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第26話 まだお見合いは終わってない






靴に殴られて真っ赤になった頬を包んだダフト中尉を、クラウスミレはただ淡々とした目で見つめていた。 その何気なさそうな瞳が、今すぐにも突き刺すように殺気に満ちいた目よりもよほど恐ろしいと、中尉は思った。


何の武器も、防具もなく、ただ一枚のワンピースに裸足で、乱れた髪をなびかせながら立ったこのお嬢は、どんな鉄壁よりも強固に見えた。


「退け、小娘」


「退けません」


「退けと言った! さもなければてめえから斬るぞ!」


「私は、退けません、と言いました」


「クラウスミレ嬢、早く逃げて!」


血を吐き出すような叫び声にも、クラウスミレは微動だにしていなかった。その代わり、顔だけをそむけてハイネを振り返った。


クラウスミレがハイネに向き合ったその刹那の瞬間、顔に擦れる光がまるで一筋の流れ星のように輝いた。 ハイネはそれが涙かと思ったが、その目元に水けの跡はなかった。 そこにあるのはこの暗くて湿っぽい夜の港でただ一人孤高に輝く、いつかハイネが感心していた瞳だった。そしてそこに映っているのは…


【相手の瞳を見る時は、自分の瞳も見えるということを肝に銘じてくださいね 】


ハイネを見下ろしているクラウスミレの瞳に映るのは、他の誰でもないハイネ本人であった。汗まみれになり、煤で汚され、そして乱戦の中で飛び散った血が赤黒くくっついて満身創痍になっていた。いつものように自信満々できれいさっぱりな陸軍元帥殿ではない、悪足搔をしたあげく地面に倒れている己の姿が見苦しいとハイネは思った。


しかし、そんなハイネを見つめるクラウスミレの瞳は、これまでのどんな時よりも温かく、優しく、愛らしい色に染まっていた。 瞳が宿っていた深い感情は、やがて熟し、微かに動く唇の曲線に沿ってハイネにたどり着いた。


「あなたを見捨てるわけにはいきませんわ、ハイネさん」


「いったい…どうして…」


「まだお見合いの途中だったんでしょう、私たち。デート中に男性の方を見捨てていくレイディはおりません」


「それを言うなら逆なんじゃ…」


「だから、ハイネもこう助けに来てくれたじゃないですか」


「クラウ…」


ハイネがまだ言い切らぬうちに、耐えかねたダフト中尉のカットラスが空に持ち上がった。


「こんちくしょう!どうせ皆殺しだ!そう望むならお前から死ね!」


クラウスミレは微塵も動かなかった。

まるで自分の前に誰もいないように、何のこともおきてないように。 今にも自分の体を切り裂きそうな勢いで物騒に輝くカットラスなど存在してないように。


そしてここにただ、クラウスミレとハイネの二人だけであるかのように。


「ダメェ!」


ハイネの沸き立つ叫び声すらも切り裂く勢いで、ダフトのカットラスがクラウスミレの頭頂部に突き刺さろうとした瞬間…


– タン!


まるで時間を止めるような、大きな銃声が響き渡った。


ダフトの凶暴な殺気も、ハイネの悲痛な叫びも、甚だしくは防波堤に打ち寄せて砕ける波の音さえも、その一瞬だけは一発の銃声に圧倒された。星空だけを孤高に映っている海の上に響き渡る銃声の残響《ざんきょう》だけが世界を満たした。息を呑んだまま、誰もその音の意味を理解してないまま、港には沈黙だけが流れていた。


「銃……?」


ハイネのマヌケなうめき声が合図になったのだろうか。


港のあっちこっちからライフルを手にした兵士たちが一斉に現れ、皆を取り囲んだ。第5中隊と形は似ている服装だったが、水色の水兵戦闘服と違って深い海を連想させる青黒い戦闘服で身を包んだ兵士たちであった。 彼らは慎重ながらも素早い足取りで近づき、全員に、特にダフト中尉と第5中隊の水兵たちにライフルを向けた。


気が早い者たちから素早く武器を投げ捨てて投降し始め、やがて水兵たちが武器を下ろす音でしばらく騒がしくなった。が、自分が今何をしているのかさえ分からないという表情でカットラスを落としたダフト中尉を最後にして、港には再び静けさが訪れた。


「り、陸戦隊! 海軍陸戦隊がなぜここに!」


中尉は悲鳴を上げるように叫んだ。 その時、陸戦隊の間をかき分けて一人の男性がこつこつと歩いてきた。 水兵の水色の軍服も、海軍士官の白い軍服も、陸戦隊の青黒い軍服でもない。それは、すべての光を吸い込むほど真っ黒な陸軍の制服を身に着けたライチ・エルトマン大佐であった。大佐の手には、まだ煙がもくもくと立ち上るハンドキャノンが握られていた。


エルトマン大佐はまずクラウスミレの所に近づき,慎重に尋ねた。


「ご無事ですか?マインデイ嬢」


「あ…ああ、はい」


この状況が理解できないのはクラウスミレも同じだった。 しかし、大佐はこれといった説明もなく、今度はハイネに近づき、ひざまずいて丁寧に尋ねた。


「ざまぁ、と言う所なんでしょうか。閣下」


「俺の副官ながらも時々怖いんだよ、お前。すこしは上官を敬愛する立派な士官になってたらどうよ。まぁ、タイミングだけは一番うまかったぞ。」


「見習う所はちゃんと学んで居ります、閣下。少々お待ちください。マインデイ嬢でもしっかりエスコートしていてください。」


銀色の眼鏡を輝かせながら、エルトマン大佐はダフト中尉の前に歩み寄った。 声を高めたわけでもないのに、大佐の声は静かな港に朗々と響き渡った。


「カイナン・フォン・ハナム中佐以下、フルクドラッヘ号の諸君は聞け。 今この時間をもって、諸君らのすべての階級、爵位、職責を無視し、武装を解除する。これは偉大なる皇帝陛下の代理人として帝国海軍の全権を担っているフリードリヒ·フォン·パズ海軍参謀総長の命令であり、陸軍元帥部所属のライチ・エルトマン大佐の指揮および監督の下で実行する。 はじめろ!」





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