第1話:重大な嘘と些細な真(1)
王都役所、第4出張所。
その場所は、カビと古紙と、やる気のない役人特有の澱んだ空気に満ちていた。
窓口のカウンターを挟んで、ナラティブ・ヴェリタスは目の前の男――ジュリアスを凝視していた。
「……はぁ。君さ、字、汚いんだよねぇ」
ジュリアスは、ナラが提出した書類を指先で摘み上げ、汚いものを見るように鼻で笑った。
「『ナラティブ』……?下の名前しか読めないよ。名字は?ま、いいや。ここの欄、インクが滲んでるから書き直しね」
彼は、ナラティブのフルネーム「ナラティブ・ヴェリタス」を読んでいなかった。
ナラティブの派手なドレスを見て「どうせ水商売の無教養な女だ」と決めつけ、書類の中身になど興味を持たなかったからだ。
「……書き直せって言うならペン貸して」
「あーごめん。これね、僕の私物。50,000クレストする万年筆だから、君みたいなガサツなのが触るとペン先、曲がっちゃうんだよね」
ナラの腹の底で、ドス黒いマグマが煮えたぎった。
鉄扇で鼻をへし折るか。それとも机ごと蹴り飛ばすか。
彼女が脳内で暴力のシミュレーションを完了し、実行に移そうとした、その時だった。
ジュリアスが、勝ち誇ったように言った。
「ま、君さ、僕に楯突くのはいいけど、自分の『格』、わきまえた方がいいよ。僕はこう見えて、王都のVIPとも繋がりがあるんだ。ブイ・アイ・ピーだよ?」
「……は?ビップ?」
「君……エラーラ・ヴェリタスって、知ってる?」
ナラの思考が一瞬停止した。
自分の同居人であり、保護者であり、今朝「コーヒーメーカーの抽出圧が0.1気圧ずれている!」と実験器具をひっくり返して暴れていたあの魔女の名前が、なぜこいつの口から?
「……知ってるけど。それが?」
「ハッ。君が知ってるのは『新聞で見る大賢者様』だろ?僕はね……なんと、彼女と個人的な付き合いがあるんだよ!」
ジュリアスは、椅子にふんぞり返り、得意げに語り始めた。
「僕の姉がバイトしてるカフェに、あの『大賢者エラーラ』がよく来るんだよ。で、僕もたまに手伝いに行くんだけどさ……。あの人………………僕が淹れたコーヒーも飲んだことあるんだよ!」
ジュリアスは身を乗り出した。
「あの大賢者がさ、『君の豆の挽き方は合理的だね』……って褒めてくれたんだ!つまり、僕のセンスは世界最強の魔女お墨付きってわけ。君は、彼女の足元にも及ばないんだよ!」
(……こいつ、さては嘘ついてるな?)
ナラは瞬時に悟った。
エラーラは他人が淹れたコーヒーなど、基本的に褒めない。
そして、こいつは、あたしの名前が「ヴェリタス」だと気づいていない。
その瞬間。
ナラの中で、何かが「プツン」と切れた。
それは怒りの導火線ではない。
「呆れ」が限界突破し、一周回って「エンターテインメント」へと昇華するスイッチだった。
(……面白いじゃない。)
ナラは、鉄扇を震わせた。
怒りで震えているのではない。笑いを堪えているのだ。
だが、彼女はそれを「嫉妬と敗北感による震え」に見えるように、全身で演技をした。
「そ、そんな……!」
ナラは、悲劇のヒロインのように目を見開いた。
「く、悔しいッ……!あの大賢者様が……あたしたち庶民には雲の上の存在のヴェリタス様が……!アンタのコーヒーを……褒めたですってぇぇぇ!?」
「お?やっぱ?……おー。なるほど」
ジュリアスの顔に、あからさまに優越感が広がる。
「へえ。君みたいな庶民でも、彼女の凄さ、分かるんだ。ま、才能の差だから仕方ないよ。僕の『黄金比ブレンド』は、王都のバリスタたちも顔負けだからね!」
「黄金比……!なんて高尚な響きなの!」
ナラは、机に突っ伏して悔しがった……フリをした。
「教えて!お願い、師匠!」
ナラは、目を潤ませて懇願した。
「どうすれば……どうすれば、そんな『エリートの味』が出せるの!?」
「ふふん。んー、んー。んまあ、君には難しいかなぁ。……まだね」
ジュリアスは完全に調子に乗った。
彼は、自分には世界を動かす才能があると本気で信じ込み始めていた。
「でもさ、僕、人脈はエラーラだけじゃないんだよね」
ジュリアスは、チラリとナラを見た。
もっと驚かせたい。もっと崇めさせたい。
「君、リウ・ヴァンクロフトって知ってる?」
「リウ……?」
ナラは首を傾げた。
リウ・ヴァンクロフト。北都から引っ越してきた画家であり、ナラの友人だ。
「リウ・ヴァンクロフトも知らないのか!」
ジュリアスは呆れたように肩をすくめた。
「これだから無教養はね。彼女はね、今もっとも注目されている現代アーティストだよ。……ま、世間では『天才』なんて持て囃されてるけどさ」
ジュリアスは、声を潜めてニヤリと笑った。
「実はね。彼女、僕が絵を教えてやったんだよ」
「ええっ!?」
「彼女さ、最初はも、線も引けなくてさ。僕のとこに『絵を教えてください』つって泣きついてきたんだ。で、僕が手取り足取り叩き込んでやったんだ。今の彼女の作風?……あれねえ、全部僕の模倣だから」
「そ、そそそ、そんなぁぁぁッ!!?」
ナラは大袈裟な演技で仰け反った。
(あの感覚で描く変態のリウが、こいつのコピー!?笑わせないで!)
