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アリシア・ヴェリタス【哲学リョナ小説第3弾】  作者: ギデオン・ヴァンツ@週刊コロッセオ記者
・●第8章:ヴェリタスの天秤2 愛を知る者

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第5話:Until the dream comes true

主題歌:機動戦士ガンダムSEED/RIVER

https://youtu.be/ztov1Gd-Na4?si=gT8I85M8lXCqd1fI

王都の深奥に、その男はいた。

国防総省のトップにして、王都の政界を実質的に支配する「首領」、マルバス。

彼はこれまで、数え切れないほどの人間を絶望の淵へと追いやり、その悲鳴を金貨に変えて積み上げてきた。

王都は経済的に発展した。しかしその裏で、正気とは思えない凄惨な事件が日常化していた。

それらすべては、マルバスが「効率」と「快楽」のために、王都の人間に植え付けた毒の結果だった。

ある日、「純粋な悪」であるマルバスは、この街に唯一残された「光」を招いた。


重厚な黒檀の扉が、軋んだ音を立てて開かれた。

アリシア・ヴェリタスは、純白のドレスの裾を静かに揺らしながら、その部屋へと足を踏み入れた。

部屋の両脇には、鋭い眼光を放つ側近たちが控えている。彼らは皆、腰に魔導銃や剣を帯び、アリシアを値踏みするように睨みつけていた。


「まーた新しい『玩具』か……」


「この聖女様も、すぐに穢れて壊されるのだろうな……」


そんな下卑た囁きが、空気の淀みに混ざる。

だが、アリシアは顔を上げ、まっすぐに部屋の中央を見据えた。

そこに、男がいた。

マルバス。

彼は、掠れた声で側近たちに命じた。


「……下がれ」


「し、しかし閣下。この女は……」


「全員、下がれと言っているんだッ!」


獣のような咆哮。側近たちは肩を震わせ、逃げるように部屋を出て行った。

重い扉が閉まり、広い執務室には、聖女と悪党、二人きりが残された。

静寂が支配する。

数秒の後、マルバスの肩が小刻みに震え始めた。


「……あ、あぁ……」


彼は、アリシアを見上げることができなかった。

それどころか、彼は突然、床に突っ伏し、高級なスーツが汚れるのも構わず、ゴロゴロと芋虫のように転がり始めた。


「ぐ、ううぅぅぅッ!恥ずかしい……!恥ずかしいッ!ああ、私は何という……何という汚物を積み上げて生きてきたのだッ!」


彼は自分の頭を、何度も、何度も床に打ち付けた。鈍い音が響く。額から血が滲み、脂汗と混ざり合う。

それは、狂気ではない。魂の崩壊だった。

マルバスは「純粋な悪」だった。暴力を自ら振るうことはない。ただ、インクを一滴垂らすように、他人の心に悪意を注ぎ、人間関係を破壊し、組織を崩壊させ、その破滅から生じる利益を啜ってきた。

彼は「ずる賢さ」を「頭の良さ」と思っていた。愛だの絆だのを語る連中は、みな偽善者か馬鹿だと思っていた。


だが、見てしまったのだ。


雨の降るスラム街で。泥にまみれ、罵倒されながらも、行き倒れの老人を抱き起こすアリシアの姿を。

彼女には、エラーラのような圧倒的な魔力はない。ナラティブのような一騎当千の武力もない。

無力だ。あまりにも脆く、弱い。

それなのに……彼女は決して諦めなかった。暴漢に殴られそうになっても、泥を投げつけられても、その瞳から「他者への愛」が消えることはなかった。

その「愚直な光」を見た瞬間、マルバスの心の中にあった堅牢な城壁――「悪こそが強さである」という信念――が、ついに、音を立てて崩れ落ちたのだ。

鏡を見せられたようだった。

彼女の美しさと対比して、自分の魂がいかに醜くいか。それを、直視してしまったのだ。


「死にたい……ッ!死んで楽になりたいッ!」


マルバスは絨毯を爪で掻きむしり、咽び泣いた。

自殺用の毒薬は懐にある。だが、死ぬことすら「逃げ」だと気づいてしまった。死んで償えるほど、自分の罪は軽くはない。

かといって、今さら「改心しました」などと言って、いったい誰が信じる?

