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グレゴリオ  作者: abso流斗
降り注ぐ聖歌、遠い夏の果て
13/16

月の光りの囁きなる人に






武者小路はもう、迎えに来る事はない。

よほどあの失敗が響いたのか、はたまた、違う事を考えているのか?

まあ、うざいのがいないのはいい事だが。

それでも一つ、はっきりとさせておかねばならない事がある。




扉を開けると奴はいた。教壇の椅子に座り、静かに本のページをめくっていた。

「しっかし、真面目だね。もう、意味はないだろう? それでも来るか」

「来ると思っていたからこそ、秋元氏もここに来たのでは?」

ぐぅ。

その通りだが…何か…違和感が。

そうだ…あのしちめんどくせえ口調ではない…。


「そう言うしゃべりが出来るなら、最初っからそうしてろよ」

「…………」

その鼻で笑う様な顔と、底意地悪そうな視線はやめれ。お願いだから。


「一つだけ言いに来た。以後、補習に参加はしない。全サボリだ。勿論、総て欠席でかまわない。それについての全責任は当然!俺が持つ」

俺は来るまでに頭の中で何度も考え、ああ言ってきたらこう言い返そうと練りに練って来た事を一気にぶちまけた。

が、ヤツの言葉は意外だった。

「…了承しました。ご希望なら、出席という事で処理しておきますが、いかが致しますか?」

「……………」

「いいのか?」

「秋元氏がそう決めておられるのなら。その覚悟こそ士の本懐」

いや……ウチ別にお侍とは関係ないのですが……。

「それをこの私が謗る事など有り得ません。為すべきを為す、それだけです」

極めてあっさりと、話は進んでしまった。拍子抜けするぐらいに。

「意外と話のわかるヤツだったんだな」

「そのようで」

武者小路バカ天才のその底意地の悪そうな笑顔には変わりなかったが、少しだけ、瞳が和らいでいる様な気がする。

「ご理解感謝する。かたじけなし」

「なんの。武士は相身互い。ご配慮無用にござる」

くそ。時代劇言葉じゃやっぱ勝てねェか。

「俺がそうした事で、今後、武者小路に何か不利益になる事、不名誉になる事はあるか?」

「全く、ありません。総て秋元氏の責務ですゆえ」

「OK。少し安心した」

ふっ、と武者小路が笑みをもらした。それは今までにはあり得ない事だった。


「んじゃ、行くわ」

「為すべきを」


俺が教室のドアを開け、廊下に踏み出した時、振り返ってみた時も、武者小路は教壇の上の本から目を離さず、静かにページをめくっていた。



xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx




手間かけさせる事になるのなら、少しは勉強しておこう。

した所で何がどうなる、と言うわけでもないのだが。

いまさらねぇ。


それでも、俺は足早にあの階段へと向かう。

その事しか頭になかった。

やがて、その事で頭がいっぱいになっていった。



あの世界は…まだ俺を赦すだろうか……?

2度目のドアは……果たして開くのだろうか…。

俺はドアの前で凍り付いた様に固まっていた。

芙実花が消えた夜。失われた手のぬくもり。

そして、耳の底に響いている、あのメロディ…。

ドアノブに手を伸ばす。

それは氷の塊の様に冷たく、掌に張り付いてくる。

意を決し、捻る。重い鉄製の扉を引き、開けた…。


ホワイトアウト。

もう一枚の扉はそこにあった。

よし!!

急いで、その扉も引き開ける!


xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx



それはまだ消え失せてはいなかった。

夏の風。なびく草原。高く青い空。

むくむくと盛り上がる入道雲。

俺は、急ぎ足で草原の中に入り込んだ。

後ろでドアの閉まる、ばたん、と言う大きな音がする。その事すら気にもならなかった。

遙けき草原の彼方にあるはずの樹を探す。

あるはずだ…。どこだ…?

芙実花がいるのではないか、と思っていた。

が、樹が見あたらない。どこを探しても。地平線の果ては空に続き、流れる雲の中にも、記憶の中のあの大きな樹は見あたらなかった。

…………。

歩こう。

きっといる。

芙実花が戻る場所は…ここだけだ。ここだけのはず。


現実…“俺の”現実の中から消えて、芙実花はどこに行けたのか…。

戻る場所がここ以外にあるのだろうか?

