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呪われた王子様、私のお菓子で餌付け完了です。  作者: 月雅


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8/10

第8話 最後の試練と究極のケーキ

深夜の厨房。

外は深い闇に包まれ、静寂が支配している。

聞こえるのは、泡立て器がボウルに当たる規則的な音と、魔道オーブンが唸る低い音だけ。


私は今、パティシエ人生で最も集中していた。


「……負けないで、ルーカス様」


祈りを込めるように呟きながら、私は作業の手を止めない。

作るお菓子は決まっている。

フランス発祥の伝統菓子にして、最も手間がかかり、最も洗練されたケーキの王様。

――『オペラ』だ。


コーヒー風味のバタークリームと、濃厚なガナッシュ(チョコレートクリーム)、そしてアーモンドをたっぷり使ったスポンジ生地ジョコンドを何層にも重ねた、重厚なケーキ。

その断面は地層のように美しく、一口食べればビターな苦味と甘味が交響曲シンフォニーを奏でる。


今のルーカス様に必要なのは、ただ甘いだけの砂糖菓子ではない。

苦難(苦味)を乗り越え、その先にある深い愛(甘味)を感じられる、力強い味だ。


私は材料を並べた。


まずはチョコレート。

魔界の深淵に近い場所で採取されるという『アビス・カカオ』。

漆黒の塊を刻み、湯煎にかける。

湯気と共に立ち上るのは、鼻腔をくすぐる酸味と、どこまでも深い大人の香り。

このカカオは魔力伝導率が高く、食べる者の精神を安定させる効果があるという。


次に、コーヒー。

夜にしか花を咲かせない『月下美人のコーヒー豆』を、濃く抽出する。

部屋中に、目が覚めるような芳ばしい香りが充満する。

この漆黒のエキスを、たっぷりとシロップに混ぜ込む。


生地ビスキュイ・ジョコンドは……焼き上がったわね」


オーブンから天板を取り出す。

『ドワーフ・アーモンド』を贅沢に使った薄いスポンジ生地は、香ばしいキツネ色に焼き上がっていた。

熱々のうちに、コーヒーシロップをアンビベ(染み込ませる)する。


ジュワッ……。


スポンジが黒い滴を吸い込み、しっとりと重くなる。

これが、ケーキの土台となる。


「ここからが本番よ」


私は深呼吸をして、組み立て(モンタージュ)に入った。


一層目、シロップを打ったスポンジ。

二層目、アビス・カカオのガナッシュ。

三層目、再びスポンジ。

四層目、月下美人のコーヒーバタークリーム。


ヘラを使って、ミリ単位の精度で平らに伸ばしていく。

厚すぎてもいけない、薄すぎてもいけない。

全ての層が一体となった時、初めて『オペラ』は完成する。


作業をしている間、私の胸はずっとざわついていた。

心臓が締め付けられるような、嫌な予感。


(ルーカス様、今、苦しんでいる……?)


見えなくてもわかる。

彼と私は、私が作ったお菓子を通じて「魔力のパス」のようなもので繋がっている気がした。

遠くの闇の中で、彼がたった一人、巨大な黒い影と剣を交えている光景が脳裏をよぎる。


『諦めろ……お前は呪われた王子だ……』

『誰も愛さない、誰からも愛されない……』


そんな呪いの声が、私の耳にまで聞こえた気がした。


「ふざけないで!」


私は叫び、ボウルに残ったクリームを力強く混ぜた。


「彼は愛されているわ! 私が……私がこんなに大好きなんだから!」


自分の言葉にハッとする。

けれど、もう誤魔化さない。

私は、あの不器用で優しい王子様が好きなのだ。

彼の孤独を埋めたい。

彼の冷え切った体を温めたい。

彼の隣で、ずっとお菓子を焼いていたい。


「届け……私の想い!」


私は感情のすべてを魔力に変え、指先に集中させた。

無自覚だった『聖女の力』を、今は意識的に引き出す。


カッ!


厨房が、眩い黄金の光に包まれた。

私の手から溢れ出した光の粒子が、ケーキへと吸い込まれていく。


ビターなチョコレートが、黄金色の輝きを帯びる。

コーヒーの香りが、邪気を払う聖なる香油のように変化する。


「最後の仕上げ(グラサージュ)……!」


私はとろりと溶かしたチョコレートを、ケーキの表面に一気に流しかけた。

ヘラで素早く、一筆書きのように表面を均す。

一瞬の迷いも許されない。


鏡のように艶やかな漆黒の表面が出来上がる。

そこに、私の顔が映り込んだ。

泣きそうな、でも決意に満ちた顔だ。


最後に、金箔ではなく、食用花である『光の結晶花』の花弁を一枚、そっと飾る。


「完成……『奇跡のオペラ』」


出来上がったケーキは、もはやただの食べ物ではなかった。

漆黒の中に、オーロラのような七色の光が揺らめいている。

濃厚なカカオの香りは、嗅ぐだけで勇気が湧いてくるようだ。


その時。


ドォォォォォン……!


