第3話 謎のフード男と運命の出会い
「いらっしゃいませ! 焼きたてのフィナンシェはいかがですか!」
王都の三番街。
人通りもまばらな路地裏に、私の元気な声が響いた。
ついに迎えた「パティスリー・アメリ」の開店日。
看板は私がペンキで書き直した手作りだし、ショーケースは古道具屋で買ってきた中古品だ。
けれど、そこに並んでいるお菓子たちは、どれも宝石のように輝いている。
メイン商品はもちろん、看板メニューの「フィナンシェ」。
その他にも、『月光レモン』の皮をすりおろして混ぜ込んだ爽やかな「マドレーヌ」や、ザクザク食感が楽しい「ガレット・ブルトンヌ」も用意した。
正直、こんな寂れた場所にお客さんが来てくれるか不安だった。
だが、その心配は杞憂に終わったようだ。
「お姉ちゃん! 約束通り来たよ!」
一番乗りで店に飛び込んできたのは、昨日試食をしてくれた近所の子供たちだった。
しかも、それぞれのお母さんたちの手を引いている。
「もう、こんな所にお菓子屋さんなんて……あら?」
最初は疑わしそうな顔をしていたお母さんたちだが、店に入った瞬間に表情が変わった。
「なんていい香りなの……!」
そうでしょう、そうでしょう。
今日の私は、朝から『風の魔石』を使った送風機を全開にして、あえて通りの方へ甘い香りを流していたのだ。
焦がしバターとバニラの香りに抗える人間なんて、そうそういない。
「ひとつ50オル(銅貨5枚)です」
「あら、意外と安いのね。じゃあ、3ついただくわ」
「うちは5つちょうだい!」
王都の中心街にある高級店なら、この倍の値段はするだろう。
けれど、私は多くの人に食べてほしいから、ギリギリの価格設定にした。
原価計算は……まあ、私の食費を削ればなんとかなる。
「はい、どうぞ! 焼きたてですよ」
紙袋に入れて渡すと、お母さんたちは待ちきれない様子でその場で一口かじった。
「まあっ! なにこれ、美味しい!」
「表面はカリッとしているのに、中はしっとり……バターの風味がすごいですわ」
「なんだか、食べただけで肩こりが治った気がするわねえ」
店内はあっという間に賑やかな声で満たされた。
私の作ったお菓子で、誰かが笑顔になる。
前世で何度も夢見た光景が、今ここにある。
(幸せ……これが、私の生きたかった人生よ!)
レジ打ちをしながら、私は目頭が熱くなるのをこらえていた。
婚約破棄されたことなんて、もうどうでもいい。
私はこの小さな店で、お菓子と共に生きていくんだ。
◇
飛ぶように売れた午前中が過ぎ、夕暮れ時になると客足は少し落ち着いた。
空は茜色に染まり、路地裏に長い影が落ちる。
「ふう、残りはあと少しか」
ショーケースには、フィナンシェが残り五つと、マドレーヌが三つだけ。
完売も見えてきたその時だった。
チリン、チリン。
ドアベルが重々しく鳴った。
入ってきた人物を見て、店内に残っていた数人のお客さんが、ヒッと小さな悲鳴を上げて後ずさる。
その客は、異様な雰囲気を纏っていた。
身長は高く、180センチは優に超えているだろう。
けれど、頭から深い漆黒のフードを目深に被っており、顔は全く見えない。
纏っているマントもボロボロで、まるで戦場から抜け出してきた亡霊のようだ。
なにより恐ろしいのは、彼の周りに漂う空気だ。
立っているだけで、店内の気温が一度下がったかのような寒気を感じる。
ゆらゆらと黒い陽炎のようなものが、彼の背後に見えた気さえした。
(うわ、すごい威圧感……強盗かしら?)
普通なら身構えるところだ。
けれど、カウンター越しの私には見えてしまった。
フードの下から覗く口元が、小刻みに震えているのを。
そして、その手が痛みに耐えるように、胸元を強く握りしめているのを。
この人は、怖い人じゃない。
苦しんでいるんだ。
他のお客さんたちが逃げるように店を出て行き、店内には私と彼だけが残された。
男は重い足取りでカウンターに近づくと、掠れた、しかし耳に残る低音で呟いた。
「……匂いに、釣られた」
「はい?」
「甘い、匂いがしたんだ。……死ぬ前に、一度くらい……」
言葉は途切れ途切れで、今にも倒れそうだ。
私は直感した。
この人は、極度の空腹か、あるいは何か病気を抱えている。
医者を呼ぶべきか?