あるはずだ。そして、戻れないはずだ。戻る事を拒否している。

でなければ。

この世界がある理由がわからない。

芙実花を捜そう。

俺は青い草の匂いにむせかえる様な草原を歩き始めた。


何故今回に限ってあの樹が見あたらないのだろう。

草原はどこまでも茫洋と続いている。空と草原の狭間。

立っているのは俺一人だった。

…もういないのか。芙実花は?

そう思いかけた時、目の前を“影”がよぎっていった。

思わず遠ざかり、再び観察する。そうだ。芙実花が言っていた、あの影だ。

愚鈍で執拗な影は、芙実花の姿を探し続けている。

芙実花はまだ…ここにいる。

影を振り切る様に走り出した。ヤツは追いついて来れない。

草原の高台に昇り、四方を見回す。樹は見あたらなかった。

「……………芙実花…」

俺の口から漏れ出ずる呟きが夏風に千切られて消え失せていく。



「……やっと呼んでくれた」

背後から声が聞こえた。

上を見上げると、張り出した太い枝が陽差しを遮り、俺の頭上に柔らかい影を投げかけている。

この世界では樹だけが影を持っている。

振り返ると芙実花が立っていた。

樹の投げかける木陰に佇みながら。

それは魔術の様に、突然現れた。でも、それを不思議だとはもう思わなかった。


俺のMA1、ロングマフラーが樹にかかっている。それは優しく吹き抜ける風の中でゆらゆらと揺れている。そして、木の根本には俺のとっておきのブーツがきちんと並べておかれてあった。

