第2話 開店準備と、魔法のフィナンシェ
小鳥のさえずりと共に、私は目を覚ました。
古びたカウンターの上で突っ伏して寝てしまっていたらしい。
体がバキバキと音を立てるけれど、不思議と気分は爽快だった。
「……あれ?」
眼鏡をかけ直し、店内を見渡して私は息を呑んだ。
昨夜、月明かりの中で必死に掃除をしたとはいえ、これは少し異常だ。
床は鏡のように磨き上げられ、曇っていた窓ガラスは新品のように透き通っている。
蜘蛛の巣だらけだった天井の梁さえも、飴色の美しい木目を輝かせていた。
「私、火事場の馬鹿力でここまで掃除したのかしら……?」
首を傾げるけれど、きれいになったのなら文句はない。
これなら、今日からでも厨房を使える。
私はエプロンの紐をキュッと締め直した。
さあ、記念すべき最初のお菓子作りだ。
今日作るのは、焼き菓子の定番「フィナンシェ」。
材料はシンプルだからこそ、素材の良し悪しと腕が試される一品だ。
私は早朝の市場で仕入れてきた食材をカウンターに並べた。
まずはバター。
この世界でも高級品とされる『ロックバッファローの発酵バター』だ。
岩山で育つこの牛の乳は、濃厚でコクがあり、ナッツのような芳醇な香りが特徴だ。
実家にいた頃は、こんな高価な食材を私が自由に使うことなんて許されなかった。
でも今は、私の全財産をはたいて買った私のものだ。
次に、粉。
太陽の光をたっぷり浴びて育った『サン・ウィート』の小麦粉。
粒子が細かく、焼くと黄金色に輝く最高級品だ。
そして、『ドワーフ・アーモンド』のパウダー。
地中の養分を吸い上げたこのアーモンドは、香りの強さが段違いだ。
「よし、始めましょう」
私は深呼吸をして、厨房に立った。
魔道コンロに火を入れる。
まずは一番重要な工程、「焦がしバター」作りからだ。
手鍋にたっぷりのバターを投入する。
ジュワアアアッ……!
熱された鍋肌でバターが溶け出し、心地よい音を立て始めた。
厨房いっぱいに、ミルクの甘い香りが広がる。
だが、ここでは終わらない。
さらに加熱を続ける。
パチパチという音が静まり、泡が細かくなってくると、香りが変化する。
甘さの中に、香ばしいナッツのようなニュアンスが混じり始めるのだ。
色は黄金色から、淡い琥珀色へ。
この一瞬を見逃してはいけない。
焦がしすぎれば苦くなり、浅すぎれば風味が足りない。
完璧な「ヘーゼルナッツ色」になった瞬間、私は鍋を火から下ろし、氷水に当てて加熱を止めた。
「完璧ね……!」
鍋から立ち上る香りは、それだけでお酒が飲めそうなほど濃厚で芳ばしい。
私は思わずうっとりと目を細めた。
ボウルに卵白と『星屑砂糖』を入れ、泡立てないようにすり混ぜる。
そこへ、さきほどの焦がしバターと、アーモンドパウダー、小麦粉を加えていく。
ゴムベラで混ぜ合わせるこの時間が、私は何よりも好きだ。
生地が艶を帯び、とろりとした質感に変わっていく。
「美味しくなぁれ、美味しくなぁれ」
無意識に、そんな言葉が口をついて出る。
なんだか今日は、いつもより体が軽い。
指先から温かい何かが溢れ出し、生地に溶け込んでいくような感覚があった。
でも、気のせいだろう。
久しぶりのお菓子作りが楽しすぎて、テンションが上がっているだけに違いない。
長方形の金型に生地を流し込み、予熱しておいた石窯へ。
この石窯には『炎の魔石』が埋め込まれていて、遠赤外線で芯までふっくらと焼き上げることができるらしい。
前世のオーブンよりも優秀かもしれない。
数分後。
厨房、いや、店中に暴力的なまでの「美味しい香り」が充満し始めた。
バターとアーモンドが焼ける甘く香ばしい匂いは、どんな香水よりも魅力的だ。
チーン、と魔導タイマーが鳴る。
「焼き上がり!」
