第十話
誤字脱字等、ご容赦ください。
これは、一年ほど前の話です。当時私が勤めていた会社では倒産か存続を賭けた大一番の仕事がありまして。私はすでにその時に転職先を見つけてはいたんですが、上司からのプレッシャーで断り切れず、やる気のない残業を続けていました。その日も確か夜の十一時頃までみんなで会社に残って仕事をしていました。残業代はたんまり出ますし、もし出なかったとしても労基にチクればいい。私はそう考えていたので特に文句を言うこともなく、上司の指示通りに動いていました。
私は会社まで自転車で通勤しています。その道の途中、橋があるのです。そこまで大きくはありませんが、周りが工場だらけなので人の通りは絶えません。十一時まで残業した帰り、私は自転車に乗ってその橋を渡ろうとしました。周りに街灯があるものの、何やら薄暗かったのを覚えています。街灯の位置が高すぎるのか、それとも光が弱いのか。はたまた別の何かのせいか。今はもう理由なんてどうでもいいですが。
橋を上り、真ん中あたりまで進むと薄暗い街灯に照らされたとある物を見つけました。靴です、それも両方。綺麗にそろえられた靴は橋の手すりの上にバランスよく置かれていました。……川への身投げです。初めて見ましたが、私は直感していました。私は靴をどうにか視界に入れないように自転車をこぎました。あれを視界に入れると引き込まれる、そう感じたのです。そのまま橋を渡り終えた時、背後に何かの気配を感じました。私は絶対に振り返りません。振り返ってしまえばどうなるか、私は肌で感じていました。
翌日、橋は通行止めになっていました。飛び降り自殺を調査するためか、橋に差しかかるところに警察が立って車を誘導しており、橋には規制線が引かれています。しかし、橋の上には誰もいません。橋を通行止めにするくせに捜査をしている様子もないため、なぜ通行止めなんかをするのか不思議でなりませんでした。橋が通行止めになったため、私は川の下流の方へと進路を変えました。下り坂であり、道も広いため通行しやすいのです。……まあ、それよりもあの飛び降りがどうなったかを知りたいという気持ちがあったからですが。
下流と並走するように自転車を走らせると、浅瀬の方で警察が集まっているのが見えます。私はこれが目当てでした。どういう人が飛び降りたのか、なぜ飛び降りたのか。……良くない行為だというのは分かっています。けれど、興味というものにはあらがえず、つい。……下流側にある橋を渡っているときに、警察が何かを引き上げているのが見えました。それは肩甲骨のあたりまで紙を伸ばした女性でした。顔は髪が張り付いているのでよく見えませんでしたが、着ている服などからおそらく女性だろうと判断しました。
女性用のスーツらしきものを着たまま沈んでいた女性は手にはしっかりと小さな鞄を持ったままです。私はその鞄にどこか見覚えがありましたが、その時は気づきませんでした。橋を渡り切り、会社へと着くと社内もその話題で持ちきりです。誰が飛び降りた、なんで飛び降りた。……趣味に時間を割けない我々社畜にとっては唯一といってもいい刺激だったもので。私も支度を終え、話の輪に加わりました。私が見てきたことを話すと、皆興味深そうに耳を傾けます。そしてその女性は仕事の疲れから自殺を選んだのではないかと勝手に推測されたのです。
そうして話しているうち、始業時間になりました。部長が朝礼を始めるとともに、あの橋で起きた飛び降りについて話し始めます。「警察の方から連絡をもらった。昨日川に飛び込んだのはうちで働いていた宮根真美子だそうだ。……鞄の中から社員証が見つかり、顔写真とも一致する。間違いはないそうだ」とのことでした。……私はここでようやくあの鞄に見覚えがあった理由を理解したのです。
宮根真美子。確か年齢は30になったばかりで、独身だったはずです。同じ部署にいたのですが、あまり話す機会はなくて……。仕事はできる方だったそうですが、その分仕事を押し付けられるといったことも多かったようで。宮根さんはあまり物怖じしない人だったので、仕事を押し付けた上司に対してよく言い返したりして、部内が騒ぎになることも少なくありませんでした。……彼女はここ一週間ほど、残業をしていません。別にしなければならないという訳ではないのですが、直属の上司や部長の言葉すらも無視して、足早に定時で帰っていたのです。何か用事があったのでしょうが、それが川に飛び込む理由になるかどうかは、その時は分かりませんでした。
