第2話:不可能犯罪(2)
「科学者特有の言葉遊びですか?証拠は完璧だ」
「完璧な証拠など、ここには存在しないよ」
エラーラは、手元のタブレットを操作し、法廷の巨大スクリーンに波形データを投影した。
「まずは『音響学的』な矛盾から解き明かそう。
検察は、ナラティブがジュリアンに肉薄し、ゼロ距離で『プロメテウスの針』を放ったと主張した。確かに、遺体の脳は内側から蒸発している。これは術者が対象の頭部に手をかざし、座標を固定しなければ発動しない術式だ」
エラーラは指示棒で波形の一部を拡大する。
「だが、通報記録に残されたナラティブの声……『バカなことはやめて!』という叫び声の成分分析を見てみたまえ。ここにある微細な反響音。これは、書斎の壁や床に反射して受話器に届いた音だ。この遅延時間から逆算すると、彼女の発声位置は受話器から約4.2メートル離れていることになる」
法廷がざわめく。
「現場の見取り図と照らし合わせると、4.2メートルという距離は、書斎の『入り口ドア付近』だ。つまり、彼女は部屋に入った瞬間に叫んでいる。そしてその0.8秒後には、破裂音が響いている」
エラーラは陪審員に向き直った。
「人間が0.8秒で4メートルを移動し、さらに複雑な術式構築を行い、発動させることは、物理的に不可能だ。彼女が音速を超えて移動したか、あるいは時を止めたのでない限りね」
「詭弁だ!」
ギルバートが机を叩く。
「被告人は優秀な探偵だ!独自の『遠距離射撃術式』を開発していた可能性が高い!あるいは、あらかじめ術式をセットしていたのかもしれない!」
「なるほど、遠距離射撃か」
エラーラは鼻で笑った。
「では、次の矛盾はどう説明する?」
エラーラは、ナラの両手の写真をモニターに映し出した。
赤黒く焼け焦げた、痛々しい掌。
「検察はこれを『魔法を行使した反動』だと言った。だが、魔導工学の基礎中の基礎だが……魔法を行使する際、魔力は『放出点』から放射される。したがって、過負荷による熱傷は、指先から指の腹にかけて発生するのが通例だ」
エラーラは、ナラの掌の中心、生命線のあたりにある火傷を指し示した。
「しかし、彼女の傷を見てくれたまえ。指先は綺麗だ。爪も焼けていない。火傷が集中しているのは『掌の中心』だ。そして、その焼け方はではなく、『内包状』……つまり、何かを包み込んだ形になっている」
エラーラは静かに、しかし力強く告げた。
「これは、魔法を放った痕ではない。『目の前で暴発しようとする高密度の魔力の塊を、物理的に手で握りつぶして止めようとした』痕跡だ」
会場の空気が変わる。
攻撃ではなく、防御。
殺意ではなく、救済。
「ナラティブは、4メートル先から叫びながら駆け寄った。そして、ジュリアンの頭部で展開されようとしている術式に気づき、とっさに手を伸ばし、その発動点を素手で覆い隠して止めようとしたのだ。だが、間に合わなかった。術式は彼女の手の中で発動し、漏れ出した余波が彼女の掌を焼いた。……これが、物理的痕跡から導き出される唯一の真実だ」
ギルバート検事は脂汗を流しながらも食い下がる。
「そ、想像の域を出ません!彼女が防御したというなら、誰が撃ったというのですか!密室には二人しかいなかった!被害者が自分で自分を撃ったとでも!?それに、彼女が遠隔術式を使った可能性も否定されていない!」
「しつこいね、検事さん。それは無理だよ。なぜなら……」
エラーラは哀れむような目で検事を見た。
そして、チラリと被告人席の娘を見た。
ナラティブは、これから起こることを察して、深く、深く項垂れていた。
「……お母様。まさか……お願い、それだけは」
「すまないねえ、ナラ君。命には代えられないんだよ」
エラーラは、法廷の巨大スクリーンに、「超・極秘データ」と書かれたフォルダを投影した。
「検察官は言った。『被告人は優秀な探偵だから、高度な魔法が使えるはずだ』と。それが最大の誤謬だ」
エラーラが開いたファイル。
それは、ナラティブ・ヴェリタスの『成績証明書』と、『魔力測定テスト結果』だった。
スクリーンに映し出された数値に、法廷中の時間が止まった。
高等魔導数学:2点(100点満点)
魔導物理学:0点
古代語演算処理:評価不能(回答欄に筋肉のイラストを描いたため)
総合魔力偏差値:28
「……は?」
ギルバート検事が、間の抜けた声を出した。
エラーラは、まるで学会で新発見を発表するかのように、嬉々として解説を始めた。
「見ての通りだ。私の娘、ナラティブ・ヴェリタスは……愛すべきバカなんだよ……」
法廷がざわめきから、失笑、そして爆笑へと変わるのを、裁判長が木槌で制する。
「静粛に!弁護人?……これは、どういうことか!」
