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アリシア・ヴェリタス【哲学リョナ小説第3弾】  作者: ギデオン・ヴァンツ@週刊コロッセオ記者
・●第8章:ヴェリタスの天秤2 愛を知る者

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第2話:新しい出会い!

午後の日差しが、ヴェリタス探偵事務所の古い床板に長い影を落とし始めていた。

午前中の爽やかな空気は去り、代わりに澱んだような重い静寂が部屋を満たしている。

アリシアは、冷めかけた紅茶のカップを手に、窓際で立ち尽くしていた。

猫たちが、不安そうにアリシアの足元をうろうろと歩き回る。彼らは敏感だ。この家の「主」であるアリシアの心が、千々に乱れていることを察知しているのだ。


「……遅いですわ」


アリシアの唇から、微かな吐息と共に言葉が漏れる。

エラーラとナラが出かけてから、すでに半日が経過していた。予定では、昼過ぎには一度定時連絡が入るはずだった。だが、通信機代わりの魔導端末は、不気味なほど沈黙を保っている。

その時だった。

テーブルの上に置かれた魔導端末が、唐突に赤黒い明滅を始めた。優雅な呼び出し音ではない。非常事態を告げる、不協和音のような警報だ。


「ッ!」


アリシアはカップを置き、魔導端末に駆け寄る。

魔導端末からノイズ混じりの音声が響いた。


『――シア!アリシア!聞こえるか! こちらエラーラ!』


「おかあさま! ご無事なのですか!?」


『物理的な肉体はまだ維持できている! だが、状況は芳しくない! 予想していた魔導反応と違う! これは……古代の位相迷宮だ! 空間が閉じていく!』


「位相迷宮……!? 座標は!? ナラティブは!?」


アリシアの悲痛な叫びに、通信の向こうから激しい破砕音が響いた。何かが砕け、誰かが叫んでいる。


『姉さん! 来ちゃダメ! ここ、ヤバイわ! あたしの鉄扇でも空間が割れない! 敵が……影みたいに湧いてくるのよ!』


ナラの声だ。いつもは強気な彼女の声が、焦燥と、そして何より「姉を巻き込みたくない」という拒絶の意志で張り詰めている。


『くそっ、ナラティブ、右だ! ……アリシア、すまない! 自力での脱出を試みるが、魔力回路が干渉を受けている! 解析に時間が……』


唐突に、通信が途絶えた。赤い光が消え、ただの石ころに戻った魔導端末が、冷たくテーブルに転がる。


「……嘘でしょう」


アリシアの顔から血の気が引く。

位相迷宮。それは、空間そのものを隔離し、内部の者を永遠に彷徨わせる最悪のトラップだ。魔法の天才であるエラーラですら、解析に時間がかかると言った。その時間を稼ぐのは、ナラティブだ。魔力を持たない、生身の妹が、無限に湧き出る影を相手に、たった一人で。


「……行かなければ」


アリシアは立ち上がった。

だが、足がすくむ。行って、どうする?

自分には魔法がない。空間を切り裂く剣技もない。現場にたどり着く足さえ、この事務所にはない。


「わたくしは……また、何もできずに……待つだけなのですか?」


かつての絶望が蘇る。時計塔の上で風に吹かれていた、無力な自分。

愛する妹が傷ついているのに。愛する母が苦境にあるのに。

知性だけあっても、それを運ぶ手段がなければ、ただの傍観者だ。

絶望が、黒いインクのように心に広がりかけた、その時。

玄関の扉が、まるで攻城兵器でもぶつけられたかのような轟音と共に吹き飛んだ……いや、開け放たれた。


「たのもぉぉぉぉぉッ!!あらやだ、なんてシケた……いえ、詫び寂びの効いた空間!まるで廃墟を愛でる前衛芸術のようですわねッ!」


嵐が来た。

そう錯覚するほどの、圧倒的な色彩と音圧。

入り口に立っていたのは、一人の女性だった。

美しい金髪を高い位置でポニーテールにまとめ、それが動くたびに馬の尻尾のように跳ね回る。

服装は、およそ淑女とは程遠い。ペンキや油絵具で極彩色に汚れた作業用のデニムに、袖をまくり上げたシャツ。背中には身の丈ほどもある巨大なキャンバスを背負っている。武器など一つも持っていない、純然たる「労働者」の出で立ちだ。