部長は事務連絡のように宮根さんの死を伝えると、さっさと仕事を始めるように言って部屋を出て行きました。部長はその時、取引先を確保するために外回りを担っていました。部長は会社を存続させるために必死だったようですが、我々とは温度感が違います。そのずれが、大きなトラブルを起こしてしまったのです。我々平社員はすでに転職先を見つけていますから、そこまで必死になる必要もありません。そのせいか進捗というのがあまり宜しくなく、外回りから帰ってきた部長にどやされるといったことも少なくありませんでした。
外回りから戻ってきた部長は早速仕事の進捗を訪ねます。その時受け答えをしたのは責任者としての業務を押し付けられていた私の同僚でした。彼は「まだそれほど進んでいない」と正直に答えましたが、部長は正直さよりも仕事の進捗の方が重要だったのです。……小一時間ほど部屋にいる全員の怒鳴り散らかした後、部長は昼休憩のため外へ出て行きました。私たちには「休憩なしで仕事を進めろ」と言葉を残して。当然誰もそんな言葉に従うはずもなく、経費扱いで出前を取り、それぞれ昼食を済ませました。
午後、部長は昼休憩から直接外回りに向かったようでしばらく帰ってきません。私たちはその間、渋々ながら仕事を進めていました。その間、暇だった私たちは死んでしまった宮根さんの話をしていました。……宮根さんは自殺なんかじゃないだろうと。ただでさえあのパワハラの権化たる部長に正面きって言い返した挙句口げんかで負かしてしまうような人が、一体何を苦にするというのでしょうか。借金があるとは思えませんが。もしあったとしても退職金と転職先の給料、その上部長のパワハラを録音なりして裁判に突き出せば裁判費用はかさみますが、慰謝料もそこそこ手に入るはずです。他には恋人関係も何かありそうですが、自らの死を選ぶ人だとは到底思えませんでした。宮根さんと親しかったという同僚の女性も「最近何かに悩んでいる様子はなかった」と話していました。
そうして宮根さんの死について話しながら仕事をしていると、いつの間にか終業時間になっていました。部長はまだ帰ってきていません。私はこれを好機として、急いで身支度をして会社から出ようとしました。部屋のドアを開け、エレベーターへと向かいます。ちょうど上ってきたエレベーターは私がいる階で止まりました。その瞬間、私は急いでトイレに逃げ込み、様子を窺います。予想通りエレベーターから降りて来たのは部長でした。すでに顔に怒りを浮かべており、「なんで俺が」とブツブツ何かつぶやいています。このままだと部長はまた何か八つ当たりで怒りだすに違いない。そう思った私はスマホの録音を起動して部長を追いかけました。……これが、その音声です。流しますね。
『おい、企画の進捗はどうだ?前のは駄目だったが、次のはもう準備できてるはずだろ?……何だその反応は?おい!出来てるのか出来てないのか、それだけ答えろ!』
『……できていないです』
『はあ~……。お前たちは本当にどうしようもない人間だな。自分が置かれた状況が分かってるのか?このままだと会社がなくなるんだぞ?お前らみてえな出来損ないを雇ってくれるような会社なんてここ以外にないんだ。お前らどうすんだ、ここがなくなったら。生きていけないぞ?……宮根もそうだったが、最近の奴は頭が悪いくせに諦めだけはいいよな。もっと俺を見習って、頭は賢く諦めは悪くならないと社会ではやっていけないぞ。……わかったらさっさと作業に戻れ。俺は外回りで疲れてるんだ、休ませてもらうぞ』
部長はそのまま部屋の奥にある自分のデスクへ荷物を置き、腰を下ろしました。そして近くにいた部下にコーヒーを淹れさせ、自分はスマホで何か動画らしきものを見ているだけです。私はその隙を縫って会社の外へ逃げ出しましたが、その日はいつもより部長が荒れていたと、のちに同僚に教えてもらいました。いつもよりも早い帰宅で、空は夕暮れに染まっています。いつも使っている橋の通行止めも終わっており、いつものように橋を渡って帰路に着きました。
