第8話 最後の試練と究極のケーキ
深夜の厨房。
外は深い闇に包まれ、静寂が支配している。
聞こえるのは、泡立て器がボウルに当たる規則的な音と、魔道オーブンが唸る低い音だけ。
私は今、パティシエ人生で最も集中していた。
「……負けないで、ルーカス様」
祈りを込めるように呟きながら、私は作業の手を止めない。
作るお菓子は決まっている。
フランス発祥の伝統菓子にして、最も手間がかかり、最も洗練されたケーキの王様。
――『オペラ』だ。
コーヒー風味のバタークリームと、濃厚なガナッシュ(チョコレートクリーム)、そしてアーモンドをたっぷり使ったスポンジ生地を何層にも重ねた、重厚なケーキ。
その断面は地層のように美しく、一口食べればビターな苦味と甘味が交響曲を奏でる。
今のルーカス様に必要なのは、ただ甘いだけの砂糖菓子ではない。
苦難(苦味)を乗り越え、その先にある深い愛(甘味)を感じられる、力強い味だ。
私は材料を並べた。
まずはチョコレート。
魔界の深淵に近い場所で採取されるという『アビス・カカオ』。
漆黒の塊を刻み、湯煎にかける。
湯気と共に立ち上るのは、鼻腔をくすぐる酸味と、どこまでも深い大人の香り。
このカカオは魔力伝導率が高く、食べる者の精神を安定させる効果があるという。
次に、コーヒー。
夜にしか花を咲かせない『月下美人のコーヒー豆』を、濃く抽出する。
部屋中に、目が覚めるような芳ばしい香りが充満する。
この漆黒のエキスを、たっぷりとシロップに混ぜ込む。
「生地は……焼き上がったわね」
オーブンから天板を取り出す。
『ドワーフ・アーモンド』を贅沢に使った薄いスポンジ生地は、香ばしいキツネ色に焼き上がっていた。
熱々のうちに、コーヒーシロップをアンビベ(染み込ませる)する。
ジュワッ……。
スポンジが黒い滴を吸い込み、しっとりと重くなる。
これが、ケーキの土台となる。
「ここからが本番よ」
私は深呼吸をして、組み立て(モンタージュ)に入った。
一層目、シロップを打ったスポンジ。
二層目、アビス・カカオのガナッシュ。
三層目、再びスポンジ。
四層目、月下美人のコーヒーバタークリーム。
ヘラを使って、ミリ単位の精度で平らに伸ばしていく。
厚すぎてもいけない、薄すぎてもいけない。
全ての層が一体となった時、初めて『オペラ』は完成する。
作業をしている間、私の胸はずっとざわついていた。
心臓が締め付けられるような、嫌な予感。
(ルーカス様、今、苦しんでいる……?)
見えなくてもわかる。
彼と私は、私が作ったお菓子を通じて「魔力のパス」のようなもので繋がっている気がした。
遠くの闇の中で、彼がたった一人、巨大な黒い影と剣を交えている光景が脳裏をよぎる。
『諦めろ……お前は呪われた王子だ……』
『誰も愛さない、誰からも愛されない……』
そんな呪いの声が、私の耳にまで聞こえた気がした。
「ふざけないで!」
私は叫び、ボウルに残ったクリームを力強く混ぜた。
「彼は愛されているわ! 私が……私がこんなに大好きなんだから!」
自分の言葉にハッとする。
けれど、もう誤魔化さない。
私は、あの不器用で優しい王子様が好きなのだ。
彼の孤独を埋めたい。
彼の冷え切った体を温めたい。
彼の隣で、ずっとお菓子を焼いていたい。
「届け……私の想い!」
私は感情のすべてを魔力に変え、指先に集中させた。
無自覚だった『聖女の力』を、今は意識的に引き出す。
カッ!
厨房が、眩い黄金の光に包まれた。
私の手から溢れ出した光の粒子が、ケーキへと吸い込まれていく。
ビターなチョコレートが、黄金色の輝きを帯びる。
コーヒーの香りが、邪気を払う聖なる香油のように変化する。
「最後の仕上げ(グラサージュ)……!」
私はとろりと溶かしたチョコレートを、ケーキの表面に一気に流しかけた。
ヘラで素早く、一筆書きのように表面を均す。
一瞬の迷いも許されない。
鏡のように艶やかな漆黒の表面が出来上がる。
そこに、私の顔が映り込んだ。
泣きそうな、でも決意に満ちた顔だ。
最後に、金箔ではなく、食用花である『光の結晶花』の花弁を一枚、そっと飾る。
「完成……『奇跡のオペラ』」
出来上がったケーキは、もはやただの食べ物ではなかった。
漆黒の中に、オーロラのような七色の光が揺らめいている。
濃厚なカカオの香りは、嗅ぐだけで勇気が湧いてくるようだ。
その時。
ドォォォォォン……!