いや、今の彼の目は、ショーケースの中のフィナンシェに釘付けだ。
まるで、砂漠でオアシスを見つけた旅人のように。
パティシエールの本能が告げていた。
この人は今、カロリーと糖分、そして心の救済を求めている。
「お客様」
私は努めて明るい声を出した。
「一番人気のフィナンシェ、ちょうど焼きたてが残っていますよ。おひとついかがですか?」
男がゆっくりと顔を上げる。
フードの奥で、鋭い光が私を射抜いたような気がした。
「……俺に、売るのか? 俺が、怖くないのか」
「美味しいお菓子を求めて来てくださる方に、怖いも何もありません。それに、お客様はお腹が空いていらっしゃるんでしょう?」
私はトングで黄金色のフィナンシェを一つ掴むと、紙ナプキンに乗せて差し出した。
「味見です。もしお口に合わなければ、お代はいただきません」
男は躊躇っていた。
まるで、自分が触れればそのお菓子が腐ってしまうとでも思っているような、怯えを含んだ手つきだった。
だが、バターの香ばしい誘惑には勝てなかったらしい。
彼は震える手でフィナンシェを受け取ると、ゆっくりと口元へ運んだ。
パクッ。
乾いた音がして、彼の唇が黄金色の焼き菓子を食む。
その瞬間だった。
ドクンッ!!
店内の空気が大きく震えた。
「――っ!?」
男が胸を押さえ、カウンターに膝をつきそうになる。
私は慌てて身を乗り出した。
「お客様! 大丈夫ですか!?」
アレルギーか何かだっただろうか。
血の気が引く思いで彼を見つめる。
しかし、彼の反応は苦しみではなかった。
男の体を包んでいた、あの不気味で重苦しい黒い霧のような気配が、みるみるうちに晴れていくのだ。
まるで、朝日に照らされた夜露のように。
「……なんだ、これは」
男が呆然と呟いた。
彼の体の中で、何が起きているのか私にはわからない。
けれど、これだけはわかる。
先ほどまで青白く死人のようだった彼の口元に、赤みが差していること。
そして、握りしめられていた拳の力が抜け、震えが止まっていること。
「熱い……いや、温かい。内側から、光が溢れてくるようだ」
男は自分の手を見つめ、それから信じられないものを見る目で私を見た。
「君は、何を入れた? どんなポーションを使ったんだ」
「ポーション? いいえ、入っているのは『ロックバッファローの発酵バター』と『ドワーフ・アーモンド』、あとは私の『美味しくなぁれ』というおまじないくらいですよ」
私が首を傾げると、彼はハッとしたように息を呑み、そして低く笑った。
「……美味しくなぁれ、か。最高級の白魔法より効くとはな」
彼はフードを少しかき上げ、残りのフィナンシェを一気に口に入れた。
今度は味わうように、愛おしそうに咀嚼する。
「美味い。……本当に、美味い」
その声には、先ほどの殺気立った雰囲気は微塵もなく、ただ純粋な感動だけが滲んでいた。
ああ、よかった。
お菓子作りをしていて一番嬉しいのは、この「美味しい」の一言を聞けた瞬間だ。
「ありがとうございます!」
私が満面の笑みで答えると、彼は少し眩しそうに目を細めた。
そして、懐から革袋を取り出し、カウンターに置いた。
中からジャラリと重そうな音がする。
「ここにある菓子、全部くれ」
「えっ、全部ですか!? でも、まだフィナンシェもマドレーヌも残っていますし、賞味期限も……」
「構わない。俺にとって、これは命綱だ」
彼の瞳は真剣だった。
そこまで気に入ってもらえたなら、断る理由はない。
私は手早く残りの商品をすべて箱に詰めた。
「お会計は、銀貨3枚になります」
彼は何も言わずに金貨を一枚、カウンターに置いた。
「えっ、あのお客様、これでは多すぎ……」
「釣りはいらない。……また来る」
彼は箱を抱えると、逃げるように店を出て行ってしまった。
金貨一枚といえば、銀貨百枚分に相当する。
この店の家賃数ヶ月分だ。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
慌てて追いかけてドアを開けたが、路地裏にはもう誰もいなかった。
ただ、夜風の中に彼の纏っていた冷たい空気の名残はなく、代わりに甘い残り香だけが漂っていた。
「……なんだったのかしら」
手元に残された金貨を見つめる。
王家の紋章が入った、最高純度の金貨だ。
こんな大金を持ち歩いているなんて、ただの冒険者ではないのかもしれない。
けれど、まあいいか。
美味しく食べてくれたなら、それが一番だ。
私は金貨を大切にレジにしまい、空っぽになったショーケースを見てニマニマと笑った。
「完売御礼! 明日も頑張ろうっと」
能天気な私は、気づいていなかった。
あの時、彼――この国の第二王子ルーカス・フォン・グラキウスの体を蝕んでいた『死の呪い』が、私の作ったフィナンシェによって一時的にとはいえ霧散していたことに。
そして彼が、その奇跡の味と、自分を怖がらなかった店主(私)に、強烈な執着を抱き始めてしまったことにも。
次の日から、彼は日参することになる。
開店と同時にやってくる、謎の「フードの常連様」として。




