「痛みから学ぶ」カリキュラムだったのだ。
「……あんた、本当に、『バカ』……ね」
部屋のソファで、ナラが呆れ果てた声を出した。
彼女は、窓の外を睨みつけながら、爪を噛んでいる。
「姉さんが怒ってるのは、あんたのその『正論』に対してよ。なんで痛みに『共感』してあげないのよ!なんで……なんで、拷問された直後に『痛みは勉強になる』なんて言われて、なんで……喜ぶ人間が!喜ぶ人間が!どこにいるのよ!」
「だが、事実は事実だ。……それに、私はアリシアのために、彼女の事務負担を減らそうと……」
「事実ぅ!?……余計なお世話なのよ!あんたのその『善意』が、一番姉さんを、他人を傷つけてるって、どうして!なんで分からないの!?」
ナラは叫び、クッションを壁に投げつけた。
彼女もまた、苛立っていた。
アリシアを助け出したのは自分だ。
誰よりも姉さんを心配し、泥まみれになって戦ったのは自分だ。
それなのに、姉さんは自分にさえ面会を許可してくれない。
(姉さん……どうして? あたしのことも、信じられなくなっちゃったの?)
ナラは知らなかった。
アリシアの元には、「ナラティブ・ヴェリタスが面会申請に来た」という報告すら届いていなかったことを。
エラーラが余計な混乱を避けるために、ナラの行動を制限していたのだ。
そしてアリシアは、その事実を知る由もなく、「ナラティブは一度も見舞いに来ない」と思い込んでいた。
ナラは、自分の掌を見た。
「もういい!あたしは勝手に行く!警備兵なんかぶっ飛ばしてでも、姉さんに会いに行く!」
「待つんだナラ君!今騒ぎを起こせば、アリシアの立場が悪くなる!」
「離して!姉さんが……姉さんが独りで泣いてるかもしれないのに!」
親子の声が、空しく響く。
・・・・・・・・・・
夜。
病院の特別室は、死のような静寂に包まれていた。
(ナラティブ……貴女も、来ないのですか)
アリシアは膝を抱え、包帯だらけの自分を抱きしめた。
助けてくれた時の、あの温かさは嘘だったのか。
結局、彼女もエラーラの娘。
世界から切り離されたような感覚。
信じていた「家族」という地盤が崩れ去り、自分だけが深淵に浮かんでいる。
控えめなノックの音がした。
警備兵ではない。看護師でもない、独特のリズム。
「……どなた?」
「……夜分に失礼しますわ。画家……いえ、ただの通りすがりの不審者です」
ドアが静かに開き、隙間から顔を出したのは、リウだった。
彼女の手には、巨大なキャンバスではなく、小さな花束と、バスケットが握られていた。
「リウ……様……」
アリシアの目が大きく見開かれた。
なぜ、ここに?
家族でさえ入れないこの部屋に。
「警備の方とは、少々『芸術的な交渉』をしましてね。……これ、お見舞いですわ」
リウは悪戯っぽくウインクをして、ベッドの脇に花を飾った。
「……ナラティブは?おかあさまは?」
アリシアは、期待と恐怖が入り混じった声で尋ねた。
リウは、少し困ったように眉を下げるだけだった。
ナラティブが本当に来たかったら、壁を壊してでも来るはずだ。来ていないということは、やはり彼女の中でわたくしの優先順位が下がったのだ。
家族でもないリウ様だけが、こうして危険を冒して会いに来てくれた。
その事実は、アリシアの心を複雑に引き裂いた。
最愛の妹への失望と、目の前の「他人」への感謝。
そして、思想的には相容れないはずのこの女性だけが、今、自分を「一人の人間」として扱ってくれているという皮肉。
「……痛みますか?」
リウが……優しく聞いた。
その問いかけは、「痛みから学べ」という押し付けではない。
ただ純粋に、アリシアの苦痛を案じる、人間としての問いかけだった。
「……ええ。痛いですわ。……傷も、心も」
アリシアの声が震えた。
張り詰めていた糸が切れる。
彼女は、リウの手を掴んだ。
「リウ様……」
「はい」
「わたくしは……憎いのです。あの人たちが。あの理論が。……わたくしを『痛み』という檻に閉じ込めようとする、世界すべてが」