地響きのような音が、王都の中心――王宮の方角から響いてきた。
窓ガラスがビリビリと震える。
窓の外を見ると、王宮の上空に巨大な黒い雲が渦巻き、稲妻が走っているのが見えた。
あれが、ルーカス様の戦っている場所。
呪いが暴走し、彼を飲み込もうとしているのだ。
「急がなきゃ!」
私はケーキを専用の箱に押し込むと、エプロンをつけたまま店を飛び出した。
通りは騒然としていた。
「なんだあの黒い雲は!?」
「魔物の襲撃か!?」
人々がパニックになり、逃げ惑っている。
私は逆流するように、王宮へ向かって走った。
息が切れる。
足がもつれる。
それでも、箱だけは絶対に揺らさないように抱きしめる。
(待ってて、ルーカス様。今、最高の回復薬を持っていくから!)
「止まれ! ここから先は危険だ!」
王宮へ続く大通りの入り口で、警備の兵士に槍で制止された。
「通してください! 私、ルーカス様に届け物を……!」
「第二王子殿下に? 馬鹿を言うな! 今、殿下の住む離宮を中心に原因不明の魔力暴走が起きているんだ。近づけば命はないぞ!」
「それでも行くんです! これがないと、あの方は死んでしまう!」
「ならん! 下がれ!」
兵士が私を突き飛ばそうと手を伸ばした、その時だ。
ヒヒィィィン!
いななきと共に、一頭の白馬が兵士と私の間に割って入った。
鞍上にいたのは、煌びやかな鎧を纏った騎士。
見覚えがある。
先日、王宮からの招待状を持ってきた、あの近衛騎士だ。
「……アメリ・ベルウィック嬢か?」
「貴方は……!」
騎士は兜のバイザーを上げ、切迫した表情で私を見た。
「殿下が……結界の中で、貴女の名を呼んでいる」
「えっ」
「意識が混濁する中、『アメリ』と、うわ言のように。……陛下が、貴女を連れてこいと仰せだ」
騎士は私に手を差し伸べた。
「乗れ! 我々が護衛する。その箱の中身が、殿下を救う鍵なのだろう?」
「はい!」
私は迷わず騎士の手を取り、馬上の人となった。
「全速力で行くぞ! 振り落とされるなよ!」
白馬が石畳を蹴り、矢のように走り出す。
風が頬を切り裂く。
近づくにつれ、王宮を覆う黒い雲の圧力が増していく。
肌がピリピリと痛い。
これが『死の呪い』の瘴気。
普通の人間なら、近づくだけで気を失うレベルだ。
けれど、私には平気だった。
膝の上に抱えたケーキの箱が、温かい熱を放ち、私を繭のように守ってくれているからだ。
(私の作ったお菓子が、私を守ってくれている……)
「着いたぞ! あれが離宮だ!」
騎士が指差した先。
美しい庭園の中に建つ離宮は、真っ黒な闇のドームに覆われていた。
中からは、獣の咆哮のような苦悶の声が聞こえる。
ルーカス様の声だ。
「ルーカス様!」
私は馬から飛び降りた。
結界のような闇の壁が、行く手を阻む。
騎士たちが剣で切りつけても、弾き返されるだけだ。
「くそっ、入れない! これほど強力な結界とは……!」
騎士団長らしき人が悔しげに叫ぶ。
国王陛下と思われる姿も遠くに見えるが、誰も手出しができない状態だ。
私は闇の壁の前に立った。
怖い。
足がすくむ。
飲み込まれたら、二度と戻れないかもしれない。
でも。
「お腹、空いてますよね?」
私は震える手で、ケーキの箱を開けた。
パカッ。
瞬間、周囲の闇が「ジュッ」と音を立てて退いた。
箱の中から溢れ出したのは、神々しいまでの黄金の光。
そして、濃厚で甘美な、チョコレートとコーヒーの香り。
その匂いは、暴力的なまでに魅惑的で、生きる喜びそのものだった。
『ギャアアアア……』
闇が嫌がるように悲鳴を上げる。
私は一歩踏み出した。
「お夜食をお持ちしました、ルーカス様! ……特製の『オペラ』ですよ!」
私は光り輝くケーキを掲げ、闇の壁へと突っ込んでいった。
壁は私を拒絶しようとしたが、ケーキの光に触れた瞬間、溶けるように道を開けた。
「行け! アメリ嬢!」
騎士たちの声援を背に、私は闇の中心へと走った。
待っていて。
今、貴方を「美味しい」で救い出してあげるから!