翌日、いつものように橋を渡ろうとしたところ、なぜか通行止めになっていました。飛び降りが起きた時のように規制線が貼られ、警察が誘導を行っています。私は、昨日は通れたはずなのに、といぶかしみながらも誘導に従って下流の方へとハンドルを切りました。緩やかに下っていく坂に身を任せていると、浅瀬の方に警察が集まっているのが見えます。また飛び込みがあったのかと眺めていると、飛び込みをしたであろう人物が引き上げられました。その人は私も知っている人でした。
これです。『……できていないです』。この声の人です。前の企画がとん挫したのち、新たな企画と共に責任者に任命されていた私の同僚なのですが、もう盛り返す見込みのない会社で働くことすらストレスなのに加えて、あの上司です。過剰なほどのストレス環境だったことは言うまでもありません。それにこの声の人……。田島さんという方なんですが、あまり気が強くないので、宮根さんのように部長に歯向かうということはできない性質だったんです。おそらく部長はそれを見越して田島さんを企画の責任者に仕立て上げたのだと思います。自分専用のサンドバッグを用意していたんです、部長は。
私が会社へ出勤すると、それを待っていたかのように部長がトイレから飛び出して、私の目の前をふさぎました。そして「前任が自殺した。企画の後任はお前に任せる。今日の昼中に引き継ぎを終えて、完成まで持っていけ」と言い残して始業前に外回りへと行ってしまいました。私はもとより断るつもりでしたが、当の部長は言うだけ言ってさっさと行ってしまったので拒否の意思を表せません。ですので私は無視することにしました。別に私はその会社がどうなろうと知ったことではありません。もっと早くつぶれてくれれば休める期間も増えるのではないかと考えるほどだったので、私にとっては逆に都合がよかったのかもしれません。
朝礼を終え、私に規格の責任が移ったことは部署内の皆が知るところとなりました。私が出した指示はただ1つ、「終業時間までいて給料を稼げ」ということでした。何をしていても止めるつもりはありません。備え付けのパソコンでゲームをし始める者や椅子を何個か並べて昼寝をする者。会社から出て映画を見に行った者までいました。お昼ごろになり部長が戻ってくると、私たちの状況を見て、烈火のごとく怒ります。部長は責任者である私に、「お前がここまで使えないとは思ってなかった。何もしないなら早く帰れ」と帰宅を促します。その日は金曜日だったので、早めの休みがもらえると判断した私はすぐに支度を済ませて会社を出ました。
真昼の中、家へと帰るため自転車をこぐのはめったにない経験でした。通行止めになっていた橋もいつの間にか解放されていたようで、ゆっくりと橋を渡っていきます。真ん中あたりまで来ると、後ろから声をかけられました。振り返ると部長がいます。どうやら部署内で怒鳴り散らかした後、外回りに来ているようでした。私は帰るつもり満々だったので声を無視しようと思ったのですが、いつの間にか後ろのリアキャリアを掴まれていました。部長は私に、「少し話をしないか」と話しかけてきます。リアキャリアから一切手を放そうとしない彼は、拒否などさせないということをこれでもかと表してきます。なんだか怖くなっていた私はその時の会話を録音していました。これです。
『話したいことって何ですか?』
『うちの会社がつぶれた後のことだ。お前はずいぶんとやる気がなさそうだからな、もう転職先でも決めてるのかと思ってな』
『はあ……。だったら何だって言うんですか?』
『……だから、俺の足を引っ張るのか?何としても会社を立て直したい俺を馬鹿にしてるんだろ?もう少しで出世できた俺を妬んでるんだろ?……宮根もそうだったし、田島もそうだった。どいつもこいつも俺のこと馬鹿にしやがって!』
部長は私を橋の上から突き落とそうとしてきました。私は必死に抵抗し、周りの人に助けを求めます。近くを通りかかった人が警察を呼んでくれました。それを悟った部長は私の自転車を使って逃げて行きました。私は駆け付けた警察に事情を話し、家へと帰りました。
翌日、私のもとに警察がやってきました。どうやら事件に進展があったようです。……部長は、家で死んでいたようでした。リビングに仰向けになり、首には二種類の手の跡が残っていたようでした。死因は手の跡から扼殺だと判断されました。なぜか死体は異常に湿っていたようです。それから間もなく、務めていた会社は部長の死を待ち望んでいたように倒産しました。
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