アリシアの瞳から、どす黒い炎が見えた。
聖女の仮面が剥がれ落ち、傷ついた獣のような本性が露わになる。
普通なら、その激しい情念に怯えるだろう。
だが、リウは逃げなかった。
「……ええ。存じておりますわ」
リウは、掴まれた手首を解き、逆にアリシアの手を両手で包み込んだ。
彼女の手は、絵の具で荒れていたが、とても温かかった。
「すべてがあたしには、悲痛なほど……美しく見えます。……貴女は今、誰よりも人間らしい」
リウは、アリシアを肯定した。
聖女である必要はない。
博愛主義者である必要もない。
ただ、傷つき、怒り、泣き叫ぶ一人の女性としてのアリシアを、リウだけが受け入れた。
突然、アリシアが動いた。
彼女は身を乗り出し、リウの首に腕を回して、強く抱きしめた。
「ッ……!?」
リウが息を呑む。
「リウ様……貴女だけですわ。わたくしのこの地獄を、直視してくださるのは」
アリシアは、リウの肩に顔を埋めた。
リウは、ナラティブと同じ「感覚派」だ。
だからこそ、瞬時に読み取った。
アリシアの抱える闇の深さを。エラーラへの決定的な不信感を。そして、世界への復讐にも似た、破滅的な願望を。
(ああ……なんてこと)
リウの心臓が、早鐘を打つ。
彼女はずっと、自分を偽っていた。
「あたしは獣人が好き」。
「ナラティブのような、野性的で生命力に溢れた存在こそが至高」。
そう公言していた。
だが、それは嘘だ。
リウ・ヴァンクロフトは、人間と獣人のハーフ。
どちらの世界にも属せない、「半端者」のコンプレックス。
だからこそ、彼女は本当に憧れるもの――「純粋な知性」「洗練された美」「高潔な魂」を持つエルフに対して、引け目を感じていた。
高嶺の花だと諦めていた。自分のような雑種が触れていい相手ではないと、自らに言い聞かせていた。
だから、わざと逆のタイプが好きだと吹聴し、道化を演じていたのだ。
けれど今。
その「高嶺の花」が、傷つき、汚れ、堕ちてきている。
自分の腕の中で、震えている。
その脆さが、その闇が、リウの理性を焼き尽くすほどに愛おしかった。
「……アリシアさん」
「リウ様」
アリシアが顔を上げる。
至近距離で見つめ合う二人。
アリシアの碧眼は、涙で濡れながらも、妖しい光を放っていた。
「私と、来てくれますか。……地獄の果てまで」
それは、悪魔の契約だった。
正義も、倫理も、家族の絆さえも捨てて。
ただ二人で、この痛みに満ちた世界に復讐するための、共犯者への誘い。
断るべきだ。
ナラティブの親友として。エラーラの理解者として。
「家族」を取り戻させるべきだ。
でも。
でも、リウの魂は、叫んでいた。
『この人を、誰にも渡したくない』
『この人の地獄なら、喜んで業火に焼かれたい』
「じ……実のところ、えーと……へへ……」
リウは、震える声で告白しようとした。
「あ、あたしは……貴女のことが、狂おしいほど……」
好きだった。
最初に出会ったあの日から。
その気高い魂に触れた瞬間から。
尻尾が好きなんて嘘だ。貴女のその白い肌が、その知性が、その弱さが、欲しくてたまらなかった。
言葉にしようとした。
だが、それは形にならなかった。
アリシアの顔が近づき、リウの唇を塞いだのだ。
「……んっ!?」
思考が停止する。
アリシアは、リウを愛し始めていた。
それは、溺れる者が藁を掴むような、依存的な愛。
家族に裏切られた彼女にとって、思想が違い、種族が違い、それでも「個」として自分を見てくれるリウだけが、唯一の救いだった。
数秒の後、唇が離れる。
アリシアは、とろんとした瞳でリウを見つめ、囁いた。
「わたくしの色に、染まってくださいませ」
リウは、抗えなかった。
抗うつもりもなかった。
彼女はアリシアの背中に腕を回し、その身体をきつく抱きしめ返した。
「……ええ。お望みのままに」
窓の外で、雷鳴が轟いた。




