第4話 常連客は呪われた王子様
「パティスリー・アメリ」が開店してから、一週間が経った。
私の予想を遥かに超えて、お店は連日大繁盛だった。
路地裏の廃屋だった場所は、今や近所の奥様方や子供たち、仕事帰りの冒険者たちで賑わう「知る人ぞ知る癒やしスポット」になりつつある。
「アメリちゃん、今日も『フィナンシェ』はあるかい?」
「ごめんなさい、フィナンシェはもう売り切れちゃったんです。でも、『木苺のブッセ』ならまだありますよ!」
「おっと、そいつは美味そうだ。三つもらえるか?」
日が落ちて、最後のお客さんを見送る頃には、私の足は棒のようになっていた。
けれど、心地よい疲れだ。
ショーケースの中は、今日もほぼ空っぽ。
売上も順調で、これなら仕入れのグレードを少し上げてもいいかもしれない。
私はエプロンで手を拭きながら、壁の時計を見上げた。
時刻は、陽が完全に落ちた黄昏時。
そろそろ、「あのお客様」がいらっしゃる時間だ。
カラン、コロン。
私の思考を読んだかのように、ドアベルが控えめに鳴った。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、やはり彼だった。
初日に「ここにある菓子を全部くれ」と言い放った、あの謎のフードの男性だ。
あれから毎日、彼は決まってこの時間にやってくる。
他のお客さんがいなくなるのを見計らったように現れ、カウンターの端に座り、無言で新作を待つのだ。
「……今日は、何がある?」
深く被ったフードの下から、低い声が響く。
最初の頃のような、刺すような殺気はもうない。
むしろ、お腹を空かせた大型犬が、餌を待って大人しく座っているような雰囲気さえ感じる。
私はクスリと笑って、今日のために取っておいた特別な一皿を差し出した。
「今日は『月光レモン』のマドレーヌです。酸味が効いているので、お疲れの時にぴったりですよ」
貝殻の形をした、コロンと可愛らしい焼き菓子。
その表面には、薄く砂糖の衣がかかっており、店内のランプの光を受けてキラキラと輝いている。
『月光レモン』は、月の光を浴びて育つ珍しい果実だ。
普通のレモンよりも酸味が柔らかく、何より香りが芳醇で、皮をすりおろすとフローラルな香りが広がる。
彼はそのマドレーヌを、まるで壊れ物を扱うような手つきで手に取った。
大きな手に対して、お菓子が余計に小さく見える。
「……月光レモンか。王宮の夜会でも滅多に出ない高級品だが」
「市場で傷モノがお安く手に入ったんです。味は一級品ですよ」
彼は頷き、ゆっくりとそれを口に運んだ。
シャリッ。
静かな店内に、砂糖の衣が崩れる繊細な音が響いた。
その瞬間、フードの奥で見えなかった彼の口元が、あからさまに緩んだのが見えた。
「――っ」
彼は言葉を失っているようだった。
表面のシャリシャリとした甘い食感のあと、ふわりとした生地の中から、月光レモンの爽やかな香りが爆発するように広がる。
バターの重厚なコクを、レモンの酸味が軽やかに中和し、いくらでも食べられそうな後味を残して消えていく。
「……すごいな」
ぽつりと、彼が漏らした。
「口に入れた瞬間、頭の中の霧が晴れていくようだ。……全身を駆け巡っていた鋭い痛みが、君の菓子が通った場所から溶けていく」
まただ。
彼はいつも、こんなふうに詩的な表現で感想をくれる。
きっと、どこかの劇作家か詩人なのかもしれない。
「気に入っていただけて嬉しいです」
「気に入った、なんて言葉では足りない」
彼は二口でマドレーヌを平らげると、切実な声で続けた。
「アメリ。君は私の……俺の、光だ」
「えっ」
私は思わず作業していた手を止めた。
光? 私が?
