第2話:時計塔の老人(2)
翌日の午後。
雨は上がり、王都の空には鉛色の雲が重く垂れ込めていた。
ナラは、再び時計塔の工房を訪れた。
「……犯人の正体が……分かったわ。」
作業台に向かっていたハンスの手がピタリと止まる。
彼はゆっくりと振り返った。白濁した瞳が、ナラティブの方角を虚ろに見つめる。
「……ほう。で、誰だった?」
その声は震えていた。
彼は知っているのだ。犯人が誰なのかを。
そして、ナラがその名を告げれば、彼は公的な立場として、彼らを断罪しなければならなくなる。
「二度と来るな」と罵倒し、彼らの善意を拒絶しなければならなくなる。
それが、職人のプライドであり、彼なりの不器用な「愛」の守り方だったからだ。
ナラティブは、短く息を吐き、そして……嘘をついた。
「プロの仕業ね……さしずめ、『精霊』の仕業……とでも呼ぶべきかしら。侵入経路も不明。指紋もなし。はぁ。……あたしの手には負えないわね。残念ながら、逮捕は不可能よ」
工房に、重苦しい沈黙が落ちた。
ハンスの口元が、わずかに緩んだように見えた。
「……そうか。名探偵のくせに、役立たずなもんだな……」
「ええ、面目ないわ。依頼料はいらない。その代わり、少しここで休憩させてちょうだい。この油の匂い、嫌いじゃないのよね」
ナラは、工房の隅にある木箱に腰を下ろした。
これでいい。
犯人は「精霊」ということになった。
ハンスは怒る必要がなくなり、若者たちは咎められることなく、今夜もまた忍び込むことができる。
この奇妙で優しい共犯関係は、守られたのだ。
だが。
現実は、人の善意だけで回るほど甘くはなかった。
唐突に、工房全体を揺るがすような金属音が響いた。
それは、何かが砕ける音だった。
「……!?」
ハンスが飛び上がる。
杖をつくのも忘れ、彼は機関部の中枢へとなだれ込んだ。
巨大な「主ゼンマイ」。
時計塔の心臓部であり、全ての動力を生み出す鋼鉄のバネ。
その表面に、亀裂が走っていた。
「ああ……あぁ……!」
ハンスがその場に崩れ落ちる。
「嘘だろ……。まだだ……まだ持ってくれ……!」
限界だったのだ。
若者たちの未熟な整備と、ハンスの必死の修正。
その繰り返しによる微細な金属疲労が蓄積し、ついに、限界を迎えたのだ。
バネの亀裂は、ミシミシという音を立てて広がっていく。
「ダメだ……! 切れるッ!」
ハンスは素手で、巨大な歯車を抑え込もうとした。
だが、老いた肉体に、数トンの圧力を止める力などあるはずがない。
バチィィィン!!
轟音と共に、主ゼンマイが破断した。
その衝撃でハンスは弾き飛ばされ、壁に激突した。
そして、心臓の鼓動が止まるように。
巨大な振り子が、ゆっくりと、その動きを止めた。
一世紀もの間、この街に時を告げ続けてきた音が、消えた。
完全なる静寂。
それは、この街にとって「死」を意味していた。
「ハンス!」
ナラと、遅れて入ってきたエラーラが駆け寄る。
ハンスは額から血を流し、うわ言のように呟いていた。
「……止まった……。私の時計が……止まった……。申し訳ない……申し訳ない……」
彼は泣いていた。痛みのせいではない。
自分の命よりも大切だった「街の鼓動」を守れなかったことへの絶望。
自分の無力さが、ついに現実という形をとって突きつけられたことへの慟哭。
「ナラ君、応急処置を!私は機関を見る!」
エラーラが白衣を翻し、壊れたゼンマイへと走る。
「……酷いな。破断だけじゃない。シャフトが歪んでいる。修理には、部品の交換と、数トンクラスの牽引力が必要だ……」
「そんなもの、今すぐ用意できるわけないでしょ!魔法でなんとかしなさいよ!」
静寂は、工房の外へも伝播していた。
街の人々が、異変に気づいたのだ。
「……おい、時計が止まってるぞ……」
「鐘が鳴らない……」
「ハンスじいさん……どうしたんだ?」
ざわめきが広がる。
不安。恐怖。
いつも当たり前のようにそこにあったものが失われた喪失感。
