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アリシア・ヴェリタス【哲学リョナ小説第3弾】  作者: ギデオン・ヴァンツ@週刊コロッセオ記者
・●第9章:ヴェリタスの天秤3 楽園の崩壊

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第3話:さらば愛しき日常!

王都の空は、どこまでも高く、青く澄み渡っていた。

国防教育省、長官執務室。


「――長官。第4区画の初等教育院より、カリキュラムの試験導入に関する報告書が届いています」


「ありがとう。……ふふ、あそこの先生、最初は『綺麗事だ』と反対されていましたけれど。子供たちの笑顔を見て、随分と考えが変わったようですわね」


書類に目を通すアリシアの横顔は、窓から差し込む陽光に照らされ、聖画のように美しかった。

純白のドレスの上に、長官の証である薄紅色のケープを羽織る。その姿は、今の王都において「絶対的な善」の象徴だった。

彼女がサイン一つすれば、予算が動き、学校が建ち、飢えた子供たちにパンが行き渡る。

かつて、自分の美貌を呪い、無力さに震えていた少女はもういない。

ここにあるのは、知性と博愛で国を導く、強き指導者の姿だ。


「長官。本日のスケジュールは以上です。……少しお早いですが、お帰りになられますか?」


秘書が遠慮がちに尋ねる。アリシアは時計を見た。まだ陽は高い。

だが、今日は特別だった。

数週間ぶりに、まとまった休みが取れそうなのだ。


「ええ……帰りますわ。わたくしの、本当の家へ」


アリシアはペンを置き、立ち上がった。

その瞬間、張り詰めていた「長官」としての仮面がふわりと解け、年相応の、家族を想う女性の柔らかな笑みがこぼれた。

ここでの仕事は充実している。自分の理想が形になり、世界が優しくなっていく手応えがある。それは間違いなく、アリシアにとっての「インテリジェンス」としての幸福だった。

