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アリシア・ヴェリタス【哲学リョナ小説第3弾】  作者: ギデオン・ヴァンツ@週刊コロッセオ記者
・●第8章:ヴェリタスの天秤2 愛を知る者

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第4話:自愛の聖母!

地下迷宮での激闘から数日。

ヴェリタス探偵事務所の面々には、束の間の休息が訪れていた。

石畳のメインストリートを、二人の女性が歩いている。

その姿を目にした王都の住人たちは、誰もが呼吸を忘れ、道を空けた。そこに、あまりにも完成された、神話の挿絵のような「美」と「対比」があったからだ。


一人は、純白のドレスを纏ったエルフの美女。

アリシア・ヴェリタス。

金色の髪は歩調に合わせて優雅に揺れ、透き通るような白い肌は、触れれば消えてしまいそうな儚さを帯びている。その微笑みは聖母のように慈愛に満ちていた。


もう一人は、漆黒のドレスに身を包んだ人間の少女。

ナラティブ・ヴェリタス。

艶やかな黒髪は野性的に跳ね、ドレスの裾からは引き締まった足が覗く。その瞳は鋭く、獲物を狙う獣のように油断がない。どこか埃っぽく、鉄と火薬の匂いを漂わせる彼女は、ナイフのような危険な美しさを纏っていた。


「光の聖女」と「闇の狂犬」。

本来ならば決して交わることのない二つの存在が、今は恋人のように親密に、楽しげに語らっている。


「……見てみろよ。『狂犬』のナラティブが、あんなに大人しくなっているぞ」


「隣のエルフ様は誰だ? まるで女神じゃないか」


「知らないのか?ヴェリタスさんちの姉妹だよ。あの獰猛な『狂犬』を、あのお姉様が完全に手懐けちまっているんだ」


街の人々の囁きは、驚愕と畏敬に満ちていた。

だが、当の二人はそんな周囲の反応など意に介さない。二人だけの世界が、そこにはあった。


「姉さん、見て!あの屋台の串焼き、すっごく美味しそうな匂いがする!」


ナラが鼻をひくつかせ、子供のように瞳を輝かせる。戦場での修羅のような姿はどこへやら、今の彼女はただの食いしん坊な妹だ。


「まあ、ナラティブ。さっきカフェでタルトを食べたばかりではありませんか。……でも、確かに良い香りですわね。スパイスの配合が絶妙ですわ。一本ずつ買って、半分こしましょうか?」


「やった!姉さん大好き!」


アリシアが微笑みながらハンカチでナラの口元を拭う仕草は、あまりにも自然で、そして溺愛そのものだった。

だが、この平和なデートが、王都の新たな伝説の幕開けとなるのを、彼女たちはまだ知らない。


二人が市場の裏通り、少し治安の悪いエリアに足を踏み入れたときのことだ。

ここは掘り出し物の古道具や、エラーラが好む怪しげな実験器具が見つかる場所だが、同時に柄の悪い連中の溜まり場でもあった。


「へへっ、いい女が歩いてるじゃねえか」


「おいおい、ここは貴族のお嬢様が来る場所じゃねえぞ?」


路地裏から現れたのは、五人の暴漢たちだった。

彼らはアリシアの上品な身なりを見て、金品を奪おうと安易な考えを起こしたのだ。彼らはアリシアの美しさに目を奪われ、その隣にいる「黒いドレスの少女」の正体に気づいていなかった。