地響きのような音が、王都の中心――王宮の方角から響いてきた。

窓ガラスがビリビリと震える。


窓の外を見ると、王宮の上空に巨大な黒い雲が渦巻き、稲妻が走っているのが見えた。

あれが、ルーカス様の戦っている場所。

呪いが暴走し、彼を飲み込もうとしているのだ。


「急がなきゃ!」


私はケーキを専用の箱に押し込むと、エプロンをつけたまま店を飛び出した。


通りは騒然としていた。

「なんだあの黒い雲は!?」

「魔物の襲撃か!?」

人々がパニックになり、逃げ惑っている。


私は逆流するように、王宮へ向かって走った。

息が切れる。

足がもつれる。

それでも、箱だけは絶対に揺らさないように抱きしめる。


(待ってて、ルーカス様。今、最高の回復薬ケーキを持っていくから!)


「止まれ! ここから先は危険だ!」


王宮へ続く大通りの入り口で、警備の兵士に槍で制止された。


「通してください! 私、ルーカス様に届け物を……!」


「第二王子殿下に? 馬鹿を言うな! 今、殿下の住む離宮を中心に原因不明の魔力暴走が起きているんだ。近づけば命はないぞ!」


「それでも行くんです! これがないと、あの方は死んでしまう!」


「ならん! 下がれ!」


兵士が私を突き飛ばそうと手を伸ばした、その時だ。


ヒヒィィィン!


いななきと共に、一頭の白馬が兵士と私の間に割って入った。

鞍上にいたのは、煌びやかな鎧を纏った騎士。

見覚えがある。

先日、王宮からの招待状を持ってきた、あの近衛騎士だ。


「……アメリ・ベルウィック嬢か?」


「貴方は……!」


騎士は兜のバイザーを上げ、切迫した表情で私を見た。


「殿下が……結界の中で、貴女の名を呼んでいる」


「えっ」


「意識が混濁する中、『アメリ』と、うわ言のように。……陛下が、貴女を連れてこいと仰せだ」


騎士は私に手を差し伸べた。


「乗れ! 我々が護衛する。その箱の中身が、殿下を救う鍵なのだろう?」


「はい!」


私は迷わず騎士の手を取り、馬上の人となった。


「全速力で行くぞ! 振り落とされるなよ!」


白馬が石畳を蹴り、矢のように走り出す。

風が頬を切り裂く。

近づくにつれ、王宮を覆う黒い雲の圧力が増していく。

肌がピリピリと痛い。

これが『死の呪い』の瘴気。

普通の人間なら、近づくだけで気を失うレベルだ。


けれど、私には平気だった。

膝の上に抱えたケーキの箱が、温かい熱を放ち、私を繭のように守ってくれているからだ。


(私の作ったお菓子が、私を守ってくれている……)


「着いたぞ! あれが離宮だ!」


騎士が指差した先。

美しい庭園の中に建つ離宮は、真っ黒な闇のドームに覆われていた。

中からは、獣の咆哮のような苦悶の声が聞こえる。


ルーカス様の声だ。


「ルーカス様!」


私は馬から飛び降りた。

結界のような闇の壁が、行く手を阻む。

騎士たちが剣で切りつけても、弾き返されるだけだ。


「くそっ、入れない! これほど強力な結界とは……!」


騎士団長らしき人が悔しげに叫ぶ。

国王陛下と思われる姿も遠くに見えるが、誰も手出しができない状態だ。


私は闇の壁の前に立った。

怖い。

足がすくむ。

飲み込まれたら、二度と戻れないかもしれない。


でも。


「お腹、空いてますよね?」


私は震える手で、ケーキの箱を開けた。


パカッ。


瞬間、周囲の闇が「ジュッ」と音を立てて退いた。

箱の中から溢れ出したのは、神々しいまでの黄金の光。

そして、濃厚で甘美な、チョコレートとコーヒーの香り。


その匂いは、暴力的なまでに魅惑的で、生きる喜びそのものだった。


『ギャアアアア……』


闇が嫌がるように悲鳴を上げる。

私は一歩踏み出した。


「お夜食をお持ちしました、ルーカス様! ……特製の『オペラ』ですよ!」


私は光り輝くケーキを掲げ、闇の壁へと突っ込んでいった。

壁は私を拒絶しようとしたが、ケーキの光に触れた瞬間、溶けるように道を開けた。


「行け! アメリ嬢!」


騎士たちの声援を背に、私は闇の中心へと走った。


待っていて。

今、貴方を「美味しい」で救い出してあげるから!


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