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アリシア・ヴェリタス【下書き第3弾】  作者: 王牌リウ
時計塔の老人

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第1話:時計塔の老人(1)

王都、北区。

貧民街と職人街の境界線に、その「時計塔」は建っていた。

かつては王都の名所だったが、魔導式時計が主流となった現代においては、時代遅れの巨大なガラクタに過ぎない。

だが、その鐘の音は、北区の住人にとっては心臓の鼓動そのものだった。

朝日と共に鳴り、正午に鳴り、夕暮れに鳴る。

その重低音が、人々の生活に「秩序」という名の背骨を通している。


「……誰かが、私の時間を盗んでいるんだ」


ヴェリタス探偵事務所のソファに深く沈み込みながら、依頼人の老人、ハンスは震える声で言った。

彼は、この時計塔の守り人。

齢は八十を超え、背中は曲がり、指先は油と鉄粉で黒く染み付いている。そして何より、その瞳は白濁し、視力のほとんどを失っていた。


「時間を、盗む?」


ナラティブ・ヴェリタスは、依頼人に紅茶を出しながら眉をひそめた。


「ああ。私は毎晩、塔の機関部へ入り、歯車の点検をする。それが私の誇りであり、生きる意味だ。私の目はもう見えんが、指先が覚えている。0.1ミリの摩耗も、油の乾きも、すべて分かる」


ハンスは、自分の節くれだった手を強く握りしめた。


「だが、ここ数日……おかしいんだ。私が『明日はここを直そう』と思って印をつけておいた箇所が、翌朝になると直っている。緩んでいたボルトが締まり、錆びついていたシャフトが磨かれている。……誰かが、夜中に忍び込んでいるんだ!」


老人の訴えは、怒りというよりも、悲痛な叫びに聞こえた。

自分の存在意義が、何者かによって揺らいでいることへの恐怖。


「……単なる、親切心じゃないのかしら?」


「親切!?違う!『侮辱』だ!『もうお前のような老いぼれには無理だ』と、無言で宣告されているようなものだ!さあ、犯人を捕まえてくれ。そして二度と私の時計に触れるなと言ってやりたいんだ!」


ナラは、依頼を受けた。

それは事件の解決というより、消えかけのロウソクを守ろうとする老人への、最後の手向けのような気がしたからだ。


その夜。

冷たい雨が降っていた。

ナラと、科学顧問のエラーラ・ヴェリタスは、時計塔の機関部にある物陰に潜んでいた。

巨大な振り子が、重い音を立てて空気を震わせている。

無数の歯車が噛み合い、カチカチという音が、まるで巨大な生物の呼吸音のように響く。

油と鉄の匂い。


「……美しい機構だね」


エラーラが小声で呟いた。


「魔導制御ではない、純粋な物理による永久機関への挑戦。非効率だが、魂があるよ」


「静かに。……来るわよ!」


深夜2時。

塔の裏口にある小さな通用口が、軋んだ音を立てて開いた。

現れたのは、怪盗でも、悪意ある破壊工作員でもなかった。

ずぶ濡れのコートを着た、一人の青年だった。

ナラには見覚えがあった。塔の向かいにあるパン屋の息子だ。

彼は、泥だらけのブーツを脱ぎ、靴下だけで忍び足で入ってきた。その手には工具箱が握られている。


(あいつ……何をする気?)


青年は、ハンスが日中、脚立に登れずに諦めていた高所のシャフトの下へ向かった。

そして、慣れない手つきで脚立を立て、震える手でスパナを構えた。


「……くそッ、固ってぇな……」


青年は悪態をつきながら、必死にボルトを締め始めた。

技術は未熟だ。力の入れ方も分かっていない。

それでも彼は、汗だくになりながら、錆びついたボルトを回し続けた。


「じいさん……もう、こんな高いとこ、登れるわけねえだろ……バカ野郎……」


青年の声が震えていた。

ナラは見た。彼の目から、大粒の涙が溢れているのを。


「死ぬなよ……。こんなガラクタと一緒に……死ぬんじゃねえよ……」


彼は泣いていた。

ボルトを締めながら、油を差しながら、慟哭していた。

それは「修理」ではなかった。

消えゆく命を、必死にこの世に繋ぎ止めようとする「蘇生措置」だった。

30分後。

青年は作業を終え、逃げるように去っていった。

だが、夜は終わらなかった。


入れ替わりに現れたのは、花屋の娘だった。

彼女は、床に散らばった鉄屑を、素手で拾い集め始めた。

ハンスが転ばないように。彼が怪我をしないように。

彼女もまた、泣いていた。

「神様、お願いします。あの人の時間を止めないで」と、祈るような独り言を漏らしながら。


さらにはその後、夜警の衛兵が現れた。

彼は、ハンスが重すぎて動かせなかった予備の歯車を、所定の位置まで運び上げた。


「……俺たちがガキの頃から、この音を聞いて育ったんだ。あんたが止まったら……俺たちの朝は……来ねえんだよ」


次々と現れる、街の人々。

彼らは皆、隠れるように忍び込み、そして何かを置いていく。

ある者は技術を。ある者は労力を。ある者は祈りを。

エラーラが、珍しく感情の宿った声で言った。


「……奇妙だ。彼らの技術はバラバラだ。効率も最悪だ。パン屋はボルトを締めすぎているし、花屋は掃除の際に必要な油まで拭き取ってしまっている。衛兵に至っては、歯車の噛み合わせを微妙にズラしてしまった」