分厚いミトンをはめて、鉄板を取り出す。
そこには、美しい黄金色の延べ棒たちが並んでいた。
フィナンシェとは、前世の言葉で「金融家」や「お金持ち」を意味する。
金塊に似たその形は、縁起が良いとされるのだ。
一文無しになった私にとって、これ以上ない再出発のパートナーだろう。
「熱いうちに……ちょっとだけ味見」
私は焼きたてのひとつをつまみ上げ、ハフハフと息を吹きかけながら口に運んだ。
カリッ。
心地よい音と共に、表面のサクサクとした層が崩れる。
その直後、中からじゅわりと濃厚なバターの旨味が溢れ出した。
「んんっ……!」
美味しい。
いや、美味しすぎる。
ロックバッファローのバターのコクが、焦がすことで深みを増し、ドワーフ・アーモンドの香りと絡み合って鼻に抜ける。
サン・ウィートの生地はしっとりと舌に吸い付き、噛むほどに優しい甘さが広がる。
焼きたて特有の、外側のカリカリ感と内側のふんわり感のコントラストがたまらない。
一口食べただけで、体中に力がみなぎってくるようだ。
昨日までの疲れも、婚約破棄された悔しさも、すべてが溶けて消えていく。
(私の腕、上がったかしら?)
自画自賛したくなるほどの出来栄えだった。
その時だ。
「……いい匂い」
「なんか、すっごくいい匂いがするぞ」
入り口の扉の隙間から、ひそひそ声が聞こえてきた。
見ると、汚れた服を着た小さな子供たちが三、四人、鼻をひくつかせながら店内を覗き込んでいる。
この辺りに住む子供たちだろうか。
私は焼きたてのフィナンシェをいくつかお皿に乗せ、扉を開けた。
「こんにちは。お腹が空いているの?」
子供たちは私の顔を見て警戒したように一歩下がったが、お皿の上の黄金色のお菓子から目が離せないようだった。
「これ、売り物になるか試作したんだけど、ちょっと形が悪くてね。よかったら食べてくれない?」
嘘だ。形も完璧だったけれど、最初のお客さんにはサービスしたい気分だったのだ。
一番年上の男の子がおずおずと手を伸ばし、パクリと口に入れた。
その瞬間、少年の目がカッと見開かれた。
「う、うめええええええ!」
その叫び声を合図に、他の子供たちも次々とフィナンシェに飛びついた。
「なにこれ! あまい! サクサクする!」
「食べたことない味だ!」
「すげー! なんか体がポカポカしてきた!」
子供たちは夢中で頬張り、あっという間に平らげてしまった。
その表情は、食べる前の薄汚れて疲れた顔とは別人のように輝いている。
頬には赤みが差し、くすんでいた瞳には光が戻っているように見えた。
「お姉ちゃん、これなんてお菓子?」
「フィナンシェよ」
「フィナンシェ! すっげー魔法の薬みたいだ!」
男の子が元気よく笑った。
その言葉に、私は思わず苦笑する。
ただのお菓子が薬なわけないじゃない。
「明日からここでお店を開くから、また来てね。おまけしてあげるから」
「うん! 絶対来る! みんなにも教える!」
子供たちは嵐のように去っていった。
遠ざかる背中を見送りながら、私は確かな手応えを感じていた。
この場所なら、やっていける。
着飾った貴族のための、見た目ばかり豪華で味のしないお菓子じゃない。
食べた人が心から笑顔になれる、そんなお菓子を作っていこう。
私は残りのフィナンシェを丁寧に並べ直し、明日の開店準備に取り掛かった。
――だが、私はまだ気づいていなかった。
子供たちが言った「魔法の薬みたい」という言葉が、単なる比喩ではなかったことに。
私が無自覚に込めた『聖女の魔力』によって、このフィナンシェが極上の浄化作用を持つ「食べる聖水」と化していたことに。
そして、その匂いを嗅ぎつけて、とんでもない「客」が近づいてきていることにも。