エラーラが、魔法で歯車の復元を試みるべく立ち上がった。
その時だった。
工房の通用口が、乱暴に開かれた。
飛び込んできたのは、あのパン屋の青年だった。
彼は小麦粉まみれのエプロンのまま、息を切らせて立っていた。
「じいさんッ!音がしねえ!どうしたんだ!」
続いて、花屋の娘が、衛兵が、近所の酒場の主人が。
昨夜「犯人」だった者たちが、そして普段はハンスの偏屈さに辟易していたはずの住民たちが、次々と工房になだれ込んできた。
彼らは見た。
血を流して倒れているハンスと、無残に砕け散った主ゼンマイを。
「……壊れたのか?」
パン屋の青年が呆然と呟く。
「嘘だろ……。俺、昨日はちゃんと……」
「みんな、下がって!」
ナラが叫ぶ。
「ここは危険よ!それに、この老いぼれ機械はもう寿命なの!ハンスも怪我をしてる。もう……終わりよ!」
ナラは、あえて残酷な言葉を吐いた。
これ以上、彼らに「叶わない夢」を見させないために。
ハンスのプライドを守ったまま、静かに幕を下ろすために。
だが。
「……ふざけんな」
パン屋の青年が、拳を震わせていた。
「寿命?終わり?勝手に決めんじゃねえよ!この時計はな、俺が生まれた時から動いてんだ!親父が死んだ時も、初恋に振られた時も、店が潰れかけた時も!こいつだけは……ずっと動いてたんだ!俺の人生の半分は、こいつの音で出来てんだよ!」
彼は、ハンスの制止も聞かず、エラーラを押しのけて、壊れたゼンマイに歩み寄った。
「……俺たちが直す!」
「はあ?」
「直すんだよ!じいさんが動けねえなら、俺たちがやるしかねえだろ!」
衛兵が前に出た。
「……ああ。そうだな。俺も手伝う。力仕事なら任せろ」
花屋の娘が、エプロンの紐を締め直した。
「私も。狭いところなら入れるわ」
「俺もだ!」
「私もやる!」
街の人々が、次々と声を上げる。
彼らは素人だ。技術などない。知識もない。
あるのは、「この日常を失いたくない」というエゴと、偏屈な老人への不器用な愛だけ。
「……やめろ」
瓦礫の中で、ハンスが声を絞り出した。
彼はナラの肩を借りて、よろよろと立ち上がった。
その目は見えていない。だが、その顔は怒りに満ちていた。
「やめろッ!素人が触るな!貴様らごときに何ができる!そこはそうじゃない!スパナの持ち方もなってない!油の種類も違う!ナットの締め方も逆だ!」
ハンスは怒鳴った。
いつもの、偏屈で口うるさい、嫌われ者の老人の声で。
だが、パン屋の青年は振り返り、ニカっと笑った。
「うるせえな!文句があるなら、そこで指示を出してくれやがれ!あんたの目は見えなくとも、口は動くだろ!俺たちが、あんたの手足になるっていってんだよ!」
ハンスが息を呑む。
青年は知っていたのだ。ハンスの目が見えていないことを。
そして、ハンスが毎晩、自分たちの未熟な仕事を直してくれていたことを。
「……バレてたか」
ハンスは、力なく笑った。
そして、涙を袖で乱暴に拭うと、職人の顔に戻った。
彼は杖を指揮棒のように掲げた。
「いいか、小僧!聞け!私の指示は絶対だ! 1ミリのズレも許さん!」
「おうよ!」
全員が吼えた。
「エラーラさんよ!」
ハンスが叫ぶ。
「お前の頭脳を借りるぞ!シャフトの歪みから、必要なトルクを弾き出せ!」
「承知だ!」
エラーラが眼を光らせ、チョークを走らせて床に計算式を書く。
「衛兵!君と、そこの大柄な男たちでロープを引け!角度は30度! 私が合図したら全力で引くんだ!」
「了解!」
「探偵!お前は全体の指揮だ!サボってる奴がいたら尻を蹴飛ばせ!」
「……人使いが荒い依頼人ね。追加料金をもらうわよ!」
ナラは鉄扇を開き、現場監督のように叫んだ。
「さあ、パン屋!油を持ってきなさい!花屋! 貴女はあの隙間に入って、ボルトを支えて!」
工房が、戦場になった。
男たちの怒号と、女たちの掛け声。
油と汗の臭い。熱気。
ハンスは叫び続ける。
「まだだ!まだ引け!そこだ!そこで止めろ!