アリシアの足が止まる。

恐怖で竦んだのではない。彼女の美しい眉が、悲しげに下がったからだ。


「……貴方たち。このような良いお天気の日に、他人を傷つけるような真似はおよしなさいな。その労力は、もっと生産的なことに使うべきですわ」


「なに講釈垂れてんだ、このアマ!」


男の一人が、下卑た笑い声を上げてアリシアの細い腕を掴もうとした。

その瞬間だった。

乾いた打撃音と共に、男の身体が「く」の字に折れ曲がり、路地の反対側の壁まで吹き飛んだ。


「――あたしの姉さんに、その汚い手で触れるんじゃないわよ」


そこに立っていたのは、ナラだった。

先ほどまでの甘えるような表情は消え失せ、そこにあるのは絶対零度の殺意。

彼女はドレスの裾を翻し、目にも止まらぬ速さで残りの四人に襲いかかった。


「ひ、ひぃッ!? な、なんだこの女!?」


「ま、待て!ごめ――!?」


それは戦いではなく、「掃除」だった。

ナラの拳が、蹴りが、的確に急所を捉える。殺しはしない。だが、二度と悪意を持って立ち上がれないように、徹底的に骨身に恐怖を刻み込む。

ほんの数十秒。

路地裏には、呻き声を上げて転がる五つの肉塊が出来上がっていた。


「身の程知らずが。……姉さん、大丈夫? 怖くなかった?」


ナラは荒い息一つ吐かず、すぐにアリシアの方へ振り返った。その顔は、再び心配そうな妹の顔に戻っている。

アリシアは、ナラの手をそっと取った。


「ええ、ナラティブ。ありがとう。貴女がいてくれて助かりましたわ。……でも、拳を見て。少し赤くなっていますわよ? 痛くはありませんか?」


「え?こんなの、蚊に刺されたようなもんだよ。それよりこいつら……」


ナラが倒れた男たちに蔑みの視線を向けようとした時、アリシアは……男たちの方へしゃがみ込んだ。


「……貴方たち。痛みますか?」


男たちは震え上がった。てっきり、連れの狂犬に止めを刺させるのだと思ったのだ。

だが、アリシアの声は穏やかだった。


「わたくしの妹は、少し力が強いのです。手加減ができなくて、ごめんなさいね」


アリシアは懐から清潔なハンカチを取り出し、一番重傷そうな男の額の汗を拭った。


「今日はもうお帰りなさい。そして、病院へ行きなさいな。……次にお会いする時は、こんな形ではなく、道を譲り合うような関係でありたいですわね」


男たちは、ポカンと口を開けていた。

圧倒的な暴力でねじ伏せられた後に、女神のような慈愛で包み込まれる。

恐怖と安堵、そして畏敬の念が同時に押し寄せ、彼らの戦意は完全に粉砕された。


「あ……ああ……すまねえ……すまねえな、姐さん……」


「へ、へい……もうしねえ……絶対にしねえ……」


男たちは涙目で何度も頷き、這うようにして逃げ去っていった。

それは、ナラの武力が彼らの身体を砕き、アリシアの慈愛が彼らの心を更生させた瞬間だった。


「……姉さんって、やっぱり……すごいわ」


ナラが呆れたように、しかし誇らしげに呟く。

アリシアは立ち上がり、ふわりと微笑んだ。


「いいえ。貴女が守ってくれたから、わたくしは余裕を持てたのです。……さあ、行きましょうか。美味しい紅茶の葉が切れていましたの」


日は傾き、二人は王都の山の手でも特に格式高いオープンカフェで休憩していた。

ここは、煌びやかなドレスを纏った貴族の婦人たちが午後の時間を楽しむ場所だ。

アリシアが注文のために席を立ち、ナラが一人でテーブルに残された時だった。

周囲の貴婦人たちの視線が、ナラに突き刺さった。


「……あら、嫌だわ。あの方、多分、『禁忌地区』出身の方かしら……」


「合成獣と素手で殴り合うような野蛮な子でしょう?被差別階級生まれに違いありませんわ……」


「どうしてこんな『汚れ者』が場所にいらっしゃるのかしらね。お店の空気が澱みますわね」


扇子で口元を隠した三人の貴婦人が、わざと聞こえるような声量で囁き合う。

ナラティブの肩がビクリと震えた。


「親の顔が見てみたいものですわね。ああ、失礼。禁忌地区出身ならば、親はモグラか野ネズミかしら?」


「おほほほ!違いないですわ!どぶ板の下がお似合いですこと!」


心無い言葉の刃が、ナラティブの心を切り裂く。

彼女は拳を握りしめた。

殴れば、殺せる。この扇子を持った細い首など、指先一つで折れる。

でも、できない。

ここで暴れれば、アリシアに迷惑がかかる。「アリシアの妹は野蛮だ」と、大好きな姉さんの評判まで傷つけてしまう。

ナラティブは唇を噛み締め、俯いた。


(我慢しろ。あたしは、姉さんの妹なんだ。我慢、我慢……)


