第3話:さらば愛しき日常!
王都の空は、どこまでも高く、青く澄み渡っていた。
国防教育省、長官執務室。
「――長官。第4区画の初等教育院より、カリキュラムの試験導入に関する報告書が届いています」
「ありがとう。……ふふ、あそこの先生、最初は『綺麗事だ』と反対されていましたけれど。子供たちの笑顔を見て、随分と考えが変わったようですわね」
書類に目を通すアリシアの横顔は、窓から差し込む陽光に照らされ、聖画のように美しかった。
純白のドレスの上に、長官の証である薄紅色のケープを羽織る。その姿は、今の王都において「絶対的な善」の象徴だった。
彼女がサイン一つすれば、予算が動き、学校が建ち、飢えた子供たちにパンが行き渡る。
かつて、自分の美貌を呪い、無力さに震えていた少女はもういない。
ここにあるのは、知性と博愛で国を導く、強き指導者の姿だ。
「長官。本日のスケジュールは以上です。……少しお早いですが、お帰りになられますか?」
秘書が遠慮がちに尋ねる。アリシアは時計を見た。まだ陽は高い。
だが、今日は特別だった。
数週間ぶりに、まとまった休みが取れそうなのだ。
「ええ……帰りますわ。わたくしの、本当の家へ」
アリシアはペンを置き、立ち上がった。
その瞬間、張り詰めていた「長官」としての仮面がふわりと解け、年相応の、家族を想う女性の柔らかな笑みがこぼれた。
ここでの仕事は充実している。自分の理想が形になり、世界が優しくなっていく手応えがある。それは間違いなく、アリシアにとっての「インテリジェンス」としての幸福だった。
けれど、彼女の魂の充電器は、この豪華な執務室にはない。
彼女が帰るべき場所は、もっと雑多で、薬品の匂いがして、騒がしくて、温かい場所。
「車を回して。……急いで」
アリシアの心はすでに、王都の坂を下り、あの古びたレンガ造りの建物へと飛んでいた。
「ヴェリタス探偵事務所」。
その看板は、長年の風雨に晒されて塗装が剥げかけている。
だが、アリシアにとって、その剥げた塗装の一つ一つさえもが愛おしい。
車を降り、SPたちを帰すと、アリシアは深呼吸をした。
消毒液と、動物の獣臭さと、そして微かに漂う……焦げたコーヒーの匂い。
「ただいま戻りましたわ」
軋むドアを開けた瞬間だった。
「姉さん!」
黒い旋風が巻き起こったかと思うと、アリシアの身体は強烈な衝撃と共に抱きすくめられていた。
ナラティブだ。
漆黒のドレスはあちこち煤で汚れ、髪にはどこかの猫の毛がついている。だが、その瞳は宝石のように輝いていた。
「お帰り! お帰りなさい! 遅いよ姉さん! あたし、待ちくたびれて干からびるところだった!」
「ふふ、ただいま、ナラティブ。……少し力が強いですわ。肋骨がきしんでいます」
「あっ、ごめん! ……だって、会いたかったんだもん」
ナラは慌てて腕を緩めるが、それでもアリシアの腰に手を回したまま離れようとしない。
かつてスラムで「狂犬」と呼ばれた彼女は、今も街の探偵として荒事の中に身を置いている。だが、こうしてアリシアに甘える時だけは、無防備な妹の顔になる。
「やれやれ。私の研究所の前で騒がないでくれたまえ。顕微鏡のピントがずれる」
奥の部屋から、白衣をひるがえしてエラーラが現れた。
相変わらずのボサボサの銀髪に、片手に持ったビーカー。その姿は何一つ変わっていない。
だが、その青い瞳は、アリシアを見るなり優しく細められた。
「……お帰り、アリシア。元気そうで何よりだ」
「ええ、おかあさま。……そのビーカーの中身、また怪しげな色をしていますわね。夕食のスープに混ぜないでくださいましよ?」
「失敬な。これは新型の栄養剤だ。味は保証しないが、摂取すれば三日は不眠不休で活動できるぞ?」
「却下ですわ。……今日は、普通のシチューにしましょう」
