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アリシア・ヴェリタス【哲学リョナ小説第3弾】  作者: ギデオン・ヴァンツ@週刊コロッセオ記者
時計塔の老人

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第2話:時計塔の老人(2)

翌日の午後。

雨は上がり、王都の空には鉛色の雲が重く垂れ込めていた。

ナラは、再び時計塔の工房を訪れた。


「……犯人の正体が……分かったわ。」


作業台に向かっていたハンスの手がピタリと止まる。

彼はゆっくりと振り返った。白濁した瞳が、ナラティブの方角を虚ろに見つめる。


「……ほう。で、誰だった?」


その声は震えていた。

彼は知っているのだ。犯人が誰なのかを。

そして、ナラがその名を告げれば、彼は公的な立場として、彼らを断罪しなければならなくなる。

「二度と来るな」と罵倒し、彼らの善意を拒絶しなければならなくなる。

それが、職人のプライドであり、彼なりの不器用な「愛」の守り方だったからだ。

ナラティブは、短く息を吐き、そして……嘘をついた。


「プロの仕業ね……さしずめ、『精霊』の仕業……とでも呼ぶべきかしら。侵入経路も不明。指紋もなし。はぁ。……あたしの手には負えないわね。残念ながら、逮捕は不可能よ」


工房に、重苦しい沈黙が落ちた。

ハンスの口元が、わずかに緩んだように見えた。


「……そうか。名探偵のくせに、役立たずなもんだな……」


「ええ、面目ないわ。依頼料はいらない。その代わり、少しここで休憩させてちょうだい。この油の匂い、嫌いじゃないのよね」


ナラは、工房の隅にある木箱に腰を下ろした。

これでいい。

犯人は「精霊」ということになった。

ハンスは怒る必要がなくなり、若者たちは咎められることなく、今夜もまた忍び込むことができる。

この奇妙で優しい共犯関係は、守られたのだ。

だが。

現実は、人の善意だけで回るほど甘くはなかった。

唐突に、工房全体を揺るがすような金属音が響いた。

それは、何かが砕ける音だった。


「……!?」


ハンスが飛び上がる。

杖をつくのも忘れ、彼は機関部の中枢へとなだれ込んだ。

巨大な「主ゼンマイ」。

時計塔の心臓部であり、全ての動力を生み出す鋼鉄のバネ。

その表面に、亀裂が走っていた。


「ああ……あぁ……!」


ハンスがその場に崩れ落ちる。


「嘘だろ……。まだだ……まだ持ってくれ……!」


限界だったのだ。

若者たちの未熟な整備と、ハンスの必死の修正。

その繰り返しによる微細な金属疲労が蓄積し、ついに、限界を迎えたのだ。

バネの亀裂は、ミシミシという音を立てて広がっていく。


「ダメだ……! 切れるッ!」


ハンスは素手で、巨大な歯車を抑え込もうとした。

だが、老いた肉体に、数トンの圧力を止める力などあるはずがない。


バチィィィン!!