進むも地獄、退くも地獄。

その極限の苦悶の中で、彼は唯一の希望として、自分の絶望の根源であるアリシアにすがったのだ。


「……マルバス様」


アリシアが、静かに歩み寄る。

彼女は、血と涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった男の前に、音もなく膝をついた。

汚れることを厭わず、その震える肩に、白く華奢な手を置いた。


「……顔を、お上げになって」


その声に、軽蔑の色はなかった。

ただ、深い悲しみと、母のような慈愛だけがあった。

マルバスは、恐る恐る顔を上げた。


「……わ、私を……軽蔑しないのか……?罵らないのか……?」


「貴方の苦しみは、本物ですわ。……偽りの涙で、床はこれほど濡れません」


その一言で、マルバスの決壊は完全に崩壊した。

彼は子供のように泣き叫び、アリシアのドレスの裾に縋り付いた。


「助けてくれ……!アリシア殿、この王都を救ってくれ……! 私が壊したんだ……全部、私が!……助けて!助けてよ!助けて…………死にたい!」


マルバスは、堰を切ったように告白を始めた。

それは、地獄の蓋を開けるような、おぞましい罪の羅列だった。


「経済発展の美名の下で……私は……人の心を殺した!人間を改造して、自我を奪い、富裕層のペットとして売りさばく市場を作った!子供たちが殺し合うのを『スポーツ』として興行化した!敗者は……敗者は、その場で解体され、観客の餌になった!」


マルバスは嘔吐するように言葉を吐き出す。


「放火を指示した!焼け出された人々を攫い、焼肉として晩餐会に出した!老人が邪魔だと言われれば、生きたままコンクリートミキサーに投げ込ませ、新しい建物の礎にした! ……それらすべてを、私が『効率的だ』と笑って承認したんだッ!」


聞くに堪えない惨状。

だが、アリシアは耳を塞がなかった。

青ざめた顔で、しかし決して目を逸らさず、男の罪をすべて受け止めた。


「……すべて、貴方の指示ですのね」


「そうだ……!私が直接手を下したのではないが、私が『そうなるように』仕向けたのだ!悪意を種蒔いたのだ!だから、全部やる!私の権力も、裏金も、人脈も、この国防総省の長官の椅子も! すべて貴女に譲る!頼む、貴女が……貴女がトップに立って、王都の地獄を……終わらせてくれッ!」


マルバスは、血判を押した証書を震える手で差し出した。

それは、王都の支配権そのものだった。

国防総省の強大な武力と権限があれば、明日からでも強権的に犯罪を取り締まれる。

だが──アリシアは首を横に振った。


「……マルバス様。わたくしは、国防総省には参りません」


「な……なぜ!?力がなければ、悪は滅ぼせない!私が作ったシステムは強固だ、貴女の優しさだけでは!力がなければ力は!…………あっ!?」


マルバスは、気づいたのだ。

アリシアは、立ち上がった。


「……そうですわ。……力による平和は、結局のところ『恐怖による支配』ですわ。それは貴方が行ってきたことの裏返しに過ぎません」


アリシアは、窓の外、灰色に濁った王都の空を見上げた。


「わたくしは、ずっと考えておりました。なぜ、人は人を傷つけるのか。なぜ、男たちはわたくしを……いえ、弱い立場の者を、あのような目で見るのか」


アリシアの脳裏に、過去の記憶が過ぎる。

彼女の類稀なる美貌は、彼女にとって祝福ではなく、呪いだった。

路地裏ですれ違う男たちの、ねっとりとした視線。

「美しい」と称賛しながら、その実、彼女をモノとして消費し、犯し、所有しようとする、暴力的な欲望の光。

直接殴られることだけが暴力ではない。

尊厳を踏みにじり、相手を支配しようとする心そのものが、この世のすべての悪の根源なのだ。


「すべての悪は『暴力』です。肉体的な暴力、言葉の暴力、視線の暴力、経済的な暴力……。国防総省の武力で犯罪者を捕らえても、人々の心にある暴力への『依存』を消さなければ、第二、第三のマルバス様が生まれるだけです」


アリシアは振り返り、マルバスを見据えた。

その瞳には、かつてないほど強い意志の炎が宿っていた。


「剣を持たなければ、悪から人を守れません。しかし、わたくしが必要とするのは、剣だけではありません。盾となる『心』を育てる土壌です。……わたくしは、教育省へ参ります」


