第1話 序曲 (1)
耳元を撫でさするピアノとバイオリンのファンタスティックなアンサンブル。
華やかな壁紙の上にかかっているシュペアーの繊細で官能美あふれる油絵。
白くて清潔なリネンテーブルクロス。
皇帝の供御を除けば、帝国でこれほど麗しくて細やかで芸術的なレストランはないだろう。 なんにせよ、帝国軍の幹部だけが出入りできる将校会館の中でも特別に用意されているVIPルームだから。
テーブルの上には緩やかな曲線が美しい燭台の上に細いキャンドルが優雅に輝いていた。
指ほどに細いキャンドルからこんなにも明るくシルクのようにきれいな光を放つなんて、きっと珍しい油を使ったに違いない。 蜜蝋?あり得ない。 牛脂?だったら今頃、 牛油の匂いが酷くて耐えられないだろうね。 きっと噂に聞いていた鯨油でも使ったに違いない。 伝説に伝わる抹香鯨の油なら···…
「ふむ、コホン」
「あら、まあ。 これは失敬」
クラウスミレ·マインデイは教養のある令嬢らしく手で口を覆って照れくさそうに笑った。 すでにぼんやりと唾を流しながらキャンドルを眺めていた段階で、教養の半分ぐらいはキャンドルと共に溶けてしまったようだが… しかし、この素敵なテーブルを挟んで、クラウスミレをじっと見つめるあの男なら、これさえも寛大に見過ごすだろう。
「今日は貴方の悲願の達成を祝う大事な日なのにね。フリードリヒ」
「ああ、これまで貴女が私を支えてくれたおかげだよ、スミレ」
フリードリヒ·フォン·パズはいつものように柔らかいバリトンの美声でクラウスミレの愛称を呼んだ。 ああ、なんてスイートで美しい男なんだろう。
初対面の人から見れば高級官僚かと思うほど整った顔が今日はいつもより輝いている。 線が細く色が薄い、この美丈夫は、しかし実は帝国最高の軍人の一人なのだ。
『私、頂点に立ったらあなたにプロポーズする』と口癖のように言っていたフリードリヒがフォルクスラント (Volksland)の海軍参謀総長の座についたのがまさに今日のことだった。 彼の言葉にいつも『その頃になったら私はおばあさんになっているかもよ』とつんつんと答えたりしたクラウスミレだったが、今日だけは彼の執念と努力、そして輝かしい成就を認めざるを得なかった。
もちろん、フリードリヒがその地位に上がる間に起きた大陸戦争、植民地開拓、海賊討伐など血で書かれた数多くの歴史があったからこそ可能であった超高速進級の結果だったが、だからといって彼の成功の光が色あせるわけではなかった。
フリードリヒは確かに、この時代に輝くフォルクスラントの英雄であった。それを否定しようとする者は、この大帝国が誇る最強の艦隊と勇猛な水兵たちを相手にしなければならないだろう。
「スミレ、私は……コホン」
クラウスミレーに話しかけようとしたフリードリヒは緊張したのかレッドワインで喉を潤した。
「(ああ…なんて可愛い男なんだろう)」
もはや数十万人の水兵と数百隻の艦船を指一本で牛耳ることができる男なのに、相変わらずクラウスミレの前では一人の男性に過ぎないのだ。
あの震える声を見ろ。 あら、声は見えるものじゃなかったね。 とにかく緊張で赤くなったあの顔さえも魅力的だ。
「大丈夫だよ、フリードリヒ。 ゆっくり、うん、 ゆっくり、話してもいいよ」
「スミレ、私は……」
これから何が出るのかしら。
ネックレス?花束? それとも指輪?
ああ、私をあまりにもよく知っているフリードリヒがカール·ゴットリープの『戦争論』を懐から取り出して、その上にあの長く繊細な手を置いて愛の誓約を誓ったら私は死んでしまうかもしれない。死因は幸福死。
そんな妄想をしていて、スミレはフリードリヒの言葉を聞き逃してしまった。
ああ, 一生の失態。
しかし、将来の歴史に残るフリードリヒ・フォン・パズの偉人伝には、これさえも英雄のかわいいエピソードとして記録されるだろうね。 彼と私の人生で唯一無二のプロポーズは……
「え? なんだって?」
「私たち、別れよう。 スミレ」