轟音と共に、主ゼンマイが破断した。

その衝撃でハンスは弾き飛ばされ、壁に激突した。

そして、心臓の鼓動が止まるように。

巨大な振り子が、ゆっくりと、その動きを止めた。

一世紀もの間、この街に時を告げ続けてきた音が、消えた。

完全なる静寂。

それは、この街にとって「死」を意味していた。


「ハンス!」


ナラと、遅れて入ってきたエラーラが駆け寄る。

ハンスは額から血を流し、うわ言のように呟いていた。


「……止まった……。私の時計が……止まった……。申し訳ない……申し訳ない……」


彼は泣いていた。痛みのせいではない。

自分の命よりも大切だった「街の鼓動」を守れなかったことへの絶望。

自分の無力さが、ついに現実という形をとって突きつけられたことへの慟哭。


「ナラ君、応急処置を!私は機関を見る!」


エラーラが白衣を翻し、壊れたゼンマイへと走る。


「……酷いな。破断だけじゃない。シャフトが歪んでいる。修理には、部品の交換と、数トンクラスの牽引力が必要だ……」


「そんなもの、今すぐ用意できるわけないでしょ!魔法でなんとかしなさいよ!」


静寂は、工房の外へも伝播していた。

街の人々が、異変に気づいたのだ。


「……おい、時計が止まってるぞ……」


「鐘が鳴らない……」


「ハンスじいさん……どうしたんだ?」


ざわめきが広がる。

不安。恐怖。

いつも当たり前のようにそこにあったものが失われた喪失感。

エラーラが、魔法で歯車の復元を試みるべく立ち上がった。

その時だった。

工房の通用口が、乱暴に開かれた。

飛び込んできたのは、あのパン屋の青年だった。

彼は小麦粉まみれのエプロンのまま、息を切らせて立っていた。


「じいさんッ!音がしねえ!どうしたんだ!」


続いて、花屋の娘が、衛兵が、近所の酒場の主人が。

昨夜「犯人」だった者たちが、そして普段はハンスの偏屈さに辟易していたはずの住民たちが、次々と工房になだれ込んできた。

彼らは見た。

血を流して倒れているハンスと、無残に砕け散った主ゼンマイを。


「……壊れたのか?」


パン屋の青年が呆然と呟く。


「嘘だろ……。俺、昨日はちゃんと……」


「みんな、下がって!」


ナラが叫ぶ。


「ここは危険よ!それに、この老いぼれ機械はもう寿命なの!ハンスも怪我をしてる。もう……終わりよ!」


ナラは、あえて残酷な言葉を吐いた。

これ以上、彼らに「叶わない夢」を見させないために。

ハンスのプライドを守ったまま、静かに幕を下ろすために。


だが。


「……ふざけんな」


パン屋の青年が、拳を震わせていた。


「寿命?終わり?勝手に決めんじゃねえよ!この時計はな、俺が生まれた時から動いてんだ!親父が死んだ時も、初恋に振られた時も、店が潰れかけた時も!こいつだけは……ずっと動いてたんだ!俺の人生の半分は、こいつの音で出来てんだよ!」


彼は、ハンスの制止も聞かず、エラーラを押しのけて、壊れたゼンマイに歩み寄った。


「……俺たちが直す!」


「はあ?」


「直すんだよ!じいさんが動けねえなら、俺たちがやるしかねえだろ!」


衛兵が前に出た。


「……ああ。そうだな。俺も手伝う。力仕事なら任せろ」


花屋の娘が、エプロンの紐を締め直した。


「私も。狭いところなら入れるわ」


「俺もだ!」


「私もやる!」


街の人々が、次々と声を上げる。

彼らは素人だ。技術などない。知識もない。

あるのは、「この日常を失いたくない」というエゴと、偏屈な老人への不器用な愛だけ。


「……やめろ」


瓦礫の中で、ハンスが声を絞り出した。

彼はナラの肩を借りて、よろよろと立ち上がった。

その目は見えていない。だが、その顔は怒りに満ちていた。


「やめろッ!素人が触るな!貴様らごときに何ができる!そこはそうじゃない!スパナの持ち方もなってない!油の種類も違う!ナットの締め方も逆だ!」


ハンスは怒鳴った。

いつもの、偏屈で口うるさい、嫌われ者の老人の声で。

だが、パン屋の青年は振り返り、ニカっと笑った。


「うるせえな!文句があるなら、そこで指示を出してくれやがれ!あんたの目は見えなくとも、口は動くだろ!俺たちが、あんたの手足になるっていってんだよ!」


ハンスが息を呑む。

青年は知っていたのだ。ハンスの目が見えていないことを。

そして、ハンスが毎晩、自分たちの未熟な仕事を直してくれていたことを。


「……バレてたか」


ハンスは、力なく笑った。

そして、涙を袖で乱暴に拭うと、職人の顔に戻った。

彼は杖を指揮棒のように掲げた。


「いいか、小僧!聞け!私の指示は絶対だ! 1ミリのズレも許さん!」


「おうよ!」


全員が吼えた。


「エラーラさんよ!」


ハンスが叫ぶ。


「お前の頭脳を借りるぞ!シャフトの歪みから、必要なトルクを弾き出せ!」


「承知だ!」


エラーラが眼を光らせ、チョークを走らせて床に計算式を書く。


「衛兵!君と、そこの大柄な男たちでロープを引け!角度は30度! 私が合図したら全力で引くんだ!」


「了解!」


「探偵!お前は全体の指揮だ!サボってる奴がいたら尻を蹴飛ばせ!」


「……人使いが荒い依頼人ね。追加料金をもらうわよ!」


ナラは鉄扇を開き、現場監督のように叫んだ。


「さあ、パン屋!油を持ってきなさい!花屋! 貴女はあの隙間に入って、ボルトを支えて!」


工房が、戦場になった。

男たちの怒号と、女たちの掛け声。

油と汗の臭い。熱気。

ハンスは叫び続ける。


「まだだ!まだ引け!そこだ!そこで止めろ!