「言葉通りの意味です、裁判長。今回の凶器である『プロメテウスの針』は、軍用レベルの最上位術式です。これを発動するには、脳内で『熱力学』と『流体解析』、さらには『空間座標』を同時に暗算し、0.5秒以内に解を導き出す必要があります。その演算負荷は、王都アカデミーの首席クラスです」
エラーラは指示棒で、ナラの成績表の「2点」を叩く。バン、バン、と乾いた音が響く。
「一方の被告人『バカ娘』は、先日の買い物で『3割引き』の計算ができず、私に電話をかけてきました。因数分解を見せると蕁麻疹が出ます。彼女の脳内メモリは、今日の夕飯の献立で埋まっています」
ナラは机に突っ伏し、耳を塞いでいた。
(殺して……いっそ死刑にして……)
エラーラの舌鋒は止まらない。
「彼女にこの高等魔法を使えというのは、ハムスターにミサイルを作れと言うのと同じです!彼女には、術式の安全装置を解除する知能すらありません!『遠距離射撃』? 笑わせないでいただきたい。彼女は『掛け算』すら怪しいのですよ!?」
「やめてぇぇぇッ!!」
ナラの絶叫が法廷に響いた。
それは、身の潔白を叫ぶ悲鳴よりも悲痛な、魂の叫びだった。
エラーラは冷徹に結論づけた。
「よって、彼女が犯人である確率は、数学的に、物理的に、そして教育学的にゼロです。彼女には『殺す能力』がありません。魔力が足りないのです」
ギルバート検事は、膝から崩れ落ちた。
「そ、そんな!?……まさか、あの名探偵が……九九も怪しいだと……?」
彼が積み上げた「知能犯」という前提が、根底から瓦解した。
あまりにも情けなく、あまりにも説得力のある「アリバイ」だった。
「では、誰が魔法を使ったのか?」
エラーラは法廷を見渡した。
密室にいたのは二人だけ。
ナラに計算ができないなら、計算できたのは一人しかいない。
「被害者、ジュリアン・アークライト。彼は王都アカデミーを主席で卒業し、かつて『演算の鬼』と呼ばれた天才でした」
真相は、あまりにも皮肉なものだった。
ジュリアンは、自らの不正を暴き、人生を破滅させたナラを憎んでいた。
彼は彼女を社会的に抹殺するために、『自分の命』と『高い知能』を使った罠を仕掛けたのだ。
ジュリアンは「汚職の真犯人の証拠を渡す」と言って、ナラを呼び出した。彼女が入室した瞬間、彼は通報しながら、脳内で自殺呪文の詠唱を開始した。「殺される!」という叫びは、演算のリズムを隠すためのカモフラージュだ。ナラは「魔力の高まり」など理解できない。だが、野生の勘で「空気が歪んでいる」ことを察知した。「バカなことはやめて!」と叫んで駆け寄った。
ナラが彼に触れようとした瞬間、彼の演算が完了した。
自分の脳を焼く魔法が発動し、ナラの手は間に合わず、余波で火傷を負った。
「彼は自らの命を絶ち、ナラティブに『殺人犯』の濡れ衣を着せようとした。エリートである彼にとって、自分の『知能』こそが最強の武器であり、ナラティブもまた『知能』で対抗してくると信じていたのでしょう」
エラーラは、哀れむように首を振った。
「だが、彼は致命的な誤算をしていた。……ナラティブが、彼の想定を遥かに下回る頭脳を持っていたということを。彼女の無能さが、逆説的に彼女の無実を証明することになるとは、彼の高い知能でも計算できなかったのです……」
判決の時が来た。
裁判長は、複雑な表情で判決文を読み上げた。
「……被告人には、犯行を実行するための『魔力(学力)』が著しく欠如していることが、客観的証拠により証明された。よって、主文。無罪」
法廷内には、歓声ではなく、安堵と失笑が入り混じった奇妙な空気が流れた。
閉廷後の裁判所前。
雨上がりの王都の空は、澄み渡るように青い。
釈放されたナラは、魂が抜けたような顔で、その青空を見上げていた。
「……お母様。私、無罪になったけど……なったけど……」
「なんだい?」
「何か、命よりも大切なものを法廷に置いてきた気がするわ……」
エラーラは、満足げに娘の肩を叩いた。
「何を言うんだい。君の『無知』は、どんな防御魔法よりも強固なアリバイとなったんだよ。誇りたまえ」
「……明日の新聞の見出しが目に浮かぶわ。『名探偵、まさかの赤点無罪!』とか、『九九のできない救世主』とか……」
「ハハハ!それは一面トップ間違いなしだね。
記事の切り抜きは私がスクラップしておいてやろう」
「いらない!絶対にいらない!」
ナラは呻き、頭を抱えて歩き出した。
その背中は、死刑台から生還したとは思えないほど、哀愁に満ちていた。
「次は……次は絶対に、力で解決できる事件にするわ。岩を砕くとか、暴走列車を止めるとか……」
「おや、筋肉の使いすぎで脳細胞が死滅しないように気をつけたまえよ?」
「もう手遅れよ!」
王都の空には、数式一つ解けない探偵の、やりきれない溜息が白く溶けていった。
彼女は生き残った。
その「愛すべき無能さ」という、最強にして最悪の武器によって。




