第1話:走り屋と車椅子(1)
王都の喧騒から離れた郊外。なだらかな丘の上に、高級老人ホーム「黄昏」はあった。
探偵ナラティブ・ヴェリタスは、ため息混じりにその門をくぐった。
今回の依頼は「施設内で頻発する、入居者の総入れ歯盗難事件の調査」。
世界を揺るがす陰謀や、凶悪な魔獣退治とは無縁の、なんとも平和で間の抜けた依頼だ。
母であるエラーラは「ポルターガイスト現象には運動会をぶつけたほうが良いね」などと適当なことを言って、ナラ一人を送り出したのだ。
施設内は、予想通りの静けさに包まれていた。
磨き上げられた大理石の廊下。すれ違う職員たちの穏やかな笑顔。談話室からは、優雅なハープの音色が流れている。
ナラは、聞き込みのために廊下を歩き出した。
その時だった。
「どきなァ!轢かれたくなきゃ壁とキスしてなッ!」
静寂を引き裂く怒号と共に、背後から何かが迫ってくる。
魔導具の駆動音ではない。もっと原始的な、硬いゴムが石床を削る摩擦音だ。
ナラが反射的に壁際に飛び退いた瞬間、目の前を「紅蓮の影」が通過した。
風圧がドレスの裾を舞い上げる。
影は、廊下のT字路で信じられない動きを見せた。
搭乗者が体を大きく傾け、片側の車輪をロックさせる。慣性に従い、車体は横滑りを始める。
ドリフトだ。
鮮やかなスピンターンを決めて停止したのは、真っ赤に塗装された車椅子に乗る、一人の老婆だった。
白髪を逆立て、サングラスをかけ、派手なアロハシャツを着ている。80歳は超えているだろうが、その腕の筋肉は隆起し、血管が浮き上がっていた。
「……チッ。あぶねぇな。一般歩行者は路側帯を歩きな!」
老婆はサングラスをずらし、ナラを睨みつけた。
ナラは唖然としつつも、抗議した。
「ここは廊下です。走る場所では……」
「あァ? 何を寝ぼけたことを。ここは『サーキット』。……走る場所だろうが」
老婆は不敵に笑い、懐から魔石蒸気パイプを取り出して一服した。甘いフルーツの香りが漂う。
「それにしても、いい度胸だね、姉ちゃん。アタシのドリフトを目の前で見ても悲鳴一つ上げねぇとは」
老婆はナラを値踏みするように見た。そして、ナラの手元に視線を止めた。
彼女の手は、日々の鍛錬と、時折手伝わされる母の実験のせいで、貴族の令嬢のように滑らかではない。小さな傷や、薬品の染みが残っている。
「ほう……いい指をしてるね。油汚れが似合いそうな手だ」
老婆はニヤリと笑った。
「おい姉ちゃん、名前は?」
「……ナラティブです。しがない探偵です……」
「探偵? フン、なんとも胡散臭ぇ商売だ。だが、ちょうどいい。……付き合いな!アタシの『ピットクルー』が腰をやって逃げちまってもう、困ってたんだ!」
「はあ?……お断りします。私は仕事中で……」
「細かいこたぁ気にするな!来な!」
老婆の腕が伸び、ナラの腕を鷲掴みにした。
嘘のような怪力だった。
「ちょっ、離して!」
ナラの抵抗も虚しく、彼女は老婆の車椅子に引きずられるようにして、施設の奥へと連行されていった。
「アタシはハナだ。『紅蓮のハナ』と呼びな。さあ、戦争の時間だぜ!」
ハナに連れてこられたのは、施設の中庭に面した多目的ホールだった。
そこには、数十人の入居者が集まり、何やら熱気帯びた雰囲気になっていた。
中央には、簡易的なスタートゲートが設置され、その先には、建物の外壁に沿って屋上まで続く、長い螺旋状のスロープが見える。
「あら、ハナさん。ピットクルーは見つかりまして?まさか、怖気づいて逃亡したのではなくて?」
優雅な声と共に現れたのは、煌びやかな金色の車椅子に乗った老婆だった。
巻き髪に、高価な宝石をジャラジャラとつけ、扇子で口元を隠している。彼女の車椅子は、もはや玉座のようだった。最高級の魔獣の革を使ったシート、繊細な彫刻が施されたフレーム、そして車輪の中央には魔導モーターの輝きが見える。
「誰が逃げるかよ、この成金ババアが」
ハナが唾を吐き捨てる。
成金ババアと呼ばれた老婆、カネコは、扇子の隙間から冷ややかな視線を向けた。
「野蛮ですこと。それに、またその……ゴミ捨て場から拾ってきたような鉄屑に乗ってらっしゃるの?私の『ゴールデン・バタフライ』をご覧なさい。王都最高の魔導技師に特注した逸品。お値段、しめて500万クレストですわ」