芙実花はいつものサマードレスに戻っていた。


俺は、芙実花に駆け寄ると何も言わず抱き締めた。

何であの時、手を……という言葉をかろうじて呑みこんだ。


「もう、戻れないかと思ってた…」

「私も…覚悟はしてました」

それがどんな種類の覚悟かは、俺には判らない。しかし、これだけは判る。

それで失うものは芙実花の方が比較にならないほど大きかったはず。

勇気がいる決断だったはずだ。昨日のあの決断は。


「赦されざる世界から、モノを持ち込む事なんて…不可能のはずだったのに」

「俺が入れるんだから、それは大丈夫だったんじゃないの? すっぽんぽんで現れたわけじゃないし」

「そう言う意味じゃなくて!」




「赦さなかったのは…私だったのかな…と言う意味」

芙実花の指先が胸元の紅玉をいじる。それはあの日俺が露店で買ったペンダント。

「ブーツや、マフラーでも良かったんだけど…」

「でも、これが欲しかったの…」

ペンダントを触りながら芙実花は呟く。

「これなら赦せる様な気がしたから…」




木陰は涼しかった。吹き抜ける風はべとつく事もなく、汗ばんだ身体を冷やしてくれる。

長く垂れ下がったマフラーの端が風に揺れるのが何かちょっとおかしかった。

「影が追いついてきても、ここにいたら判らないよな。大丈夫か?」

「多分そうかも……。でも、歩くのならつきあいます…」

「歩いてどこかに行けるのか?」

「どき」

「どき、じゃねぇよ。驚いてもいないくせに」

おどける様に、驚いた振りをする芙実花は、機嫌がいい様だった。

「どこに行く必要があるって言うんですか?」

「もう、辿り着いているんです…ここより他にはない場所に…」

「本当に…? 俺にとってはそうでないかもよ」


「戻るつもりもないし、戻る意味もないんです」

「確かにここは綺麗かもしれない。自由かもしれない。でも…」

「どうして欲しいの?」

不意に芙実花が尋ねてくる。

その瞳は真っ直ぐすぎて……。

「したい様にして…かまいませんよ。どうせ……後少しですから」

「後少しって何が?」

その答えは返ってこなかった。


「望まれる存在になる事に、憧れてたの」

芙実花は夢を見る瞳で呟く。

「こんなところでそれが出来るなら……壊れてもいいかなって……」


何故、その覚悟が出来るのかわからない。今は。

でも、気付いてしまった。深く理解してしまった。

彼女には助かろうという気持ちがない事を。


今は楽しい。ここは楽しい。でも、取り残されるのは君なんだ。

楽しい時間をいくら重ねても、変わっていかなければきっと…。

その事を言う。言わざるを得ない状況になっていく。

それは今かもしれなかった。しかし、俺には何の言葉も思い浮かばない。

ただ、ただ、頭の中の言葉を探り、ガラクタしか詰まっていない物置を引っかき回す様に無言で汗ばんでいるだけだった。

「何をする必要もないの。ここはそう言う場所」

芙実花は何もかも諦めた人の様に、静かに呟く。


「今度来る時は何か持ってきてくれますか? 遊べるものがいいです!」

明るく芙実花が言い放つ。重苦しさを除き切れていない明るさで。

「…ん。そうだな………じゃ、フリスビーでも持ってくるよ」

「やったぁ。それいいですね。楽しそう!」

「この草原でやってみるの。すごく楽しそう…。そうかぁ。いい発想ですね……フリスビーですか……」

芙実花は楽しげにしきりに感心している。

「絶対ね! 約束ですからね!」






駆け出す芙実花の姿が消える。そしてまた現れる。何度も。

!!

草原を歩き出す芙実花の姿が消えた。現れた時と同じように唐突に。

と、次の瞬間、再び、現れる。ほっと息を吐くと、次の瞬間また薄れていく。

芙実花は、この美しい世界の中で明滅していた。


影に食われかけている。

追われているのは影。芙実花自身の影。

影に食われると消えて無くなってしまう、と芙実花は言う。

影は現実のオマージュ。


今の俺に出せる全力で、芙実花に駆け寄る。

「やぁっ! 何? どうしたの?」

「…今…消えかけた。影が来てる」

「大丈夫。見あたらないわ。まだどこか丘の向こうでうろうろしてるはず」

「…俺が…俺が影なのかもしれない…」


言いたくはなかった。そう考えたくもなかった。

が、そうならないとは考えられない。

目を伏せる俺の指先に触れるものがあった。

「そうじゃない。絶対そうじゃないから! 大丈夫…」

芙実花が指先を握りしめてくる。

「なんで…? なんで気が付かないの?」

「あなたは…有馬さん…は……もう…」

俺はその手の上からさらに包み込む様に強く握り返した。

今、このあやふやな世界の中で、確かなものはこれしかない。

失いたくないと思えるものも。


一体、俺の中の何が、芙実花を求めてしまうのだろう。

何故、俺の目は気付いた時には芙実花を捜しているのだろう。

それが知りたかった。

その理由が知りたかった。ただ…、

それだけだった。


なら。

一つ試したい事がある。

俺は芙実花を盗み出せるのだろうか?

この世界と芙実花は不可分なのだろうか?


俺は芙実花を抱き締めた。

ここから現実へ戻る。この間と同じやり方で。俺はその方法しか知らない。

その決断。

辿り着けるのか? その先に望むものはあるのか?



そのまま後ろに倒れ込む!


