第9話 クラウスミレは/ハイネは 思った。
フロイライン。今は使われていない上品な昔の敬称。これは、彼の告白がいたずらではないという意味である。
「冗談だとしたら真面目すぎで、本気だとしたら残念ですわね。 『社交界の難攻不落』ともあろうお方がこんなにも簡単に城門を開けてしまったら、これまで元帥殿を張り巡っていたお堀を満ちいてきた数多くの令嬢たちの涙があまりにも可哀想ではありませんか。」
「強固な要塞や鋼鉄の城壁も、時と相手によっては白旗を掲げて降伏することもあるよ。」
「私がそんなに恐ろしい攻城兵器でしたっけ。」
「マインデイ嬢の美貌も破城槌みたいだが、本当に怖いのは別にある。」
ハイネは身をかがめて、クラウスミレに近づいた。
もっと近くに。
もっと近くに。
その黒く光る瞳に自分の姿が映って見えるまで。
「この眼差しは、まさにカタパルトに匹敵する。」
「そういうシューマン元帥の眼差しは、降伏する人のものではありませんわね。 白旗を掲げた城壁の後ろに待ち伏せしている伏兵がまる見えですわ。」
「俺の…眼差し、だと?」
「相手の瞳を見る時は、自分の瞳も見えるということを肝に銘じてくださいね。帝国の元帥閣下。」
クラウスミレは立ち上がって、ハイネの隣を過ぎ去った。
コツコツ、とハイネが履かせてくれたシューズが、清々しいヒールの音を響かせた。
「お、おい…マインデイ嬢。」
「私はついさっきまでパズ大将の恋人だと知られていた身です。一晩の間に違う男性の腕を抱いて恋人のふりをしたら、世の中の人々が指をさして非難するでしょう。
まさか偉大なシューマン元帥は、元恋人から捨てられた哀れなレイディが、この世からさえ捨てられるようにはしないでしょうね。」
「そ、それは…」
「お気遣い感謝いたします。帝国陸軍の誇りである元帥が、レイディを心から大切にする騎士であることをこの上なく幸いと思いながら、この辺で失礼いたします。
では、ごきげんよう。」
病室のドアが閉まる前に、ハイネはクラウスミレの口元に淡い微笑が浮かんでいるのを見た。 そして残響のように彼女が残したささやきの一言も。
「そして、破城槌みたいな美貌という言葉、なかなか面白かったです。 あらゆる褒め言葉を聞きてみたんですが、そんな言葉は本当に初めてでしたわ。」
ドアを閉めながらクラウスミレは思った… どうやら自分は変な人の目に入ってしまったようだ、と。
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病室のドアを出たクラウスミレを迎えたのは、大佐の階級章をつけている若い将校だった。綺麗に手入れされている銀髪に色を合わせたような銀色のフレームの眼鏡がよく似合ってる美男子だった。
「ライチ·エルトマン大佐です。 外までご案内させていただきます。マインデイの令嬢。」
「お願いしますわ。」
その時、廊下の向こうから、慌てて誰かが駆け抜けてくる姿が見えた。クラウスミレは眉をひそめた。遠くからでも一目で分かってしまう自分に腹が立ってしまうほど見慣れている足取り、シルエット、そして声。
「スミレ、クラウスミレ!」
「フリードリヒ…… どうしてここに?」
「スミレが倒れて首都病院に運ばれたと聞いて…… 大丈夫なのか?」
クラウスミレは唇を噛みしめた。
「参謀総長殿にまで…気をつかわせるようなことでは…ありません……閣下。」
「おい、スミレ。 俺はあなたのことが心配で…」
「パズ大将。 このお方はご安静が必要とされております。」
ここで一番安定を必要としている人は実はフリードリヒだったが、思慮深いエルトマン大佐は上手に遠回しに言った。 しかし、彼に返ってきたのはフリードリヒの激しい一喝だった。
「黙れ、エルトマン大佐! お前なんかが口出しするところではないぞ!」
「そっちこそお黙りなさい!フリードリヒ・フォン・パズ!」
研ぎ澄まされた刃のように鋭い一喝に、フリードリヒはびくっと息を飲み込んだ。彼さえも初めて見るクラウスミレの目つき。大きくて丸いその瞳の奥には、ひたすら怒りが、精製され凝縮された純粋な怒りだけが輝いていた。
「あれほど望んだ頂点の座に上り詰めて、その結果がたかがこれよ!恋の誓いをひっくり返し、他軍の士官を脅かすことしかできないんですか、あなたは?」
「ス、スミレ…」
クラウスミレの迫力に押されたフリードリヒは、凍りついたように口を開くことさえできなかった。
「六月飛霜。」
「……?」
「東方大陸の諺ですよ、フリードリヒ。 覚えておきなさい。 女が無念を持つと6月にも霜が降るものだわ。 その霜が、いつかあなたの海を凍らせるかもしれないから。」
この言葉を残して、クラウスミレは毅然と体を回し、また廊下を歩き出した。 背筋を伸ばして堂々と歩き出した。
この瞬間、彼女の姿は間違いなく誰よりもお嬢様らしかった。
だから誰も、さらにはクラウスミレ本人でさえも、その頬を伝って流れる涙に気が付かなかった。
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病室のドアの奥側にもたれかかったまま、外で起きた一連の騒ぎを静かに聞いていたハイネは、手で口元を覆い隠していたが、クスクスと漏れる笑いは防げなかった。
「本当に傑作だな。 ますます欲しくなる。あのレイディ...いや、あの人を。」
ドアの後ろからハイネは思った… どうやら自分は変な女が好きになってしまったようだ、と。