第2話:主婦たちの戦い(2)
絶望が、エリザの喉元を締め上げていた。
ボブ夫人の手によって、エリザの「不幸な借金妻」というカモフラージュは剥ぎ取られた。
露呈したのは、「最新の流行を追いかけ、レアアイテムを自慢げに隠し持つ、鼻持ちならない見栄っ張り女」という正体。
「あーっはっはっは!!」
ボブ夫人の高笑いが、処刑のファンファーレのように響く。
周囲の女たちの目は、氷点下の軽蔑と、燃えるような嫉妬で濁っている。
投票用紙にペンが走る音が聞こえる。
『エリザ』。その三文字が、私の墓標に刻まれていく。
「ナ、ナラティブさん……!」
エリザは縋るように背後の探偵を見上げた。
だが、ナラは、扇子で口元を隠したまま、不敵な光を瞳に宿していた。
「泣くな、三流。まだ『チップ』は残っているわッ!」
ナラが一歩前に出る。
そのヒールの音が乾いた音を立てて、ボブ夫人の高笑いを遮った。
「……あら? 何かしら、その薄汚い雇われ人は?」
ボブ夫人が不快げに眉をひそめる。
ナラは、エリザの腕にあるブレスレットを乱暴に掴み上げ、高々と掲げた。
「おっしゃる通り。これは本物よ。雑誌に載っている『賢者の石』を使ったレアアイテム。市場価格80万クレスト。エリザは嘘をついた。借金なんてない。事業も失敗していない」
「ナ、ナラティブさん!?」
エリザが悲鳴を上げる。味方であるナラからの攻撃か?
「ほらご覧なさい! 自白しましたわよ!」
ボブ夫人が勝ち誇る。
だが、ナラは冷徹に続けた。
「……でもね、ボブ夫人。アンタ……大事なことを見落としているわ!」
「な、なんですって?」
ナラは、テーブルの上にエリザの財布をひっくり返した。
ジャラジャラと小銭が転がる。
お札は一枚もない。
さらに、カバンの中から数枚の封筒を取り出し、テーブルに叩きつけた。
『電気代・督促状』
『ガス代・最終通告』
『魔法回線・利用停止のお知らせ』
「なにこれぇ……?」
周囲の女たちがざわめく。
ナラは、演劇の舞台に立つ女優のように、悲痛な声で叫んだ。
「そうよ!エリザはこのブレスレットを買った!
……『全財産』をはたいてね!!いや、全財産どころじゃない!生活費、光熱費、娘の給食費、へそくり、老後の貯蓄……何もかも!……何もかもを!……すべてをこの石ころに突っ込んだのよッッッ!」
「は……?」
ナラはエリザの肩を揺さぶる。
「言いなさいエリザ! 今日のランチ代はいくらだった!?」
「えっ……あ、あの……!」
エリザはナラの目配せに気づき、必死にブラフに乗っかる。
「水……です……!公園の水道水で腹を膨らませてきました……!」
静寂。
ナラは扇子をバシッと閉じた。
「これが現実よ!彼女は金持ち?余裕がある? 笑わせないで!彼女はただの『貧乏人』よ!見栄を張るために生活を破綻させ、電気を止められ、それでも流行にしがみつく、救いようのないアホ!
それがッ!…………エリザという女の正体よ!」
エリザは顔を覆って泣き崩れた(ナラから「アホ」と言われたショックが半分)。
ナラは、鋭い視線をボブ夫人、そして周囲の女たちに向けた。
「さぁーて、ここで問題よ。マンションの管理組合の役員は、修繕積立金という『公金』を管理する。時には、急な出費を立て替えることもある。
……この、明日食べるパンにも困っている、金銭感覚の破綻した女に、『金庫の鍵』を預ける勇気がある奴はいる?」
その言葉は、核弾頭となって炸裂した。
女たちの顔色が変わる。
「嫉妬」や「怒り」よりも、もっと現実的な「恐怖」が首をもたげる。
(電気を止められるような女に、会計を任せたら……)
(横領されるわ!)
(積立金を持ち逃げして、新しいバッグを買うに決まってる!)
(危険すぎる……!)