「きゃっ!!」

胸の中に芙実花を抱いたまま、後頭部から倒れ込む。

草原があれば、俺は瘤どころでは済まないだろう。

草原があれば。


ブラックアウト。総てが掻き消えた。

ぐるり、と闇の中で一回転する様に、回った。

草原はない。あるのはあの闇一色。

ならば行き着く果ては…俺の“現実”のはず…。

のはず…。

のはず…。




xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx




やっと、ここまで来た様な気がする。

冬の身を切る様な寒気が、抱き合う俺達の周りを駆け抜けていく。

その事が、より、腕の力を込めさせる。

「強引すぎます…」

「ごめん」

「でも、そうしたかったんだ」

俺達は、俺の現実に来ていた。学校の屋上でただ二人で。

寒さから身を守る様に互いに抱き合いながら。


冬の月の夜が、頭の上に瞬く星をちりばめて、俺達を覆い尽くす。

「どうする?…俺の家に行く?」

「…はい…少し寒いし…」


手だけは離さない様にしっかりと握り直すと、並んで屋上を横切っていった。

明かりも無く暗い屋上では、月明かりだけが唯一の頼りだ。

暗闇の中で鈍く銀色に光るドアノブを掴み、軽く捻る。

がち。

動きが止まった。

がちがちがち。

少し捻るとそこで止まる。何度試しても。

「…あの……鍵がかかってる様なんですが?」

「えぇぇぇ?…」

二人で顔を見合わせる。

真冬なんですけど。

吹きっさらしなんですけど。


「あとなんとかしのげる所と言えば…ここしかねぇ」

俺達は天文部の部室の前に立っていた。

ここの鍵がかかってたら…しょうがねぇ。

ガラス叩き割るしかない。そんときはためらいなく割る。そう、決めた。

「頼んますっ!」

ドアノブを掴み、思いっきり捻る!

