第2話:重大な嘘と些細な真(2)
突風と共に現れたのは、白衣をバサバサと翻し、ボサボサの銀髪を逆立てた女――エラーラ・ヴェリタスだった。
「10分だ!私は10分と言ったはずだ!なのに現在、経過時間は1時間32分!私の体内時計と現実の誤差が臨界点を超えている!このままでは培養中の『加速カビ』が進化して、冷蔵庫の中に新文明を築いてしまうぞぉぉぉ!」
エラーラは立ち止まらない。
広いロビーを、落ち着きなくウロウロと歩き回り、壁の時計を指差し、独り言を叫び、空中で見えない数式を手で書き殴る。
そのエネルギーは、台風並みだ。
「……フム?空気の淀みが著しい!酸素濃度低下!これでは脳のシナプス結合に支障が出る!……おいナラ君!なぜ君はこんな場所で油を売っているんだね!」
「あ……」
ジュリアスの動きが止まった。
本物だ。だが、想像していた「威厳ある大賢者」と違う。
制御不能の暴走機関車だ。
「え、エラ……ヴェリタス博士……?……お久しぶりです……」
ジュリアスが恐る恐る声をかけると、エラーラは振り返った。
その青い瞳が見開かれ、ジュリアスをロックオンする。
「フム?……誰だね君は!」
エラーラは、縮地法のような速さでジュリアスの目の前に詰め寄った。
顔が近い。鼻先数センチだ。
「瞳孔が開いている!心拍数上昇! 発汗過多!典型的な『虚勢』と『パニック』の反応だ!興味深い!ああ、実に興味深いねぇ!」
エラーラは、ジュリアスの顔を両手でガシッと掴み、左右に振って観察した。
「い、いや、僕はジュリアスで……!ほら、カフェで!『黄金比ブレンド』を!『重力との対話』をした仲…………じゃないですか?」
ジュリアスが必死に設定を守ろうとすると、エラーラは目を見開いて、天を仰いだ。
まるで雷に打たれたかのようなオーバーアクションで叫ぶ。
「なんだとぉぉぉぉッ?」
その大声に、役所中の視線が集まる。
「重力との対話?なるほど!驚きの新理論だ!……いや、違う!……いいかね?重力とは対話可能な知的生命体ではない!仮にもし君が重力とコミュニケーションを取れるなら、君は……さては人間ではないな?高次元生命体か、あるいは……」
エラーラはジュリアスからパッと手を離し、ナラの方へ向き直った。
そして、大袈裟なジェスチャーで両手を広げた。
「……ナラ君よ、説明したまえ。一体全体、どうして君は、こんな……どこの馬の骨とも知れない……いや、骨格標本にもならないような『ノイズ』と1時間近くも会話しているんだ?時間の浪費は大罪だぞ!」
「あはは……。ごめんお母様、ちょっと面白くて」
ナラが笑うと、エラーラは再びジュリアスに詰め寄った。
今度は、カウンターに身を乗り出し、ジュリアスの名札を指先で弾いた。
「で……少年!君はさっき、私の娘のナラにこう言ったね?『ヴェリタスを知っているか』と!ああ知っているとも!ここにいるのがナラティブ・ヴェリタスだ!そして私がオリジナルのヴェリタス、エラーラ・ヴェリタスだ!そして君の記憶にある『カフェでの優雅なひととき』など、並行世界のパラドックスでも起きない限り存在しないッ!」
エラーラのテンションは最高潮だった。
彼女はポケットから懐中時計を取り出し、カチカチと叩いた。
「結論を言おう!君の嘘は、科学的に破綻している!全ての変数が『君はただの見栄っ張り』という解を導き出しているのだよ!」
「ひ、ひぃぃぃ……!」
ジュリアスは、エラーラの圧倒的な熱量と、マシンガントークの風圧に押され、椅子ごと後ろにひっくり返った。
「じゃあほら、リウ!そう!……リウ・ヴァンクロフト!彼女の話は嘘じゃないですから!」
その時だった。
「んー?なんだかわたくしの名前が聞こえた気がしますわねー?」
ロビーの隅にある、観葉植物の陰から、一人の少女がひょっこりと顔を出した。
金髪を無造作に束ね、ペンキで汚れた作業着を着た少女。
手にはスケッチブックを持っている。
ジュリアスは、彼女がそこにいたことに気づいていなかった。
「……リ、リウ……?」
ジュリアスが固まった。
そこにいたのは、本物のリウ・ヴァンクロフトだった。
リウは、目をキラキラと輝かせ、猛獣のような笑顔で、ドカドカドカドカと騒がしくジュリアスに歩み寄った。
「もう!待ちくたびれましたわ!エラーラさんが『面白い場所に行く』って言うからついてきましたけど、最高にエキサイティングでしたわよ!」
「リ、リウ……!あんた、なんでここに……!」