けれど、彼女の魂の充電器は、この豪華な執務室にはない。

彼女が帰るべき場所は、もっと雑多で、薬品の匂いがして、騒がしくて、温かい場所。


「車を回して。……急いで」


アリシアの心はすでに、王都の坂を下り、あの古びたレンガ造りの建物へと飛んでいた。


「ヴェリタス探偵事務所」。

その看板は、長年の風雨に晒されて塗装が剥げかけている。

だが、アリシアにとって、その剥げた塗装の一つ一つさえもが愛おしい。

車を降り、SPたちを帰すと、アリシアは深呼吸をした。

消毒液と、動物の獣臭さと、そして微かに漂う……焦げたコーヒーの匂い。


「ただいま戻りましたわ」


軋むドアを開けた瞬間だった。


「姉さん!」


黒い旋風が巻き起こったかと思うと、アリシアの身体は強烈な衝撃と共に抱きすくめられていた。

ナラティブだ。

漆黒のドレスはあちこち煤で汚れ、髪にはどこかの猫の毛がついている。だが、その瞳は宝石のように輝いていた。


「お帰り! お帰りなさい! 遅いよ姉さん! あたし、待ちくたびれて干からびるところだった!」


「ふふ、ただいま、ナラティブ。……少し力が強いですわ。肋骨がきしんでいます」


「あっ、ごめん! ……だって、会いたかったんだもん」


ナラは慌てて腕を緩めるが、それでもアリシアの腰に手を回したまま離れようとしない。

かつてスラムで「狂犬」と呼ばれた彼女は、今も街の探偵として荒事の中に身を置いている。だが、こうしてアリシアに甘える時だけは、無防備な妹の顔になる。


「やれやれ。私の研究所の前で騒がないでくれたまえ。顕微鏡のピントがずれる」


奥の部屋から、白衣をひるがえしてエラーラが現れた。

相変わらずのボサボサの銀髪に、片手に持ったビーカー。その姿は何一つ変わっていない。

だが、その青い瞳は、アリシアを見るなり優しく細められた。


「……お帰り、アリシア。元気そうで何よりだ」


「ええ、おかあさま。……そのビーカーの中身、また怪しげな色をしていますわね。夕食のスープに混ぜないでくださいましよ?」


「失敬な。これは新型の栄養剤だ。味は保証しないが、摂取すれば三日は不眠不休で活動できるぞ?」


「却下ですわ。……今日は、普通のシチューにしましょう」


アリシアが言うと、エラーラとナラは顔を見合わせ、表情を明るくした。


「姉さんのシチュー!」


「ほう、それは……極めて合理的な栄養補給の提案だね」


「さあ、着替えてきますわ。ナラティブ、エプロンを出しておいて」


アリシアは階段を上がる。

一段上るごとに、肩に乗っていた国の重責が剥がれ落ちていく。

ただの「アリシア」に戻っていく。

この瞬間が、何よりも幸せだった。


その夜の食卓は、いつにも増して賑やかだった。


「それでね、姉さん! 下水道の巨大ネズミを追い詰めたと思ったら、実は密輸組織の運び屋だったのよ! 鉄扇で一網打尽にしてやったわ!」


ナラがスプーンを振り回しながら武勇伝を語る。

彼女の頬にはシチューのソースがついている。


「まあ、危ないことはありませんでしたか? 貴女はすぐに無茶をするのですから」


アリシアがナプキンでナラの頬を拭う。その手つきは、どこまでも自然で、慈愛に満ちている。


「平気よ。あたしにはお母さま特製の『衝撃吸収コルセット』があるし……何より、姉さんが待ってると思ったら、絶対死ねないもん」


「ふむ。ナラ君の戦闘データを見る限り、反射速度が0.05秒向上している。私のコルセットの性能もさることながら、彼女自身の『帰巣本能』が身体能力をブーストさせているようだね?」