票が、ピタリと止まる。
「こいつに役員をやらせて苦しめてやりたい」という私怨よりも、「自分たちの積立金を守りたい」という自衛本能が勝ったのだ。
エリザは「嫉妬対象」から、「回避対象」へとジョブチェンジした。
ナラの荒療治。
それは、エリザの社会的信用を粉砕することで、物理的な役務から逃れさせるという、肉を切らせて骨を複雑骨折させて手錠をすり抜けて逃げ出すという、狂気の戦術。
「くっ……! まさか、そこまで底辺だとは……ッ!」
ボブ夫人が歯噛みする。
ナラは畳み掛ける。
彼女は、ボブ夫人を指差した。
「役員に必要なのは『信用』と『支払い能力』。
つまり、ここにいる誰よりも資産を持ち、生活が安定し、絶対に横領などしない高潔な人物……。
そう、ボブ夫人!アンタしかいないわ!」
「なっ!?」
「アンタのその『ゴールデン・ドレイク』のバッグ!そして全身に散りばめられた純金!それこそが『信用』の証!アンタなら、万が一積立金が足りなくなっても、ポケットマネーで補填できる余裕がある!ボブ夫人こそ、我らがリーダーに相応しいと思わない!?」
ナラが扇動する。
行き場を失った女たちの視線が、再びボブ夫人に集中する。
戦場の流れが変わる。
エリザに向けられていた票が、ボブ夫人へと雪崩れ込む。
「ちょ、ちょっと待って!あなたたち!待ちなさい!」
ボブ夫人が立ち上がる。額に脂汗が滲む。
「わ、私だって忙しいんですのよ!エステに、オペラに、海外旅行に……!」
「あらぁ?……それはおかしいわね」
ナラが冷たく笑う。
「『忙しい』?本当にお忙しいなら、どうしてこんな平日の昼間から、他人のブレスレットの値段を調べるほど雑誌を読み込んでいるのかしら?暇なんでしょ?暇を持て余した金持ちマダムなんでしょッ……!」
「ぐぬぬ……ッ!!」
論理の包囲網。
金持ちアピールをすれば「役員をやれ」と言われ。
忙しいと言えば「雑誌を読む暇はあるだろ」と刺される。
ボブ夫人は完全に詰んだ。
エリザは、テーブルの下で震える足を抑えながら、勝利の味を噛み締めた。
(勝った……ッ!今度こそ勝った!私は「貧乏」というレッテルを貼られたけれど、役員という拷問からは逃げられる!)
だが。
このマンションには、人の知恵など及ばぬ「魔物」が住んでいることを、彼女たちは忘れていた。
重厚なオーク材の扉が、音もなく開かれた。
風が吹いた。
いや、それは物理的な風ではない。
ラウンジの嫉妬と見下しの雰囲気が一瞬にして消し飛び、絶対的な「格」の差という重力が、空間を歪めたのだ。
現れたのは、このマンションの最上階。
雲の上に住まう、真の支配者。
ミラ・フォン・ルグニカ子爵夫人。
全員が反射的に起立し、直立不動になる。
ボブ夫人でさえ、その傲慢な表情を消し、媚びへつらうような卑屈な笑みを浮かべた。
(来た……!ラスボスよ!)
(彼女の装備は!? 何を持っているの!?)
全員の視線が、ミラ夫人の手元に集中する。
もし彼女が、国宝級のバッグを持っていれば。
あるいは、伝説の宝石を身に着けていれば。
「嫉妬票」は彼女に向かうかもしれない。
エリザとボブ夫人にとって、それは起死回生の希望の光。
しかし!
入室した瞬間、全員の思考回路が焼き切れた。
「……え?」
ミラ夫人が身に纏っていたのは、洗いたての白いコットンシャツと、膝が擦り切れたデニムだった。
化粧気のない顔。無造作に束ねられた髪。
そして、何よりも全員の目を釘付けにしたのは、彼女の手に握られた「それ」だった。
それは、鞄ですらなかった。
下町の市場で、泥付きの根菜を買うときに使われる、薄汚れた麻袋だった。
所々にほつれがあり、中からは長ネギの青い部分が、まるで伝説の聖剣であるかのように顔を覗かせている。
推定価格、300クレスト。
ボブ夫人の黄金の鞄も。
エリザのワイバーン革も。
流行の呪術石ブレスレットも。
その「麻袋」の前では、すべてが色あせたガラクタに見えた。
ナラが、ポツリと呟く。
「安すぎるわ。……化け物ね。『装備品のステータス』で殴り合う次元を超えているわ」
彼女たちは、これまで「何を持つか」で戦ってきた。
高い鞄、レアな宝石、流行のアイテム。
それらの「装備品の攻撃力」で、互いのマウントを取り合ってきた。
だが、この真の支配者は、そのルールそのものを粉砕した。
彼女は、麻袋を持っていた。
だが、誰一人として、彼女を「貧しい」とは思わなかった。
むしろ、その麻袋が、パリコレのランウェイを飾る最新のモードに見えた。
「本物の高貴さ」を持つ者は、何を持とうとも高貴である。
ファッションとは、引き算であるが故に、足し算でもある。
つまり。
「高い」物を持たなければ高貴に見えない自分たちは、すべて「安い」のである。
ミラ夫人の存在そのものが、巨大な断罪の鏡となって、その場にいる全員の姿を映し出した。
必死にブランド品で武装し、策略を巡らせ、嘘をつき、互いを蹴落とそうとしていた自分たちが、いかに滑稽で、浅ましく、中身のないピエロであるか。
ボブ夫人は、膝から崩れ落ちた。
彼女の誇っていた「黄金の要塞」は、今や「自信の無さを隠すための厚化粧」にしか見えなかった。
彼女は勝者から一転、最も恥ずかしい道化へと転落したのだ。
「あ、あぁ……」
エリザもまた、自分の鞄を隠すように抱きしめた。
恥ずかしい。
自分を着飾るためではなく、他人のためにわざわざ全身を『着飾ってあげている』なんて。
これでは、自分は、他人の奴隷ではないか。
……今すぐ窓から飛び降りてしまいたい。
ミラ夫人は、ふんわりと微笑んだ。
それは、地獄に垂らされた蜘蛛の糸か、それとも死刑執行人の慈悲か。
彼女は麻袋の中から、無造作にクッキーを取り出した。
ラップに包まれただけの、手作りクッキー。
「あ、あの……皆さんでどうぞ。焼きすぎちゃって、少し焦げてるんですけど……」
そのクッキーは、形はいびつで、黒ずんでいた。
だが、それはどんな高級菓子よりも、尊く、煌めいて見えた。
「余裕」とは、こういうことなのだ。
勝負は、終わった。
エリザも、ボブ夫人も、ナラも。
全員が、戦う前から負けていたのだ。
このテーブルに着いた時点で、彼女たちは「持たざる者」であり、真の強者は、最初から「デス・ゲーム」になど、参加していなかったのである。
ラウンジに、完全なる静寂が満ちた。
誰も言葉を発せない。
ただ、ミラ夫人の咀嚼音だけが、小鳥のさえずりのように響く。
「んっ、おいしい。……あ、そうそう。今日は役員決めでしたわよね?」
ミラ夫人の言葉に、全員がビクリと肩を震わせた。
神の裁きが下る。
エリザは祈った。
(ボブ夫人に!成金ババアに天罰を!)