・・・・・・・・・・


それから。

王都は緩やかに、しかし確実に変革の時を迎えた。

最初は「お飾りの臨時顧問」と揶揄されたアリシアだったが、彼女の行動力は誰も予想できないものだった。

彼女は机上の空論を弄することはなかった。

スラムの孤児院へ行き、人間ペットとして売られそうになっていた子供たちを抱きしめ、加害者である大人たちと膝を突き合わせて対話した。

虐待賭博の闘技場へ単身乗り込み、熱狂する観客に向かって、涙ながらに「痛み」の意味を説いた。


「想像してください。殴られているのが、貴方の愛する子供だったら。焼かれているのが、貴方の老いた母だったら」


彼女の言葉は、魔術的な洗脳ではない。

ただ、あまりにも愚直で、あまりにも切実な「お願い」だった。

腐りきっていた人々の心の奥底に眠っていた良心が、彼女の涙によって呼び覚まされたのだ。

かつての首領マルバスの裏からの命懸けの根回しもあり、アリシアの支持率は爆発的に高まった。

やがて彼女は教育省長官となり、さらに国民の圧倒的な請願を受け、省庁再編を行った。

国防総省を解体・吸収し、新たに設立された組織。

その名は――『国防教育省』。


「国を守るとは、武力をもつこと『だけ』ではありません。敵を作らない人間を育てることです」


就任演説でアリシアが語った言葉は、歴史の教科書に刻まれることとなる。

彼女は、行政官を大幅に削減し、軍事予算を僅かに増額し、その他の予算を余すことなく教育へと回した。

他者を尊重すること。暴力を恥じること。愛すること。自分を救ってから他人を救うために、「学力」と「武力」を持つこと。

それらを徹底的に教え込まれた子供たちは、もはや老人をブロックに混ぜるような異常な発想を持たなかった。

王都から「灰色」が消え、色彩が戻っていった。


・・・・・・・・・・


そして、現在。

国防教育省の長官室。そこはかつてのマルバスの部屋とは似ても似つかない、明るい日差しと花々に満ちた空間になっていた。


「……長官。次の会議のお時間です」


「ええ、ありがとう」


アリシアは書類から顔を上げた。

その美しさは年を経ても衰えることはなく、むしろ聖性すら帯びた威厳を纏っていた。

彼女のサイン一つで、国の法律が動く。彼女の一言で、数百万の民が動く。

エラーラの学力も、ナラティブの武力も、今の彼女の権力の前では霞むほど、彼女は「遠い場所」へ到達していた。

だが。

夕刻、公務を終えたアリシアを乗せた魔導車が向かう先は、貴族街の豪邸ではない。

下町の片隅にある、古びたレンガ造りの建物。

獣病院の二階の、「ヴェリタス探偵事務所」。


「ただいま戻りましたわ」


アリシアが扉を開けると、そこには変わらない日常があった。


「お帰り、アリシア。今日は早かったね」


診察台で犬の包帯を巻いているエラーラ・ヴェリタスが、白衣のまま微笑む。彼女は国政には関わらず、一介の科学者として、小さな命に向き合い続けている。


「姉さん!」


二階からドタドタと足音を立てて駆け下りてきたのは、ナラティブ・ヴェリタスだ。


「今日の事件、すごかったんだから! 迷子の猫を探してたら、いつの間にか麻薬組織のアジトに繋がってて、一網打尽にしてやったわ!」


彼女は相変わらず、泥と傷だらけの探偵として、街を走り回っている。


「まあ、怪我はありませんでしたか?ナラティブ」


「平気平気! ……それより姉さん、お腹空いた! 今日は姉さんのシチューが食べたい!」


ナラが、国政のトップであるアリシアに抱きつく。

SPが慌てようとするが、アリシアはそれを手で制し、愛おしそうに妹の頭を撫でた。


「ええ、作りましょう。たくさん、作りましょうね」


アリシアは、ナラティブを愛していた。

かつて、自分が無力で、暴力的な視線に怯えていた時、その身を挺して物理的な暴力から守ってくれたのは、この小さな「武力」の妹だった。

そして、自分の理想を論理で支え、道を示してくれたのは、母である「学力」のエラーラだった。

彼女たちがいたから、アリシアは「暴力のない世界」を信じることができた。

だから、どれほど地位が変わろうとも、どれほど世界が彼女を崇めようとも。

アリシア・ヴェリタスの魂の帰る場所は、この獣病院の、古びたソファの上だけだ。


「さあ、着替えてきますわ。お母様、玉ねぎの皮むきをお願いできますか?」


「やれやれ。大臣をこき使うのは国民だが、長官がこき使うのは母親かね」


湯気の立つ食卓。

笑い合う三人の影。

窓の外には、かつてアリシアが夢見た、誰もが安心して眠れる穏やかな夜が広がっていた。

すべては、一人の少女の愚直な愛から始まった奇跡だった。

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