エラーラは、パンをシチューに浸しながら、満足げに分析する。

彼女の前には、シチューには致命的に合わないはずの、泥のように濃いブラックコーヒーが置かれている。


「おかあさま、食事中にその液体を飲むのはやめていただけません? 見ているだけで胃が痛くなりますわ」


「何を言うかい。カフェインとホワイトソースの融合だよ。……それに、アリシア。君だって紅茶を飲んでいるじゃないか」


アリシアの手元には、湯気を立てる琥珀色の紅茶。

珈琲派のエラーラとナラティブ。紅茶派のアリシア。

香りの違うカップが同じテーブルに並ぶ。その不協和音こそが、ヴェリタス家の調和だった。


「……美味しいですわ」


アリシアは、一口シチューを食べて、ふと呟いた。

自分で作った味だ。特別な材料など何も使っていない。

王都の最高級レストランで出される料理の方が、味はずっと洗練されているはずだ。

けれど、この味には勝てない。

ナラが野菜を不揃いに切った形跡や、エラーラが隠し味だと言って入れた謎のスパイスの風味。

それらが混ざり合って、「家族」の味がする。


「ずっと……こうしていたいですわね」


アリシアの言葉に、ふと二人の手が止まった。

ナラが、少し心配そうにアリシアを覗き込む。


「姉さん? ……なんか、疲れてる?」


「いいえ。……ただ、幸せすぎて、怖いくらいですの」


アリシアは微笑んだ。

窓の外は夜の闇に包まれているが、この部屋は暖炉の火とランプの光で黄金色に満たされている。

かつて、孤独だった。

かつて、捨てられた。

かつて、絶望した。

そんな三人が、こうして一つのテーブルを囲み、明日も明後日も一緒にいられると信じている。

それは、奇跡のような日常だった。


「……怖がることはないさ」


エラーラが、マグカップを置いて言った。

彼女の声は、科学者のそれではなく、不器用な母親の声だった。


「世界は流動的だ。形あるものはいつか崩れる。……だが、『絆』という概念だけは、物理法則の彼岸にある。私が証明した。君たちが証明した」


エラーラは、ゴツゴツとした手で、アリシアの手をそっと覆った。


「君がどこへ行こうと、どれほど偉くなろうと……ここは君の『巣』だ。いつでも羽を休めに来ればいい」


「そうよ! 誰が何と言おうと、あたしが姉さんを守るから! 国防教育省が襲われても、あたしが一番に駆けつけて、全員ぶっ飛ばして助け出すから!」


ナラが力こぶを作ってみせる。

アリシアは、視界が滲むのを感じた。


「……ええ。ありがとう。……愛していますわ、お二人とも」


「もう、湿っぽいなぁ! ほら、姉さん、デザートのプリン食べよ!」


「ああ、糖分は脳の活性化に不可欠だ」


笑い声が、夜空に溶けていく。

時計の針は進む。

残酷なほど正確に、その時を刻んでいく。

誰も知らなかった。

この温かなシチューの湯気が、三人で囲む最後の夕食になることを。


・・・・・・・・・・


翌朝。

王都は、昨日と同じように晴れ渡っていた。

朝日が獣病院の窓ガラスを打ち、埃さえもキラキラと輝かせている。

アリシアは早起きをして、いつものように身支度を整えた。

鏡の前で、純白のドレスに袖を通す。

髪を丁寧に巻き上げ、薄紅色のケープを羽織る。

鏡の中にいるのは、もう「甘えん坊の娘」ではない。「国防教育省長官」の顔だ。

リビングに降りると、エラーラとナラが起きていた。

いつもなら寝坊助の二人だが、アリシアが帰る日は、必ずこうして起きてくる。


「おはよう、姉さん。……もう、行っちゃうの?」


ナラが、少し眠そうな目をこすりながら近づいてくる。

彼女の手には、アリシアの靴が握られていた。丁寧に磨かれた、純白のハイヒール。


「おはよう、ナラティブ。ええ、今日は議会がありますから。……靴、磨いてくれたのですか?」


「うん。……姉さんが、綺麗な場所を歩けるように」


ナラがひざまずき、アリシアに靴を履かせる。

それはまるで、騎士が姫に仕えるような、敬虔な仕草だった。


「ありがとう。……ナラティブ、貴女も気をつけて。危険な依頼はほどほどに」


「分かってるって。あたしは無敵だもん」


ナラが立ち上がり、笑った。

その笑顔は、太陽よりも眩しかった。


「アリシア」


エラーラが、コーヒーカップ片手に近づいてきた。

彼女は眩しそうにアリシアを見上げ、そして不器用に、アリシアのケープの襟を直した。


「……立派になったな」


短い言葉。

だが、そこには万感の思いが込められていた。

魔力を持たず、美貌という呪いに苦しんでいた少女が、今や国を背負って立っている。

自分の科学でも、ナラティブの武力でも届かない場所で、世界を変えている。


「行ってらっしゃい」


「ふふ。……行って参ります、おかあさま」


アリシアは、二人を交互に見た。

銀髪の、愛すべきマッドサイエンティスト。

黒髪の、頼もしい最強の妹。

いつもの風景。

いつもの別れ。

「またね」と言えば、「またね」と返ってくるはずの、永遠に続くはずのループ。


「週末には、また戻りますわ。リウ様も呼んで、お茶会をしましょう」


「賛成! リウのやつ、また変な絵を描いてくるわよきっと」


「では、茶葉のストックを確認しておこう」


アリシアは微笑み、ドアノブに手をかけた。


「行ってらっしゃい、姉さん!」


「行ってらっしゃい、アリシア」


二人の声を背中に受けて、アリシアは扉を開けた。

溢れ出す朝の光。

街の喧騒。

迎えに来た魔導車。

アリシアは一歩、外へ踏み出した。

そして、いつものように振り返り、優雅に手を振った。


「ごきげんよう。……愛していますわ」


扉が閉まる音がした。

それは、本を閉じる音に似ていた。

アリシアは車に乗り込み、窓から遠ざかる獣病院を見つめた。

二階の窓から、ナラが手を振っているのが見える。エラーラも、カーテンの隙間から見送っているはずだ。


「……長官。お顔色が優れませんが?」


「……いいえ。少し、胸が詰まっただけですわ」


アリシアは胸元を押さえた。

なぜだろう。

いつもと同じ別れなのに。

なぜか、今、猛烈に引き返したい衝動に駆られる。

扉を開けて、もう一度二人を抱きしめたい。

「行きたくない」と泣き叫びたい。


(……変ですわね、わたくしったら)


アリシアは首を振り、自分に言い聞かせた。

また会える。

夜には通信が入るし、週末には帰れる。

あそこは、わたくしの「巣」なのだから。

魔導車は角を曲がり、獣病院は見えなくなった。

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