がちゃ。

ドアは不用心な事に軽く開いた。

「ふぃぃぃ…」

「入ろう。とにかく。ここは寒すぎる」

「はい……くしゃみでそう…温度の変化ありすぎます…」

小さく縮こまった芙実花が、俺の手を引っ張る様にして中に滑り込んでいった。



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かって知ったる他人の部屋、と言うわけにも行かない。

まず、ライトライト。

壁のあたりを隈無く探すと、スイッチは簡単に見つかった。

明かりがつけば、何となく人心地付いた様な気がする。

あとはストーブ。石油が入ってるかどうかをチェック。

「入ってますか?」

「あまり…半分残ってないな。今日一晩ぐらいは大丈夫だと思うけど」

「全部使っちゃったら怒られるでしょうか…?……勝手に…」

「いい。いい。全然OK。ここの連中にゃ迷惑かけられてるし。気にするこたぁない」

俺は真智子と乃々子の大騒動を思い浮かべて言った。

これぐらいは、復讐として当然。

遠慮無くストーブに火を点ける。

シュー、と言う静かな音を立て、その内部にオレンジ色の暖かな色が満ちていく。

少しずつ、室内の空気がぬるみ始めていった。


「冷蔵庫なんかありやがる。食うものは…」

ばくん、と冷蔵庫のドアを開くと、室内灯の光が冷気と共にこぼれだしてくる。

「えっ…いいんですか?!」

「まるきしOK。緊急事態だもん。しかし…なんでアイスがあるかな?」

「食べます?」

「寒すぎるでしょう?! そうでもないのか? 女の子は平気で冬でも表でアイス食うからな」

「結構好きですよ? 私」

「信じられねェよ。通は冬のアイスがうまい、とか言ってるらしいけど…正気の沙汰とは…」

見てる方が寒いっちゅうの。

「あ、ゼリーがあ……」

芙実花がくちごもる。

俺はゼリーを取り出し、芙実花に手渡した。

「……すいません…はしゃいじゃって…」

「いいの。まったく問題なし。こうなったら喰らい尽くそう」

「悪いですよぅ」

「と言いつつすでに封を切っているのは誰だよ」

「……」


「食う気満々じゃん」

「不謹慎かも知れませんけど……」

芙実花は俺の手をしっかりと握りしめたまま、儚げに微笑んだ。

「何か…遠足みたいで楽しい…」


部屋の空気が暖まっていく。冷蔵庫の中身はお菓子で埋め尽くされていた。

飲み物はペットボトルの麦茶があった。あまり冷えてるのもなんなんで、表に出しておく。

さて。

何とかなる。


壁にもたれ、寄り添う様に床に座り込み、じゃんじゃん勝手に飲み食いする。

「何か…私たち遠足に来て遭難した人みたい…ふふっ」

芙実花が楽しげに笑う。

こんなのんきな遭難があるもんかい。ストーブまであって。

お菓子はたんまりあって。

「じゃ、裸で暖め合う? 寝たら死ぬぞっ!みたいな」

芙実花が黙り込んでしまった。そ、その上目遣いはやめれ。

うぇ。気まずい。

「危ういギャグすぎましたか。やはり」

「当たり前です!! 反省文を明日までに二十枚!」

「二十枚は多いッス」



ふと、言葉が途切れると。

ストーブがぱちぱちと小さな呟きを漏らす音まで聞こえるほど、ここは静寂に満ちていた。

片手を互いにつなぎ合ったまま、空いている手で、コップの麦茶を口にする。

それ以外、俺達は何も持っていなかった。

静かだった。

そして、どの世界からも等しく遠ざかっていた。


この手を離したら、芙実花は消え失せてしまう。

痛いぐらいその事が感じられる。


「こういう月を見ると…いつも、湖を思い出す…」

「なんでですか…?」

「昔…夜の釣りに行った事があるから。なんで夜だったのかは忘れたけど」

「小さなボートに三人で乗って…だだっ広い湖の真ん中まで漕ぎだして、一晩中釣りをしてた」

ゆらゆらと月の明かりを映し、揺れる湖面。その寂しい美しさ。

「その時見た月が綺麗で…今でも、こういう冴えた月を見ると思い出すんだ……」

「…………怖くなかったですか?」

「少し。でも、少し怖かったから、余計に綺麗だった」

芙実花は黙り込んでいた。同じものを見ているのだと俺は思っていた。

が、それは誤りだった。

「……怖いのはいやです」



「私、有馬さんに好かれたくないんです」



「どうして?! ダメか?! 俺?」

「…?」

「何か……気に障る事言ったっけ…?」

「そうじゃない! そうじゃないです…ごめんなさい……」

言ってる事は判らなかったが…その瞳に浮かぶ暗い輝きが言葉を途切れさせた。

部屋は再び、ストーブの小さな唸り声だけに満たされていく。


「私なんて…何も特別なものがないし…月並みで…取り柄がなくて…」

「それは俺だって。俺なんかマイナスだぜ。全科目補習は学年でただ一人!」

くすっと芙実花が笑った。それは凍った花を握りつぶした様な音に聞こえた。

「……そういう突き抜けたとこも何も…ないんです」

「平凡も普通も、別に悪い事じゃないよ。プラマイゼロのニュートラル」

「そうじゃなくて……うまく、言えないですけど…」

「…んじゃ、待ってる。まとまったらゆっくりでいいから……聞かせて」

「……」

芙実花が、もたれかかってくる。その事が嬉しい。

例え錯覚でも。少し近づけた様な気になれた。

「……言葉はいつも…喉に詰まります…頭の中で言いたい事とは遠く離れてて…」

「人に好かれた事がない様な気がします…そんな事ないんですけど……あぁ…混乱してる…」

「いいよ。続きどうぞ」

「…はい……人が好いてくれるのは、私のいい子にしてる部分だけで…何かをしたいと思うと、途端に反対される…みたいな…」

「…期待は裏切られる。望む事は欺かれる。手の中に別のものを押し込まれる…」

「これで我慢しなさいって…」

