第2話 序曲 (2)
耳元にはもうピアノとバイオリンのアンサンブルの代わりに鋭い耳鳴りが聞こえてくる。
「ハァ··· ハハ··· 私が今何を聞いたのかしら……」
華やかな壁紙の上にかかった色とりどりの油絵がぐるぐる回るように目に映る。
「ちょっと、待ってよ… フリードリヒ……」
震える手でボトルを持ち上げ、グラスを満たした。ワインがはねて一点もなく真っ白だったリネンテーブルクロスの上にバラ色の円が点々と咲き乱れる。
「貴方、今…… 何と…?」
「聞いたとおりだよ、スミレ··· いや、クラウスミレ嬢。 すまないが、貴女との出会いは今日で…」
「やっぱり……」
グラスをいっぱいに満たしたワインを空虚な目で眺めながら、クラウスミレはボトルを力なく落とした。柔らかいカーペットの上を転がるワインボトルは、空っぽだった。
そう、まるで彼女の心のように。
「その噂、本当だったのね。フリードリヒ…」
貴族とはいえ、田舎の小さな領地、パズ出身のフリードリヒ。
彼は優れた武力と非凡な知略、カリスマあふれる指導力に加えて、神に恵まれているのではないかと思われるほどの幸運まで備えた名実共に『麒麟児』だった。
しかし、だったそれだけで、わずか30代で海軍の頂点である参謀総長の座に上り詰めることができると思ったら、それはあまりにも純粋過ぎた考えであろう。
フリードリヒの最大の本領は武術でも知略でも幸運でさえない、他ならぬ政治力であった。
「帝国丞相の次女と会っているということ… うわごとだと思ったのに、本当だったの? その代価が…その参謀総長の座なの?」
否定してほしかった。
しかし、視線を避けることで、フリードリヒは無口に答えた。
「私を騙したの?」
「落ち着け、クラウスミレ。 もう終わった話だ」
「勝手に終わらせないで!」
「声を上げるな。 ここは神聖な帝国軍の将校会館だぞ」
今までどんな瞬間にも、何よりも、クラウスミレを優先してくれたフリードリヒだった。 そんな彼が場所を理由にして黙らせようとするの? 他の何よりも彼のその一言が、冷たい現実を痛切に感じさせてくれる。
クラウスミレは荒れた手つきでグラスをつかみ、一気に飲み干した。
ぴりっとしたアルコールの刺激が喉を走る。
ワイナリーやソムリエが見ていたら、きっと舌を噛んで目をひっくり返すはずの乱暴な飲み方。 最高級ワインの繊細で豊かで甘い香りなどは残酷に踏みにじられたまま、ひたすら暴れ回るメンタルを落ち着かせるためのアルコールだけが必要とされていた。
グラスをまるごと飲み干したクラウスミレが荒い息を吐いた。 その姿からフリードリヒは努めて目をそらした。
「貴女が私のことを本当に愛するなら… いや、愛していたなら、おとなしく下がってくれ。 まさか、富豪とはいえ、地方企業の娘である貴女が今の私に似合うと本気で思っているのではないだろう」
「それを言うなら、あんただって…」
「そう、私も田舎貴族の息子だ。 しかし、私は自分の力でここまで上がって来たんだ。 帝国海軍の頂点にな」
「本当に、それが貴方の力だったなら、ね」
的を射たのだろうか。
クラウスミレの大胆な口答えを聞いて、これまで平静を装おうとしたフリードリヒの目に怒りが宿った。 しかし、彼が怒りの叫び声を上げる直前、誰かがVIPルームのドアをノックした。 おかげでフリードリヒの怒りはとても自然にそのベクターを変えることができた。