バカか!右に回せと言ってるんだ!油が足りん!焼き付くぞ!」
彼の目は見えていない。
だが、音と、空気の振動と、そして彼らの「熱」で、全てが見えているようだった。
彼は指揮者だった。
不揃いで、未熟で、調律の合っていない楽器をまとめ上げ、一つの交響曲を奏でていた。
パン屋の青年が、全身の筋肉を軋ませながら、巨大なスパナを回す。
「ぐぅぅぅ……ッ!重てぇ……ッ!」
「踏ん張れ小僧!お前が毎朝捏ねているパン生地よりは軽いはずだ!」
ハンスが檄を飛ばす。
「ちげえねえわな……ッ!」
錆びついたボルトが回る。
花屋の娘が、油まみれになりながら、歯車の隙間で叫ぶ。
「入った!ギアが噛み合ったわ!」
「よし!衛兵、ロープを緩めろ!ゆっくりだぞ! 赤ん坊を抱くように下ろすんだ!」
ハンスの声は枯れ、足は震えていた。
だが、その背中は、かつてないほど大きく見えた。
彼はもう、孤独な番人ではなかった。
この街の「心臓」を動かすための、偉大なる司令塔だった。
数時間の激闘の末。
エラーラが錬金術で構成した新しい主ゼンマイがセットされた。
「……準備完了だ」
エラーラが額の汗を拭う。
「理論上は完璧だ。だが、最後の起動には、強烈な初期衝動がいる。全員で、あの巨大フライホイールを回すんだ」
「おう!」
住民たちが、巨大な鉄の輪に取り付く。
ナラも、ドレスの袖をまくり上げ、その列に加わった。
ハンスもまた、一番前で、その輪に手をかけた。
「いくぞ……!3、2、1……回せぇぇぇぇッ!!」
全員が叫ぶ。
筋肉が悲鳴を上げ、靴底が床を擦る。
重い。
山を動かすように重い。
「動けぇぇッ!俺たちの!時計!動けぇぇぇッ!」
パン屋の青年が、血を吐くような声で叫ぶ。
それは、単なる物理運動ではなかった。
彼らの「生きたい」という意志。
「明日を迎えたい」という祈り。
ハンスへの感謝と、街への愛着。
それら全ての「善意」が、エネルギーとなって鉄の塊に注ぎ込まれていた。
物理学では説明できない力が働いたかのように。
ホイールが動いた。
ゴォン……。
一つ目の音が鳴った。
ゴォォン……。
二つ目。
無数の歯車が噛み合い、伝達し、増幅し、巨大な心臓が再び脈打ち始めた。
その音は、以前よりも力強く、そして温かく響いた。
「……動いた……」
「動いたぞぉぉぉッ!」
歓声が爆発する。
男たちは抱き合い、女たちは泣き崩れた。
パン屋の青年は、油まみれの手でハンスに抱きついた。
「じいさん!直したぞ!俺たちが直したんだ!」
ハンスは、青年の肩に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。
「……ああ。ああ……!よくやった……。お前たちは……最高の職人だ……」
その言葉は、どんな勲章よりも輝かしい、彼らへの最大の賛辞だった。
夕暮れ時。
時計塔の鐘が、街中に鳴り響いた。
ゴォォォォン……。
その音を聞いて、家路につく人々が空を見上げる。
「ああ、直ったんだな」
「いい音だ」
誰も、詳細を知らない。
誰が直したのか。どんなドラマがあったのか。
ただ、当たり前のように鐘が鳴り、当たり前のように明日が来ることに安堵し、微笑む。
工房では、ナラたちが帰り支度をしていた。
「……探偵」
ハンスが声をかけた。
彼は椅子に座り、穏やかな顔で、工具の手入れをしていた。
その横には、パン屋の青年が、弟子のように座って教えを乞うている。
「依頼料だ。持っていけ」
ハンスが差し出したのは、数枚の硬貨と、焼きたてのパンだった。
ナラは苦笑した。
「パン?これは依頼料に含まれないわよ?」
「……あいつらが置いていったんだ。食いきれん」
ハンスはぶっきらぼうに言った。
「それに……お前がいなきゃ、私は今頃、孤独に死んでいた。……礼を言う」
ナラはパンを受け取り、かじった。
塩味が効いていて、とても温かかった。
「……美味しいわ。この街の味がする」
ナラとエラーラは、工房を出た。
外はもう夜だったが、時計塔の灯りが、灯台のように街を照らしていた。
「お母様?……エラーラ。『永久機関』って……物理的に不可能と言われているわよね?」
ナラが問いかける。
エラーラは、夜空を見上げて答えた。
「ああ。エネルギーは摩擦や抵抗で失われるからね。だが……ここには『外部入力』がある」
「外部入力?」
「人の心だ。誰かが誰かを想う気持ち。お節介。余計な世話。見返りを求めない労働。それらが注ぎ込まれる限り……あの時計は止まらない。物理法則を無視した、善意の永久機関さ」
「……ふふ。非科学的ね」
「全くだ。だから、人間は面白いんだ」
二人は肩を並べて歩き出した。
背後では、時計塔が時を刻み続けている。
ハンスが死んでも、きっとパン屋の青年が、あるいはその子供が、あの歯車を守り続けるだろう。
何も劇的なことは起きなかった。
誰も悪役にはならなかったし、世界が救われたわけでもない。
ただ、明日も時が刻まれることだけが確定した。
それは、どんな宝石よりも価値のある、ありふれた奇跡だった。
ナラは、夜風に吹かれながら、小さく呟いた。
「……いい街ね。泥棒が入る隙もなさそうだわ」
二人の影が、石畳の道に長く伸びていた。
鐘の音が、優しく彼女たちの背中を押していた。