「ずっと座ってましたわよ?貴方が『俺の席だ』って言って荷物置いてた椅子の隣に!」
リウはスケッチブックをバサリと開いた。
「で、お話、全部聞かせてもらいましたわ!いやー、独創的ですわね!」
リウは、無邪気にジュリアスを追い詰めた。
「で、でも……!」
ジュリアスは冷や汗を流しながら反論を試みた。
嘘がバレた。絵を教えたことも、寝たことも、全部嘘だとバレる。
だが、彼は最後の砦にしがみついた。
「でも、お前さお前!投資で400万失ったのは本当だろ?あと、巨大尻尾の誰かを連れ込んだのも、宇宙に行ったのも、本当じゃないか!……本当って言ってくれえええ!」
ジュリアスは、自分の嘘を本人に突きつけた。
やけくそである。
だが、リウはキョトンとして、あっけらかんと言った。
「本当ですわよ?」
「……は?」
ナラとジュリアスの声が重なった。
リウは、ガハハと笑った。
「400万クレスト?ええ、昨日『エンパイアトロマ・コイン』とかいう怪しい魔導通貨に全ツッパして、5分で溶かしましたわ!でも、それがなにか?わたくし、『ヴァンクロフト製造』の筆頭株主ですもの。400万くらい秒で振り込めますわ!」
「……ゔぁんくろふと……せいぞう……?」
ジュリアスが泡を吹いた。
ヴァンクロフト製造。王都最大の重工業メーカー。
リウ・ヴァンクロフトは、その直系の令嬢なのだ。
「次に、『ふくよかな尻尾』のお話!」
リウは頬を染めて、うっとりと言った。
「ええ、連れ込みましたわ!道端でたまたま見かけた、茶髪で、背が恐ろしく高くて、ちょっとおどおどしていた、抱き心地最高の巨大狐ちゃんですわ!昨日、わたくしの家にお泊まりに来てくれて、一晩中いちゃいちゃ抱きしめて寝ましたの!あの尻尾の弾力……ごん太尻尾……まさに芸術ですわ!」
「……?」
ジュリアスが呆然とする。
ナラは、頭を抱えた。
「そして極めつけは、『宇宙』!」
リウは、目をカッと見開いた。
「ええ、行きましたわ!宇宙!『コスモ・クリーン・ソサエティ』とかいう怪しい活動家の集会に潜入したら、なにやら謎の光る液体を飲まされて……気づいたら銀河の果てで星々と対話してましたの!帰ってきたら道端で寝てましたけど、あれは間違いなく宇宙でしたわ!最高にクレイジーなインスピレーションが湧きましたのよ!」
ジュリアスは、言葉を失った。
彼は嘘をついていたつもりだった。
「400万なんて大金、失うわけない」。
「巨大尻尾女子と寝るなんて変態だ」。
「宇宙に行ったなんて狂人の妄想だ」。
だが、事実は彼の想像を遥かに超えていた。
400万は彼女にとっては小銭。
巨大尻尾女子は彼女にとっては至高のご褒美。
宇宙は……精神的に、本当に行っていた。
「……な、なんだあ、お前……?」
ジュリアスは後ずさりした。
目の前の少女が、急に得体の知れない怪物に見えてきた。
「僕の……僕の嘘より、お前の現実の方が狂ってるじゃないか……!」
「……狂ってる?アンタのありきたりな嘘なんて、『本物』の前じゃ霞んで見えたわ。現実が見えてないのはどっちかしらね、道化師さん?」
「ひ、ひぃぃぃッ!」
ジュリアスは、失禁しそうだった。
目の前には、スラム上がりの狂犬・ナラティブ。
横には、暴走する賢者・エラーラ。
後ろには、奇行のモンスター・リウ。
自分が「支配」していたと思っていた世界は、完全に逆転していた。
自分が一番「まとも」で「凡庸」で「ちっぽけ」な存在だったのだ。
「ぼ、僕は……僕は……!パパに……パパに言いつけてやるぅぅぅ!」
彼は、幼児のように泣き叫びながら、奥の部屋へと逃げ込んでいった。
その背中は、勇者でも、フィクサーでもなく、ただの「現実の重さに耐えきれなかった凡人」の姿だった。
「フム……」
エラーラは、ボサボサの髪をかき上げた。
「さあ帰るぞナラ君!リウ君!カビが!私の可愛いカビたちが待っているんだ!事実は小説より奇なり、とは言うが……君たちの周りはどうもエントロピーが高すぎるよ!」
「あら?いいじゃない。たまにはこういう『お笑いライブ』も悪くないわよ」
ナラは、走り出すエラーラを追いかけながら笑った。
その横で、リウはスケッチブックに何かを描き殴っていた。
「いやー! 最高のモデルでしたわ!『嘘つきが真実に敗北する顔』……傑作が描けそうですわ!」
三人の笑い声が、カビ臭い役所に響く。
後に残されたのは、書類と、嘘と、そしてリウが描き残したスケッチ――
王冠を被った豚が、宇宙空間で「僕は正常だ」と叫んでいる風刺画だけだった。