「なら、いっそ何も望まない方が楽で…人に望まれるままのものでいた方がいい…」

人に期待するのを止めて。

自分に期待するのを止めて。

そして、君は求められる事だけに安住する。

その胸の奥の痛みには気付かないふりをしながら。

「…怒ればいいじゃん。こんなもの欲しくないって」

「そんな資格…ありませんから」

気弱に笑う芙実花をみて、歯がゆかった。

どうしてそこまで自分を卑下するのか、正直俺にはわからなかった。

その考えは俺とは異質すぎる。

その方が心が落ち着く、と言う事なのだろうか。それが彼女の慣れ親しんだルールなのだ、と言う事なのだろう…か。

朧に思い浮かんだのは彼女の父親の事。

「そうしろってオヤジさんに言われてるの?」

「そうではないですけど……お化粧すると色気づくな、と言われてましたし、膝を少しでも崩すと、はしたない、と怒鳴られてました」

「…腹立つなぁ。どうすればいいかわかんないじゃん。それじゃ」

「…そうですね……どうすればいいのか、よくわかりませんでした……最後まで…」



「他人の心がわからない…」

「自分の心もわからないんです…」

「心って何ですか…?」



前にも聞いた、その質問に答えは用意していなかった。俺に出せる答えだとも思えなかった。

でも。

「…考えてみる。一緒に考えよう」

「俺バカだし。二つの頭と四つの目でものを見て考えた方が……いいと思う」

「はい……」

芙実花はこっくりとうなずいた。その頬に少し赤みが差していた。

「ごめんなさい……」

「何故謝る? 次から、一回謝ったら100円ね」

「えぇぇ?!」

「はい決まり。ここからね」

「……む、難しい事ですけど…」

「どこが難しいのかちっともわからないよ。けど…そんなに謝らなきゃならない事は何もしてないよ。それは間違いない」

「自分に厳しすぎる。厳しすぎるよ。きっと」

「だって…そんな……ん…」

口ごもる。その横顔に浮かんでいるのは哀しげな笑顔だった。総てを赦しきった様な。

彼女はとてつもない孤独と暗闇の中にいる。

その事を理解する発端に着けた様な気がする。ようやっと。


「ゼリー……もう一個食べる?」

「何でもいいよ。好きなの」

「あるモンしかないけど、その中で一番好きなのとっていいよ」

「悪いです…あっ…」

「…なるほどね。じゃ、これ」

「さっき一番最初に手が伸びたヤツ。別なのでもいいよ」

「……」

「断る練習も必要だし」


「どうして…そんな優しいんですか…?」

「うわ! やめろぅ! そういうのっ!」

うげげ。背筋がぞわわと……。

「ダメなの! そういうのはっ! うう。居心地悪……」


「…照れちゃうんですか?」

はっきり言わない! そういう事は!

そんなにこっちをまっすぐ見て、言われると……くすぐったくて堪えきれない。

「まったく…もう……勘弁してよ…ったく」

ぶつぶつと呟く俺を、くすくすと笑いながら芙実花が見つめている。


「そんなに…優しくしてくれなくてもいいのに……」

「俺がそうしたかったからそうした。俺のわがままだから気にしないで」

「でも…」

「…君は自分を甘やかす事が出来ない」

「……!」

「だから、その分…」

「俺が甘やかしてやらないと」

「……」

「バランスが取れない様な気がした」

「俺が好きでやった事だから……許してくれ」



長い沈黙が続いた。窓の外の身を切る様な風の音に聞き入るふりをして、俺は芙実花の言葉を待つ。

「……はい」

聞き取れないぐらいの小さな声が聞こえた。

俺は、その華奢で薄い…なだらかな肩に手を乗せた。


閉ざされた部屋に漏れ入る月の明かり。

寄り添う暖かいからだ。

時折、細く長い風の吹き抜ける音。ストーブの小さな呟き。

その他、一切の音はなかった。

そして、俺達は。

互いに唇がある、と言う事を思い出した。


「ちょっと…えっちかな…わたし………」

何かを答えたかったが、場違いな事しか言えそうにない。

肩に回した手を引き寄せる。

「サンキュー。助かった…」

「どういう意味…ですか?」

「ありがとう、って…意味」


頭の中がすっきり整理出来た様な気分だった。

やるべき事。やりたい事。その方法。その総てがあるべき所に収まった。


手を離さないで…と芙実花が言った。


二人を結ぶ記憶の色。

愛おしさが溢れる。

彼女でなければならない理由が胸の奥に広がっていく。

俺は芙実花の運命を踏みつけて、どかどか進んでいく為に。

芙実花の手を引きながらそうする為に。

ここにいるのかもしれない。


あの世界が、どこかでそれを望んでいるような気も……した。

いつまでもここにいられない。

あそこにもいられない。

そう芙実花に告げた。


芙実花もその答えは持ってはいなかった。


人に優しくする。そして、優しくしてもらえる。

その事の甘やかさを芙実花は知らないのかも知れない。


「なんだか、暖かすぎて…眠くなって来ちゃいました…」

「朝までなんとか頑張る? それとも……」


俺達はいつまで会い続ける事が出来るのだろう。

手を離したくはなかった。いつまでも。

それは無理だ、と知ってはいても。

徐々に俺もぼんやりしてくる。

目が覚めたら…夏の草原のただ中…だったらいいのに。

目が覚めた時真っ先に見るのが…あの高い高い空だったらいいのに。

そして、傍らにサマードレスの少女がいてくれたら…いいのに。




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少し寝てしまった。

窓から冬の遅い朝日が差していた。

指先は離れていた。


もう、ぬくもりも残ってはいなかった。








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