会場がどよめいた。500万クレストといえば、王都の一般市民の年収を遥かに超える金額だ。
ハナは愛機をバンと叩いた。
「テメェのそいつは、無駄な装飾でデブなんだよ!アタシの『レッド・コメット』を見ろ!」
ナラは、ハナの車椅子を改めて観察した。
確かに、カネコのものと比べるとみすぼらしい。塗装は剥げかけ、フレームは継ぎはぎだらけだ。
「フレームは廃材置き場で拾った水道管! タイヤは捨ててあった子供用荷車の流用!座布団は王都の庶民市場の特売品!総制作費、締めて15万
クレスト!」
再び会場がどよめいた。今度は、あまりの安さに。
「だがなあ!こいつは余計なモンを一切削ぎ落とした、純粋な『走るための機械』だ!魂のチューニングで、テメェのその金ピカより3倍速いんだよォ!」
「オーッホッホ!笑わせてくださいますわね。
乗り物は『値段』こそが正義! 資本力の差を、その身に刻んで差し上げますわ!」
二人の視線がバチバチと火花を散らす。
これは、ただの老人の喧嘩ではない。プライドを懸けた、走り屋たちの抗争だった。
「……ねえ、あんた。本当にこれで勝負する気?」
ナラが小声で尋ねる。
どう見ても、性能差は歴然だ。カネコの車椅子は最新の魔導モーター駆動。対するハナは、人力だ。
ハナはニヤリと笑った。
「見てなよ、探偵さん。勝負ってのは、スペックだけで決まるもんじゃねぇ」
レースが始まった。
「レディ……ゴーッ!!」
スタートの合図と同時に、カネコの『ゴールデン・バタフライ』が、魔導モーターの唸り声を上げて飛び出した。
「ごきげんよう!お先に失礼!」
優雅なワルツを大音量で流しながら、カネコが螺旋スロープを駆け上がっていく。
一方、ハナは出遅れた。
ハンドリムを掴む腕に、凄まじい力が込められる。
「うおぉぉぉッ!」
ハナの上腕二頭筋が膨れ上がり、アロハシャツが悲鳴を上げる。人力とは思えない加速で、カネコを追う。
ギャラリーの老人たちが熱狂する。
「いけぇ! ハナさん!」
「カネコさんに負けるな!」
彼らの多くは、ハナを応援していた。カネコの鼻持ちならない態度よりも、ハナの泥臭い情熱に惹かれているのだ。
中盤のカーブ。
カネコの車椅子は、搭載された「全自動紅茶サーバー」や「癒やしのマッサージ機能」といった重装備のせいで、遠心力に振られて大回りになる。
「きゃあっ!紅茶がこぼれましたわ!なんてこと!」
「そこだァ! 隙ありッ!」
ハナが吠える。
彼女は体重移動だけで、イン側の車輪を浮かせた。
片輪走行だ!
接地抵抗を極限まで減らし、最短距離のインコースを、壁スレスレで駆け抜ける。
「なっ!?ババア、正気か!?」
「すげぇ!飛んでるみたいじゃないか!」
ハナがカネコに並ぶ。
「見ろ!これが15万クレストの底力だァ!」
デッドヒートが続く。
しかし、終盤の直線。魔導モーターの持久力が、人間の体力を上回った。
ハナの息が上がり、腕の回転が鈍る。
「なっ……!」
カネコが再び突き放す。
「オーッホッホ!残念でしたわね!これが資本の力ですわ!」
結局、カネコが先に屋上のゴールラインを切った。ハナは車輪二つ分、及ばなかった。
「……チッ。負けたか」
ゴール後、ハナは荒い息を吐きながら、悔しそうにハンドルを叩いた。
だが、会場は割れんばかりの拍手と歓声に包まれていた。
「いいレースだったぞ、ハナさん!」
「あんたの走りに痺れたよ!」
「次は勝てるさ!」
勝ったのはカネコだが、観客の心はハナの熱い走りが掴んでいた。
カネコは、勝利したにも関わらず、どこか面白くなさそうな顔で扇子をパタパタとさせていた。
ナラは、汗だくで笑うハナを見て、不覚にも胸が熱くなるのを感じた。
この老婆、タダモノじゃない。
ハナがナラに向き直る。
「へっ、見られちまったなあ、無様なとこを。……だがな、負けねぇ、次はな!……おい探偵。お前、アタシのメカニックをやれ。こいつを、最強のマシンに仕上げるんだよ!」
ナラは、ため息をつきながらも、口元を緩めた。
「……依頼料、高くつくわよ?」