「……なっ……」


アリシアは呆然とした。あまりの場違いな登場に、絶望すら一瞬で吹き飛んでしまった。


「どなたですの!?アポイントメントのない方の立ち入りは……」


アリシアが気丈に叫ぼうとすると、その女はズカズカと土足でリビングに上がり込み、アリシアの顔を至近距離で覗き込んだ。


「ま!なんて美しい!貴女、まるで『悲劇のヒロイン』の完成形ですわね! その憂いを帯びた瞳! 色素の薄い肌! 今すぐ額縁に入れて飾りたいくらい!」


「失礼な!離れてくださいまし!」


「あたし? あたしはただの通りすがりの天才画家ですわ!……ふんふん、それにしても暗いですわねえ、ここ」


自称天才画家は、部屋の中を勝手に歩き回り始めた。

彼女が動くたびに、強烈な画材の匂いと、何か甘い香水が撒き散らされる。

アリシアの警戒レベルは最大まで跳ね上がった。


(このタイミングで、こんな不審者が……? まさか、今回の事件に関係する刺客? おかあさまたちを罠に嵌めた組織の手先?)


アリシアは、テーブルの下に隠していた護身用の小型クロスボウに手を伸ばそうとした。

だが、その時。

女が、ふと足を止めた。

彼女はポケットに手を突っ込み、窓の外、王都の景色を見下ろした。

そこには、きらびやかな貴族街の影で、貧民たちがうごめき、理不尽な暴力が日常的に横行する「現実」が広がっている。

女は、ポツリと、独り言のように呟いた。


「……相変わらず、ここは灰色ですわね」


そのたった一言。

わずかにトーンの落ちたその声を聞いた瞬間。

アリシアの脳内で、バラバラだったピースが一瞬にして組み上がった。


(――「灰色」?)


アリシアの観察眼が、女の背中を貫く。

この王都を「灰色」と呼んだ。

だが、この女性の姿はどうだ? 目が痛くなるほどの極彩色のペンキ。過剰なまでに明るい振る舞い。芝居がかった大声。

なぜ、ここまで「色」を纏う必要がある?


(……ああ、そうですか。貴女も、見えてしまっているのですね)


アリシアは悟った。

この女性は、王都の腐敗、貧困、救われない命……その「灰色」の現実を、誰よりも鮮明に見てしまっている。

だからこそ、それに押しつぶされないように、あるいはその灰色を塗りつぶすために、自らが「原色」の塊となって抗っているのだ。

彼女の派手さは、道化の衣装ではない。

それは、絶望に対する「戦闘服」だ。

ふざけているのではない。彼女は今、この瞬間も、その筆一本で、残酷な世界と孤独に戦っている戦士なのだ。


(……わたくしと同じ。いえ、わたくし以上に、不器用で、優しい方)


アリシアの手が、クロスボウから離れた。

警戒心は霧散し、代わりに静かな共感が胸に広がる。


「……ええ。本当に、嫌になるくらい灰色ですわね」


アリシアが静かに同意すると、女がハッと振り返った。

その目は丸く見開かれ、「見抜かれた」という驚きと、そして「理解された」という微かな歓喜に揺れていた。

女は数秒間アリシアを見つめ、それから、ニッと悪戯っぽく笑った。


「……嫌ですわねえ。探偵さんというのは、人の心の皮を剥ぐのがお上手で」


何も語らずとも、二人の間にはすでに奇妙な連帯が生まれていた。

女はふと、壁に飾られた一枚の写真に目を留めた。

それは、先日アリシアが無理やり撮った、ナラとアリシアの、不格好だが幸せそうな家族写真だった。


「……あら」


女の目が、写真の中のナラに釘付けになる。

黒髪の少女が、少し恥ずかしそうに、しかし誇らしげに写っている。


「この、黒髪の子の知り合いで?」


「……知り合いも何も、わたくしの自慢の妹ですわよ?」


「ということは、お姉様!?……妹さんは先日、街に現れた魔獣を撃退するために戦って、返り血を浴びて、ドレスを裂かれてもなお、彼女は髪をかき上げて『あたしの家族の夕飯を邪魔するんじゃないわよ』と啖呵を切ったんです!」