アリシアが言うと、エラーラとナラは顔を見合わせ、表情を明るくした。
「姉さんのシチュー!」
「ほう、それは……極めて合理的な栄養補給の提案だね」
「さあ、着替えてきますわ。ナラティブ、エプロンを出しておいて」
アリシアは階段を上がる。
一段上るごとに、肩に乗っていた国の重責が剥がれ落ちていく。
ただの「アリシア」に戻っていく。
この瞬間が、何よりも幸せだった。
その夜の食卓は、いつにも増して賑やかだった。
「それでね、姉さん! 下水道の巨大ネズミを追い詰めたと思ったら、実は密輸組織の運び屋だったのよ! 鉄扇で一網打尽にしてやったわ!」
ナラがスプーンを振り回しながら武勇伝を語る。
彼女の頬にはシチューのソースがついている。
「まあ、危ないことはありませんでしたか? 貴女はすぐに無茶をするのですから」
アリシアがナプキンでナラの頬を拭う。その手つきは、どこまでも自然で、慈愛に満ちている。
「平気よ。あたしにはお母さま特製の『衝撃吸収コルセット』があるし……何より、姉さんが待ってると思ったら、絶対死ねないもん」
「ふむ。ナラ君の戦闘データを見る限り、反射速度が0.05秒向上している。私のコルセットの性能もさることながら、彼女自身の『帰巣本能』が身体能力をブーストさせているようだね?」
エラーラは、パンをシチューに浸しながら、満足げに分析する。
彼女の前には、シチューには致命的に合わないはずの、泥のように濃いブラックコーヒーが置かれている。
「おかあさま、食事中にその液体を飲むのはやめていただけません? 見ているだけで胃が痛くなりますわ」
「何を言うかい。カフェインとホワイトソースの融合だよ。……それに、アリシア。君だって紅茶を飲んでいるじゃないか」
アリシアの手元には、湯気を立てる琥珀色の紅茶。
珈琲派のエラーラとナラティブ。紅茶派のアリシア。
香りの違うカップが同じテーブルに並ぶ。その不協和音こそが、ヴェリタス家の調和だった。
「……美味しいですわ」
アリシアは、一口シチューを食べて、ふと呟いた。
自分で作った味だ。特別な材料など何も使っていない。
王都の最高級レストランで出される料理の方が、味はずっと洗練されているはずだ。
けれど、この味には勝てない。
ナラが野菜を不揃いに切った形跡や、エラーラが隠し味だと言って入れた謎のスパイスの風味。
それらが混ざり合って、「家族」の味がする。
「ずっと……こうしていたいですわね」
アリシアの言葉に、ふと二人の手が止まった。
ナラが、少し心配そうにアリシアを覗き込む。
「姉さん? ……なんか、疲れてる?」
「いいえ。……ただ、幸せすぎて、怖いくらいですの」
アリシアは微笑んだ。
窓の外は夜の闇に包まれているが、この部屋は暖炉の火とランプの光で黄金色に満たされている。
かつて、孤独だった。
かつて、捨てられた。
かつて、絶望した。
そんな三人が、こうして一つのテーブルを囲み、明日も明後日も一緒にいられると信じている。
それは、奇跡のような日常だった。
「……怖がることはないさ」
エラーラが、マグカップを置いて言った。
彼女の声は、科学者のそれではなく、不器用な母親の声だった。
「世界は流動的だ。形あるものはいつか崩れる。……だが、『絆』という概念だけは、物理法則の彼岸にある。私が証明した。君たちが証明した」
エラーラは、ゴツゴツとした手で、アリシアの手をそっと覆った。
「君がどこへ行こうと、どれほど偉くなろうと……ここは君の『巣』だ。いつでも羽を休めに来ればいい」
「そうよ! 誰が何と言おうと、あたしが姉さんを守るから! 国防教育省が襲われても、あたしが一番に駆けつけて、全員ぶっ飛ばして助け出すから!」
ナラが力こぶを作ってみせる。
アリシアは、視界が滲むのを感じた。
「……ええ。ありがとう。……愛していますわ、お二人とも」