バカか!右に回せと言ってるんだ!油が足りん!焼き付くぞ!」


彼の目は見えていない。

だが、音と、空気の振動と、そして彼らの「熱」で、全てが見えているようだった。

彼は指揮者だった。

不揃いで、未熟で、調律の合っていない楽器をまとめ上げ、一つの交響曲を奏でていた。

パン屋の青年が、全身の筋肉を軋ませながら、巨大なスパナを回す。


「ぐぅぅぅ……ッ!重てぇ……ッ!」


「踏ん張れ小僧!お前が毎朝捏ねているパン生地よりは軽いはずだ!」


ハンスが檄を飛ばす。


「ちげえねえわな……ッ!」


錆びついたボルトが回る。

花屋の娘が、油まみれになりながら、歯車の隙間で叫ぶ。


「入った!ギアが噛み合ったわ!」


「よし!衛兵、ロープを緩めろ!ゆっくりだぞ! 赤ん坊を抱くように下ろすんだ!」


ハンスの声は枯れ、足は震えていた。

だが、その背中は、かつてないほど大きく見えた。

彼はもう、孤独な番人ではなかった。

この街の「心臓」を動かすための、偉大なる司令塔だった。

数時間の激闘の末。

エラーラが錬金術で構成した新しい主ゼンマイがセットされた。


「……準備完了だ」


エラーラが額の汗を拭う。


「理論上は完璧だ。だが、最後の起動には、強烈な初期衝動がいる。全員で、あの巨大フライホイールを回すんだ」


「おう!」


住民たちが、巨大な鉄の輪に取り付く。

ナラも、ドレスの袖をまくり上げ、その列に加わった。

ハンスもまた、一番前で、その輪に手をかけた。


「いくぞ……!3、2、1……回せぇぇぇぇッ!!」


全員が叫ぶ。

筋肉が悲鳴を上げ、靴底が床を擦る。

重い。

山を動かすように重い。


「動けぇぇッ!俺たちの!時計!動けぇぇぇッ!」


パン屋の青年が、血を吐くような声で叫ぶ。

それは、単なる物理運動ではなかった。

彼らの「生きたい」という意志。

「明日を迎えたい」という祈り。

ハンスへの感謝と、街への愛着。

それら全ての「善意」が、エネルギーとなって鉄の塊に注ぎ込まれていた。

物理学では説明できない力が働いたかのように。

ホイールが動いた。


ゴォン……。


一つ目の音が鳴った。


ゴォォン……。


二つ目。

無数の歯車が噛み合い、伝達し、増幅し、巨大な心臓が再び脈打ち始めた。

その音は、以前よりも力強く、そして温かく響いた。


「……動いた……」


「動いたぞぉぉぉッ!」


歓声が爆発する。

男たちは抱き合い、女たちは泣き崩れた。

パン屋の青年は、油まみれの手でハンスに抱きついた。


「じいさん!直したぞ!俺たちが直したんだ!」


ハンスは、青年の肩に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。


「……ああ。ああ……!よくやった……。お前たちは……最高の職人だ……」


その言葉は、どんな勲章よりも輝かしい、彼らへの最大の賛辞だった。


夕暮れ時。

時計塔の鐘が、街中に鳴り響いた。


ゴォォォォン……。


その音を聞いて、家路につく人々が空を見上げる。


「ああ、直ったんだな」


「いい音だ」


誰も、詳細を知らない。

誰が直したのか。どんなドラマがあったのか。

ただ、当たり前のように鐘が鳴り、当たり前のように明日が来ることに安堵し、微笑む。

工房では、ナラたちが帰り支度をしていた。


「……探偵」


ハンスが声をかけた。

彼は椅子に座り、穏やかな顔で、工具の手入れをしていた。

その横には、パン屋の青年が、弟子のように座って教えを乞うている。


「依頼料だ。持っていけ」


ハンスが差し出したのは、数枚の硬貨と、焼きたてのパンだった。

ナラは苦笑した。


「パン?これは依頼料に含まれないわよ?」


「……あいつらが置いていったんだ。食いきれん」


ハンスはぶっきらぼうに言った。


「それに……お前がいなきゃ、私は今頃、孤独に死んでいた。……礼を言う」


ナラはパンを受け取り、かじった。

塩味が効いていて、とても温かかった。


「……美味しいわ。この街の味がする」


ナラとエラーラは、工房を出た。

外はもう夜だったが、時計塔の灯りが、灯台のように街を照らしていた。


「お母様?……エラーラ。『永久機関』って……物理的に不可能と言われているわよね?」


ナラが問いかける。

エラーラは、夜空を見上げて答えた。


「ああ。エネルギーは摩擦や抵抗で失われるからね。だが……ここには『外部入力』がある」


「外部入力?」


「人の心だ。誰かが誰かを想う気持ち。お節介。余計な世話。見返りを求めない労働。それらが注ぎ込まれる限り……あの時計は止まらない。物理法則を無視した、善意の永久機関さ」


「……ふふ。非科学的ね」


「全くだ。だから、人間は面白いんだ」


二人は肩を並べて歩き出した。

背後では、時計塔が時を刻み続けている。

ハンスが死んでも、きっとパン屋の青年が、あるいはその子供が、あの歯車を守り続けるだろう。

何も劇的なことは起きなかった。

誰も悪役にはならなかったし、世界が救われたわけでもない。

ただ、明日も時が刻まれることだけが確定した。

それは、どんな宝石よりも価値のある、ありふれた奇跡だった。

ナラは、夜風に吹かれながら、小さく呟いた。


「……いい街ね。泥棒が入る隙もなさそうだわ」


二人の影が、石畳の道に長く伸びていた。

鐘の音が、優しく彼女たちの背中を押していた。

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