女は興奮気味に、絵筆を指揮棒のように振り回す。


「その姿の、なんと美しく、悲しく、そして力強かったことか!彼女は本当は震えていた。でも、守るもののために、その恐怖を怒りに変えて、舞うように戦っていた!」


女はアリシアに詰め寄る。


「あんなに『愛』に溢れた暴力、初めて見ましたわ!まさに『抗う美』!あたしが描きたかった、生命の輝きそのものでしたの!そう、彼女は……」


「ナラティブ。ナラティブ・ヴェリタスですわ」


アリシアは微笑んだ。この女性は、ナラティブの「強さ」だけでなく、その裏にある「恐怖」と「愛」まで見抜いている。この人の審美眼は本物だ。


「……それで、お姉様。どうしてそんなに泣きそうな顔をなさっているの? まさか、その愛すべき妹さんが、今どこかで絵にならないピンチに陥っているとか?」


アリシアの笑みが消える。


「……ええ。おかあさまとナラティブが、捜査先で……身動きが取れなくなっています。位相迷宮に囚われ、影に襲われていると」


アリシアは拳を握りしめた。


「わたくしは……行きたい。今すぐにでも行って、あの子たちの頭脳になりたい。でも、わたくしには翼もなければ、高速で移動する魔導車もありません。……ただ、ここで祈ることしかできないのです」


悔しさが滲む声。

それを聞いた女は、ポンと画材道具を肩に担ぎ直した。


「あら、それなら話が早いですわ」


女は窓の外を親指で指した。


「翼はありませんが……『地を這う流星』なら、表に停めてありますわよ?」


アリシアが窓から覗き込むと、そこには派手な装飾が施された、見たこともない形状の魔導荷車が停まっていた。エンジン……いや、魔導機関が剥き出しに改造され、荷台には画材が山積みにされているが、明らかに法定制限速度を無視するための違法改造が施されている。


「あれは……?」


「ふふん、あたしの可愛い『画材』ですわ。インスピレーションが湧いた場所に駆けつけるには、速度が必要でしょう?」


女はアリシアに手を差し出した。


「乗りなさいな、お姉様。……いえ、アリシアさん。貴女のその『知性』と、あたしの『速度』があれば、悲劇なんてシナリオ、ハッピーエンドに書き換えられますわ」


「貴女……お名前は?」


女はポニーテールをバサリと払い、ウインクをした。


「リウ。リウ・ヴァンクロフト。ただの、通りすがりの天才画家ですわ」


アリシアは、自称天才画家・リウの手を見つめた。


絵の具で汚れ、筆ダコのある手。だが、力強く、温かい手。

それは、絶望の淵にいた自分に差し伸べられた、新たな希望の蜘蛛の糸。


「……リウ様。貴女は、本当に変わった方ですわね」


「よく言われますわ。最高の褒め言葉として受け取っておきます」


アリシアは、リウの手をしっかりと握り返した。


「感謝します。……でも、一つだけ訂正を」


アリシアは、キッと顔を上げ、司令官の顔つきになった。


「わたくしはただ守られるだけの姫ではありません。乗るのは『助手席』ではなく、『司令席』ですわよ」


「おーっほっほ! 望むところですわ! さあ、行きましょう! ナラティブさんのピンチを救うなんて、最高の絵画になりそうですもの!」


「ええ。……待っていなさい、ナラティブ、おかあさま。今、わたくしが――わたくしたちが、参ります!」


アリシアは、エラーラ特製の防御バリア発生装置と、王都の地下地図、そして数本の予備杖を鞄に放り込んだ。

機能性を重視したライディング・ドレスの裾を翻し、彼女は駆け出す。

その隣には、新しい友、リウ・ヴァンクロフト。

金髪のポニーテールが、戦旗のように揺れる。

画家である彼女に剣はない。だが、その瞳には退屈と絶望を切り裂く、鋭い光が宿っている。

午後の日差しの中、改造魔導荷車のエンジンが咆哮を上げた。

タイヤが石畳を削り、白煙を上げる。

ヴェリタス探偵事務所の前に、黒いタイヤ痕を残して、二人の乙女を乗せた「流星」が飛び出した。

目指すは、空間が歪み、影が蠢く死地。

だが、今の彼女たちに恐怖はない。

「家族」を想う心と、「退屈」を憎む心が共鳴し、最強の後衛チームがここに爆誕したのだ。


「飛ばしますわよ、アリシア!画材が崩れても気にしないで!」


「ええ、もっと踏み込みなさい、リウ! 計算上、あと5分で到着できます! わたくしがナビゲートしますわ!」


風を切る音が、二人の笑い声と共に王都の空に消えていった。


【つづく】

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