「もう、湿っぽいなぁ! ほら、姉さん、デザートのプリン食べよ!」
「ああ、糖分は脳の活性化に不可欠だ」
笑い声が、夜空に溶けていく。
時計の針は進む。
残酷なほど正確に、その時を刻んでいく。
誰も知らなかった。
この温かなシチューの湯気が、三人で囲む最後の夕食になることを。
・・・・・・・・・・
翌朝。
王都は、昨日と同じように晴れ渡っていた。
朝日が獣病院の窓ガラスを打ち、埃さえもキラキラと輝かせている。
アリシアは早起きをして、いつものように身支度を整えた。
鏡の前で、純白のドレスに袖を通す。
髪を丁寧に巻き上げ、薄紅色のケープを羽織る。
鏡の中にいるのは、もう「甘えん坊の娘」ではない。「国防教育省長官」の顔だ。
リビングに降りると、エラーラとナラが起きていた。
いつもなら寝坊助の二人だが、アリシアが帰る日は、必ずこうして起きてくる。
「おはよう、姉さん。……もう、行っちゃうの?」
ナラが、少し眠そうな目をこすりながら近づいてくる。
彼女の手には、アリシアの靴が握られていた。丁寧に磨かれた、純白のハイヒール。
「おはよう、ナラティブ。ええ、今日は議会がありますから。……靴、磨いてくれたのですか?」
「うん。……姉さんが、綺麗な場所を歩けるように」
ナラがひざまずき、アリシアに靴を履かせる。
それはまるで、騎士が姫に仕えるような、敬虔な仕草だった。
「ありがとう。……ナラティブ、貴女も気をつけて。危険な依頼はほどほどに」
「分かってるって。あたしは無敵だもん」
ナラが立ち上がり、笑った。
その笑顔は、太陽よりも眩しかった。
「アリシア」
エラーラが、コーヒーカップ片手に近づいてきた。
彼女は眩しそうにアリシアを見上げ、そして不器用に、アリシアのケープの襟を直した。
「……立派になったな」
短い言葉。
だが、そこには万感の思いが込められていた。
魔力を持たず、美貌という呪いに苦しんでいた少女が、今や国を背負って立っている。
自分の科学でも、ナラティブの武力でも届かない場所で、世界を変えている。
「行ってらっしゃい」
「ふふ。……行って参ります、おかあさま」
アリシアは、二人を交互に見た。
銀髪の、愛すべきマッドサイエンティスト。
黒髪の、頼もしい最強の妹。
いつもの風景。
いつもの別れ。
「またね」と言えば、「またね」と返ってくるはずの、永遠に続くはずのループ。
「週末には、また戻りますわ。リウ様も呼んで、お茶会をしましょう」
「賛成! リウのやつ、また変な絵を描いてくるわよきっと」
「では、茶葉のストックを確認しておこう」
アリシアは微笑み、ドアノブに手をかけた。
「行ってらっしゃい、姉さん!」
「行ってらっしゃい、アリシア」
二人の声を背中に受けて、アリシアは扉を開けた。
溢れ出す朝の光。
街の喧騒。
迎えに来た魔導車。
アリシアは一歩、外へ踏み出した。
そして、いつものように振り返り、優雅に手を振った。
「ごきげんよう。……愛していますわ」
扉が閉まる音がした。
それは、本を閉じる音に似ていた。
アリシアは車に乗り込み、窓から遠ざかる獣病院を見つめた。
二階の窓から、ナラが手を振っているのが見える。エラーラも、カーテンの隙間から見送っているはずだ。
「……長官。お顔色が優れませんが?」
「……いいえ。少し、胸が詰まっただけですわ」
アリシアは胸元を押さえた。
なぜだろう。
いつもと同じ別れなのに。
なぜか、今、猛烈に引き返したい衝動に駆られる。
扉を開けて、もう一度二人を抱きしめたい。
「行きたくない」と泣き叫びたい。
(……変ですわね、わたくしったら)
アリシアは首を振り、自分に言い聞かせた。
また会える。
夜には通信が入るし、週末には帰れる。
あそこは、わたくしの「巣」なのだから。
魔導車は角を曲がり、獣病院は見えなくなった。