ボブ夫人は祈った。
(エリザに!嘘つき女に災いを!)
ミラ夫人は、きょとんとした顔で、二人を見比べた。
そして、無邪気な、あまりにも無邪気な声で言った。
「私、ずっと見てましたの。エリザさんと、ボブ夫人。お二人は、なんだか、とっても熱心にお話しされてましたわよね?」
ミラ夫人は、ニコニコと続ける。
「お二人とも……とってもエネルギッシュで、このマンションのことを真剣に考えてらっしゃるのかなって、伝わってきましたわ!」
神の視点。
彼女の目には、醜いマウント合戦が、「情熱的な議論」に見えていたのだ。
ミラ夫人は、麻袋からペンを取り出し、投票用紙にサラサラと書き込んだ。
「私、感動しましたの。エリザさんのような『行動力』と、ボブ夫人のような『知識』。この二つが合わされば、最強の役員チームが生まれると思いますわ!……ね? 皆さんもそう思いますでしょう?」
ミラ夫人が、小首をかしげて全員を見渡す。
その瞳は、純粋すぎて、もはや狂気すら感じるほどの輝きを放っていた。
「は、はいっ!」
「仰る通りですわ!」
「異議なし! 異議なしです!」
有象無象の女たちが、雪崩を打って賛同する。
神の言葉は絶対だ。
それに、自分たちが役員にならなくて済むなら、どんな理屈でもいい。
「ミラ夫人が推薦した」という大義名分を得た彼女たちは、一斉に投票用紙に『エリザ』と『ボブ』の名前を書き殴った。
「えっ……ちょ、ちょっと待って……」
エリザが手を伸ばす。
「いやぁぁぁッ! 私は忙しいのよぉぉッ!」
ボブ夫人が絶叫する。
だが、票の奔流は止まらない。
開票結果。
1位:エリザ(11票)
2位:ボブ夫人(10票)
3位:ナラティブ(4票/無効票)
決定。
夕日が、ラウンジを赤く染めていた。
戦いは終わった。
死屍累々の戦場に、二人の敗残兵が残されていた。
エリザは、真っ白に燃え尽きていた。
「……終わった。役員……しかも、ボブ夫人とペア……。これから1年間、あの女と顔を合わせなきゃいけないなんて……」
ボブ夫人もまた、魂が抜けたように天井を見上げている。
「私の……私のオペラ鑑賞の時間が……」
ナラは、冷めた紅茶を一気に飲み干すと、深く溜息をついた。
「……完敗ね。これがあたしの嫌いな『天然』ってやつよ。策も、嘘も、演技も、すべてを無効化する純粋な暴力。アンタの『鞄』も、ボブ夫人の『鞄』も、あの『天然』の前では等しくゴミだったってわけ」
ナラは立ち上がり、エリザの肩を叩いた。
「ま……諦めて働きなさい。アンタのその見栄で膨らんだ鞄には、役員の分厚い資料がお似合いよ。少しは中身が詰まって、重みが出るんじゃない?」
「うっ……うぅ……鬼ぃ……!」
エリザは泣いた。
窓の外。
ミラ夫人が、長ネギの飛び出した麻袋を嬉しそうに揺らしながら、迎えに来た高級魔導車に乗り込んでいくのが見える。
運転手が深々と頭を下げ、ドアを開ける。
その姿は、どんな王族よりも気高く、そして自由だった。
エリザは自分の高級バッグを抱きしめる。
かつては自分を守る「最強の盾」に見えたワイバーンの革が、今はひどく安っぽく、そして惨めなほど重く感じられた。
「……来月の役員会、一体どんな顔で行けばいいのよ……」
彼女の嘆きは、王都の喧騒にかき消されていった。
ただ、夕日に照らされたブランドロゴだけが、虚しく、そして皮肉に輝いていた。