「暗闇の中で、ずっと出口を探していた。だが、君の菓子に出会って、ようやく息ができるようになったんだ。……もう、君なしでは生きられないかもしれない」
真剣そのものの声色に、私の心臓がドキンと跳ねた。
な、なんて情熱的な口説き文句だろう。
免疫のない私は、顔がカァッと熱くなるのを感じた。
でも、すぐに冷静になる。
待って、勘違いしてはいけない。
彼は「君の菓子」と言った。
つまり、「アメリ(が作るお菓子)なしでは生きられない(くらい美味しい)」という意味だ。
主語はお菓子。私は付属品。
危ない危ない、自意識過剰になるところだった。
「ふふ、そんなに褒めても、おまけしか出ませんよ?」
「お世辞ではない。事実だ」
彼は少し拗ねたように言って、二つ目のマドレーヌに手を伸ばした。
その時だった。
マドレーヌを取ろうとした彼の袖が何かに引っかかり、深く被っていたフードがバサリと背後に落ちた。
「あ……」
露わになったその素顔を見て、私は息を呑んだ。
美しい、という言葉すら陳腐に感じるほどの美貌だった。
夜空を切り取ったような漆黒の髪は艶やかで、少し長めの前髪が額にかかっている。
瞳は切れ長で、吸い込まれそうなほど深い紫水晶の色をしていた。
通った鼻筋、薄いが形の良い唇。
陶器のように白い肌は、病的なほど青白かったはずだが、今はほんのりと赤みが差して健康的になりつつある。
街ですれ違えば、誰もが振り返るような貴公子だ。
けれど、その右頬から首筋にかけて、蔦のような黒い痣が薄っすらと浮かんでいた。
「……見てしまったか」
彼はハッとして、慌ててフードを被り直そうとした。
その表情には、明らかな怯えがあった。
自分の顔を、醜いと思っているのだろうか。
私はとっさに首を横に振った。
「綺麗な瞳ですね」
「……は?」
彼は動きを止めた。
「紫水晶のような、透き通った瞳です。吸い込まれそうで、とても素敵です」
お世辞ではなかった。
彼の纏う黒い痣のようなもの――おそらく古傷か何かだろう――が気にならないくらい、彼の瞳は魅力的だったのだ。
彼は呆気にとられたように私を見つめ、それから信じられないものを見るように瞬きをした。
「……この痣を、気味悪いと思わないのか? 『呪われた印』だと、誰もが私を避けるのに」
「呪い? ああ、その模様のことですか?」
私は小首を傾げた。
確かに少し変わった模様だが、ファンタジーな異世界なのだから、タトゥーか魔術の反動みたいなものだと思っていた。
「うちのお店に来る子供たちなんて、泥だらけで傷だらけですよ。それに比べたら、そんなの怪我のうちに入りません。……それに」
私はカウンター越しに身を乗り出し、彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「そんなことで、私の作ったマドレーヌの味が変わるわけではありませんから」
彼がどんな顔をしていようと、呪われていようと、私のお菓子を「美味しい」と言って食べてくれるなら、それは大切なお客様だ。
私の信念は、そんなことでは揺らがない。
彼はしばらく呆然としていたが、やがてふっと力を抜いた。
張り詰めていた糸が切れたような、安堵の表情。
その顔があまりにも幼く見えて、胸がキュンとする。
「……君は、強いな」
「ただの食いしん坊ですよ」
「いや、強い。そして……優しい」
彼はフードを被り直すのをやめた。
露わになった美しい顔で、彼は今日一番の、とろけるような笑顔を見せた。
「ありがとう、アメリ。……このマドレーヌ、今まで食べたどんな食事よりも美味い」
その笑顔の破壊力たるや。
私は直視できずに、慌てて紅茶を淹れるふりをして背を向けた。
心臓がうるさい。
あんな美形に微笑まれたら、心臓に悪い。
(な、なによ今の笑顔! 反則じゃない!?)
ガチャガチャとカップを鳴らしながら動揺を隠す私を、彼は愛おしそうに見つめていた――ことになんて、背中の私は気づかない。
彼が帰った後も、店の中には甘いマドレーヌの香りと、不思議な温かさが残っていた。
私は知らなかった。
彼、ルーカス様の体に巣食っていた『死の呪い』が、今のマドレーヌによって劇的に浄化され、その力が戻りつつあることに。
そして、私の何気ない「綺麗な瞳」という一言が、孤独だった彼の心を完全に鷲掴みにしてしまったことに。
「……明日も、必ず来る」
去り際に彼が残した言葉は、もはや「お菓子を食べに来る」という意味だけではなかったのだ。
そんな平和な夜が過ぎ、翌日。
お店の前に、招かれざる客が姿を現したことで、私の平穏なパティシエライフは一変することになる。
「ここね? お姉様が隠れてコソコソやっている貧乏臭いお店というのは」
聞き覚えのある、甲高い声。
そして、見覚えのある派手な馬車。
私の元婚約者レイモンドと、妹のリリーが、ついにこの場所を嗅ぎつけてしまったのだ。