「素人の集まりね……」


「だが……だが。……何故だろうか。この時計塔は、彼らが触れるたびに、軋みながらも『温度』を取り戻しているように見える」


それは、歪な共犯関係だった。

彼らは知っているのだ。ハンスの目がもう見えていないことを。

そして、ハンスがこの時計塔と運命を共にしようとしていることを。

だから彼らは、必死に「時計」を動かし続けることで、ハンスの「命」を延長しようとしていた。

自分たちの拙い技術が、逆にハンスの仕事を増やしているとしても、何かをせずにはいられないのだ。


「……ナラ君。あれを見たまえ」


エラーラが指差した先。

工房の奥にある居住区のドアが、静かに開いた。

寝間着姿のハンスが出てきたのだ。


「!」


ナラたちは息を殺す。

犯人はもういない。

だが、ハンスは、誰かが侵入していた気配を察知したのか、杖をつきながら、おぼつかない足取りで機関部の中心へと歩み寄った。

彼は、パン屋の青年が締めたボルトに触れた。

指先で、その締め具合を確認する。


「……バカ者が」


ハンスの声が、深夜の工房に響いた。


「締めすぎだ。これでは軸が歪んでしまう。……それに、油の種類が違う。ここは重油ではなく、軽油を使うんだ」


ハンスは、腰のベルトから自分の工具を取り出した。

そして、見えない目で、震える手で、青年が作業した箇所を「修正」し始めた。

ナラティブは息を呑んだ。

ハンスは、怒っていなかった。

彼の目から、とめどなく涙が流れていたからだ。


「……こんな高い所まで……。お前……高所恐怖症だったろう……。ガキの頃……ここから降りられなくなって、泣いていたくせに……」


ハンスは、知っていたのだ。

誰が、ここに来たのか。

油の匂いで。足音のリズムで。残された体温で。

彼が「犯人」と呼んでいたのは、かつて彼が頭を撫で、時計の読み方を教えた、街の子供たちだった。


「まったく……下手くそな手つきだ。こんなんじゃ、時計が遅れてしまう……」


ハンスは泣きながら、青年の仕事をやり直した。

だが、完全に消してしまうことはしなかった。

青年が必死に締めたボルトの強さを、ギリギリ許容できる範囲で残し、その上に自分の技術を重ねたのだ。

それは、無言の会話だった。

『死なないでくれ』という青年の叫びに、

『まだ死なんよ』と答える老人の意地。

花屋の娘が掃除した床に、ハンスはわざと少しだけ鉄粉を撒いた。


「綺麗すぎると、逆に滑るんだよ……お節介め……」


そう言いながら、その顔はくしゃくしゃに泣き笑いしていた。

衛兵が運んだ歯車のズレを、ハンマーで叩いて直しながら、彼は呟いた。


「重かったろう……。腰を痛めてなきゃいいが……」


ナラは、胸が締め付けられるような思いで、その光景を見ていた。

これは、ただの修理ではない。

老人は、若者たちが置いていった「愛」を、自分の「技術」で受け止め、昇華させているのだ。

一方通行の善意ではない。

互いに相手を想い、互いに相手のために「嘘」をつき、夜の闇の中でひっそりと愛を交わしている。

言葉など一つもない。

あるのは、金属が擦れる音と、啜り泣く声だけ。


「……なんて……なんて非効率で、愛おしいシステムなんだ」


エラーラが、目を拭った。

夜明け前。

ハンスは全ての「修正」を終えた。

彼は疲れ果て、油まみれの手で顔を覆い、機関部の中央でうずくまった。


「……神よ。どうか、あと少しだけ。あと少しだけ、私の目と、手を奪わないでくれ。あいつらの……あいつらの不格好な仕事を、直してやらなきゃならんのだ。私が止まれば……あいつらが悲しむ……」


その背中は、あまりにも小さく、そしてあまりにも……偉大だった。

時計塔の鐘が、朝を告げる。


ゴォォォォン……。


その音は、まるでハンスの慟哭のように、雨上がりの空へ響き渡った。

ナラティブは、鉄扇を強く握りしめた。

依頼内容は「犯人を捕まえてくれ」だった。

だが、こんな「犯人たち」を、いったいどうやって裁けばいいというのか。

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