悔し涙が、瞳の端に滲む。

その時だった。


「……わたくしの妹に、何か?」


空気が凍りついた。

物理的な温度が下がったのではない。圧倒的な「品格」の質量が、空間を支配したのだ。

貴婦人たちが驚いて振り返ると、そこにはアリシアが立っていた。

逆光を浴びて立つ彼女の姿は、神々しいまでに美しく、そして恐ろしかった。

碧眼は静かに凪いでいる。だが、その奥には、地下迷宮の魔物をも凍らせるような、絶対的な「怒り」と「守護の意志」が渦巻いていた。


「あ……あら……わ、わたくしたちは……」


貴婦人たちの脳がフリーズする。

目の前の女性が何者かは分からない。だが、本能が警鐘を鳴らしている。この方には勝てない、と。

彼女が放つのは魔力ではない。生まれ持った高貴さと、修羅場を潜り抜けてきた者だけが持つ、凄味だ。

貴婦人たちは震え上がった。

言い訳をしようにも、喉が張り付いて声が出ない。

ただ、悔し涙を浮かべて立ち尽くすしかない。自分たちが吐いた言葉の醜さが、アリシアという鏡に映し出され、自らを焼いているようだった。

ナラが、顔を上げた。


「姉さん……」


アリシアはナラを一瞥もしない。ただ、貴婦人たちを見据えている。

このままでは、貴婦人たちは社会的に抹殺されるだろう。アリシアの冷徹な一言で、彼女たちのプライドはズタズタになるはずだ。

だが、アリシアはそうしなかった。

彼女は、ふわりと、花が咲くように微笑んだのだ。


「……ふふ。皆様、わたくしの妹のドレスに興味をお持ちでしたの?」


「え……?」


貴婦人たちが呆気にとられる。

アリシアはナラの肩に手を置き、優雅に語り始めた。


「ご明察ですわ。さすがは王都の流行を牽引する皆様。……この子のドレスについているこの『汚れ』のように見えるもの、気になりますわよね?」


アリシアはナラの埃っぽい袖を愛おしそうに撫でた。


「これは、ただの汚れではありませんの。先日、古代遺跡の調査に赴いた際についた『星屑の砂』……いわば、勲章なのですわ。……それを一目で見抜いて『親はモグラか』と地下遺跡への探求を比喩されるなんて、皆様の詩的な感性には脱帽いたしますわ」


完璧な論理のすり替え。

侮蔑を称賛へ。差別を最先端のトレンドへ。

貴婦人たちは、逃げ場を与えられた。

「私たちは悪口を言ったんじゃない、彼女のスタイルを批評していたのだ」と、思い込むことができる。

だが同時に、彼女たちは理解させられた。「自分たちは、この高貴な女性の手のひらの上で踊らされているだけだ」という事実を。


「そ、そう……そうですわね!とても……個性的で、素晴らしいスタイルですこと!」


「わ、わたくしたち、急用を思い出しましたので、ごきげんよう!」


貴婦人たちは、顔を真っ赤にして、逃げるように去っていった。

それは敗走だった。だが、彼女たちのプライドという最低限の衣服だけは残された、慈悲深い敗走だった。

店内に静寂が戻る。

周囲の客たちは、今のやり取りを見て、感嘆のため息を漏らした。

武力で相手を潰すのではなく、知性とユーモアで相手を圧倒し、かつ場を収める。

これが、アリシア・ヴェリタスの戦い方だった。


「……姉さん」


ナラの声が震えている。

アリシアはナラに向き直り、その身体を優しく抱きしめた。


「ごめんなさいね、ナラティブ。嫌な思いをさせました」


「ううん……違うの。あたし、悔しくて……殴りたかったけど、姉さんのために我慢して……でも……」


「ええ、ええ。分かっていますわ。貴女は偉かった。殴り返すよりもずっと難しい『忍耐』という戦いを、貴女は立派に勝ち抜きました」


アリシアはナラの頭を撫でる。

ナラの強張っていた背中から力が抜け、彼女はアリシアの胸に顔を埋めた。

甘い紅茶の香りと、絶対的な安心感。


「ナラティブ。貴女は、わたくしの誇りです。どこの誰が何を言おうと、貴女は世界で一番気高く、美しいわたくしの妹ですわ」


その言葉は、どんな宝石よりもナラの心を満たした。

武力では、自分の方が強いかもしれない。

でも、この人は勝てない。

心を溶かし、敵さえも味方に変え、世界を優しい色に塗り替えてしまうこの「強さ」には、逆立ちしたって敵わない。


「……あたし、姉さんの妹でよかった」


「ふふ。わたくしも、貴女の姉で幸せですわ」


二人が抱き合う姿は、夕日の中で輝いていた。

それを見ていたカフェの店員や客たちは、誰もが温かい気持ちになり、自然と拍手が湧き起こった。

かつて「狂犬」と恐れられた少女が、今や王都のアイドルである姉に抱かれ、愛されている。

その光景は、王都の人々に「偏見」よりも大切な「愛」の形を教えていた。

その夜。探偵事務所のリビング。


「……ということがありましてね。ナラティブは本当に我慢強くて、良い子でしたわ」


アリシアが淹れたての紅茶を飲みながら、一日の出来事を報告している。

その隣で、ナラは照れくさそうに、しかし嬉しそうに珈琲を啜っていた。

そして、その向かい側。

エラーラは、二人の娘たちを交互に見ながら、満足げに頷いていた。


「ふむ。物理的能力に特化したナラ君と、社会性に特化したアリシア。……二人が組み合わされば、王都どころか世界の理不尽すらも突破できそうだね」


エラーラは、カップの中の黒い液体を見つめる。

かつて、孤独だった研究者の自分。

捨てられていた野獣のようなナラティブ。

そして、絶望の中にいたアリシア。

バラバラだった歯車が、今はこうして噛み合い、温かな熱を生み出している。


「お母さま、何をニヤニヤしてるのよ」


「ふふ、おかあさまもデートに行きたかったのですか?」


二人の娘にからかわれ、エラーラは「まさか」と肩をすくめた。


「私はただ、実験データの観察をしているだけだよ。『幸福』という名の、観測不可能なエネルギーのね」


エラーラにとって、世界を解き明かすどんな真理よりも、目の前のこの光景こそが、守るべき最大の奇跡「だった」。

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