9、好きな場所
再びラウローリエの家へと遊びに来たイグナルスの前に、ラウローリエが帽子をかぶって現れた。
「イグナルス、ピクニック行きましょう!」
「ピクニック?」
「そう湖の近くまで」
町から少し外れた場所に、湖がある。そこまでピクニックに行こうというラウローリエに、イグナルスは首を傾げた。
「イグナルスは、いや?」
「嫌じゃ、ない。でも、ラウローリエの家の庭も大きいから、わざわざ行く必要あるのかなって」
ラウローリエの家、ジェーミオス公爵家は大きい。建物が豪華なだけではなく、庭も圧倒的な広さを持つ。それこそ、小さな池があるくらいには。
だからこそ、わざわざ外に行きたい必要性が分からない。
そんなイグナルスに、ラウローリエは首を縦に振る。
「あなたの言う通り。わざわざ行く必要はないわ。でも、行きたいから行くの!」
「分かった」
ラウローリエが希望するなら、わざわざ否定する気はない。イグナルスはこくりと頷いた。
◆
ラウローリエの馬車で、その湖まで向かう。イグナルスは馬車の外を見た。ラウローリエは公爵令嬢だ。外に出るということで、護衛がたくさんいてもおかしくないのに、少なく見える。
「ラウローリエ」
「なあに?」
「護衛、少なくない? 君は公爵令嬢なのに。大丈夫?」
イグナルスの質問に、ラウローリエは柔らかく微笑んだ。
「大丈夫よ。少数精鋭だから」
「そうなんだ」
よく考えれば、当然だ。ジェーミオス公爵家は、優秀な人材を雇えるだろう。無知を晒した自分が恥ずかしくなって、イグナルスは下を向いた。
「余計なことを聞いて、ごめんね」
「余計なことではないわよ。心配してくれたのでしょう? ありがとう」
ラウローリエの声は優しく、イグナルスを否定する様子はない。それに安心しながらも、イグナルスはふと疑問に思う。
「でも、僕が君を害そうとするかもしれないから、手の内を明かさないほうがいいんじゃない?」
ちらりとラウローリエの顔を見ながらそう言うと、彼女はきょとんとした後で、クスクス笑い出した。
「大丈夫よ。あなたはそんなことしないもの」
ラウローリエの自信に満ちた言葉。それは、イグナルスの胸中に苦く広がった。
「それは、君の『マンガ』? の中の僕でしょう?」
「違うわ。私は目の前の、イグナルス・アクワーリオ。あなたの話をしているのよ。あなたが、私を害さない。そう言っているの」
きっぱりとそう言われて、イグナルスはその濃い紫色の瞳から視線を外した。
「……僕は、そんな信用されるような人間じゃない」
「信じるか、信じないか。それは私が決めることよ」
ラウローリエの気持ちを動かそうだなんて考えていない。ただ、申し訳なくて。イグナルスは、ラウローリエを見ることなく、口を開いた。
「……そうかも。余計なことを言ってごめん。でも、僕に騙されないでね」
ラウローリエが自分という厄介者に、優しいから。イグナルスと会いたいと言ってくれるから。どうしたらいいのか、分からない。
俯いたイグナルスの耳に、凜としたラウローリエの声が届いた。
「私は、自分の感じたことを信じるから」
今、ラウローリエのことを見ることはできない。見たら、きっと目が潰れてしまう。眩しい。眩しすぎる。
やっぱり白みたいだ。真っ白な雪みたい。思わず逸らしてしまうような。
心の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜられたようで。イグナルスは心を落ち着かせるためにゆっくりと息を吐いた。
◆
「ほら、見て、イグナルス」
「うわあ」
驚きの声が漏れるほど、美しい湖だった。澄んだ水。太陽の光が輝き、きらきらと水面を目立たせている。空の雲や森の木々を反射しているその水は、美しい絵画を閉じ込めたようだった。
「すごい。すごいね、ラウローリエ」
「そうでしょう?」
彼女は自分が褒められたように、嬉しそうに笑った。
「ここが、好きなの」
「ここが?」
「ええ。私の前世の記憶が戻る前から。戻った今も」
そう言ったラウローリエの心からの笑みに、しばらく目を奪われた。
浅く息を吸ったイグナルスは、ラウローリエから目をそらした。
「ラウローリエ。君の大切な場所を、僕なんかに教えてくれてありがとう」
「違うわ。あなた『なんか』じゃない。あなた『だから』教えたの」
イグナルスは胸のあたりを押さえた。
それは、怖い。ラウローリエが、自分を気にかけてくれているのは分かる。分かってしまうからこそ。
ラウローリエの大切な時間を、大切な場所を。
「大切」をイグナルスに使ってほしくない。
「イグナルス、この場所をどう思った?」
自分がどう思ったか。イグナルスはしばらく黙ったあと、口を開いた。
「きれいだと、思うよ」
今一番心を埋め尽くしているのは、ラウローリエに申し訳ないという気持ち。しかし、それを伝えてもラウローリエを困らせてしまうだけだ。
ラウローリエは何を思ったのだろうか。彼女はそれ以上、何も言わなかった。
2人で黙ったまま、しばらく湖を眺め続けた。