「それにね、彼女、金銭感覚さ、バカなんだよ」
ジュリアスは、やれやれと首を振った。
「こないだ彼女、投資に手を出して400万クレストも失ったんだ」
「よ、400万!?400万クレスト!?」
ナラは素で聞き返した。
「そう。僕が『やめろ』って忠告したのに。『先生、どうしてもこの魔導通貨が上がる気がするんです』って聞かなくてさ。結局、大暴落。ま、泣きついてきたから、僕がポケットマネーで補填してあげたんだけどね」
(……嘘だ。絶対嘘だ。こいつが400万もポンと払えるわけない)
ナラは衝撃を受けたふりをして、笑いをこらえた。
ジュリアスはさらに声を潜め、下卑た笑みを浮かべた。
「それにさ、彼女、裏では相当乱れてるよ。……はっきし言って、ずいぶんと……遊び人だね」
「はぁ!?」
「こないださ。見たんだよ。彼女がさ、ふくよかな、尻尾が恐ろしく太い獣人の女を自宅に連れ込んでいるのをさ」
「……ふくよかな、しっぽのふとい……?」
ナラは、ピクリと反応した。
(……「尻尾」したい!私も混ざりたかったッッッ!)
ナラは、獣人の尻尾フェチなのだ。特に、丸太のような太い尻尾には目がない。
「あーんな巨大尻尾を連れ込んで、いったい二人で何してたんだか。リウの奴、普段は清純ぶってるけど、裏ではあんな尻尾ごときのオタクだったとは……想像するだけで笑えてくるよ」
ナラティブの、血管が切れる音がした。
あたしをバカにするのはいい。リウを変人扱いするのも許す。
だが、「太い尻尾」を。
私の……性癖を。
(……こいつ、半分だけ殺しちゃおうかな……)
だが、ナラはプロだ。
殺意を押し殺し、顔を覆って慟哭の演技を続けた。
「ひ、酷い……!ジュリアス様、アンタはそんな汚れた女も指導してあげたの!?」
「ま、ね。僕の慈悲深さってやつ?」
そして、ジュリアスは最大の爆弾を投下した。
「極めつけはさ。彼女、頭もちょっとアレなんだよ。こないだなんか、真顔で言ってたからね。『私、宇宙に行ってきたんです』って。笑えるだろ」
「……宇宙?」
「そ。『謎の儀式に参加して、魂が銀河を超えた』とかいう妄想を垂れ流してさ。完全にヤバい奴でしょ?僕が『はいはい、大変だったね』ってなだめてやったんだよ」
ナラは、腹筋が崩壊寸前だった。
(宇宙!?リウ、いよいよあんた、「あっちの世界」にまで行ったの!?あんたの想像力は……王都一ね!)
「す、すごい……!妄想癖のある女子を支えるなんて、ジュリアス様は神様です!」
「いんだよ。天才には狂気がつきものだからね」
ジュリアスは、完全に自分の世界に入り込んでいた。
ナラの過剰な演技を、全て「真実の称賛」として受け取っている。
「……ふぅ。まあ、こんなところかな」
1時間後。
ジュリアスは満足げに言った。
「ど?君のちっぽけな脳みそでも、僕の偉大さが理解できた?」
「はい……!なんだか、生まれ変わった気分です!」
「ハハハ!……あ、そだ。連絡先、交換しとく?特別に、僕の飲み会に呼んであげてもいいよ」
ジュリアスが魔導端末を取り出した、その時。
役所の自動ドアが、自動で開くよりも早く、何者かの手によって物理的に押し開けられた。
いや、蹴破られたと言っても過言ではない衝撃音だった。
「ナラくんッ!遅いぞ!」




