8、グラキエス・アクワーリオ
ラウローリエの家から帰ったイグナルスは、ぼんやりと自室の椅子に座っていた。
ラウローリエ。明るくて優しい彼女といると、勘違いしそうになる。自分は必要な人間だと。
『忘れたのか? アクワーリオ候爵家の疫病神はお前だって』
自分の中でうまれる問いかけの声に、イグナルスは苦笑した。覚えているに決まっている。イグナルスを「家族」として扱ってくれるのが、とてつもなく辛い。
コンコンと扉を叩く音で、イグナルスはびくりと肩を揺らした。
「イグナルス? 入るぞ」
「はい」
入ってきたのは、イグナルスの兄ということになっている人物。
グラキエス・アクワーリオ。
アクワーリオ家の長男。
ラピスラズリのような青髪に、淡い薄紫の瞳。美しい容貌をしている。
全体的に涼やかな印象を持つ彼は、端正な顔に表情を浮かべないまま、じっとイグナルスを見つめた。
「イグナルス」
「はい」
「ジェーミオス家のお孃さんと仲良くなったんだろう?」
「……」
仲良くなったと言っていいのだろうか。イグナルスが勝手に親しいと判断していいのだろうか。仲良くなる、とはどこからだろうか。
イグナルスがぐるぐると考えていると、グラキエスが鋭い目つきで、荒々しく笑った。
「その子に虐められたら、俺に言うんだ。ぶっ飛ばすから」
「ラウローリエは、そんなことしないです」
グラキエスが勘違いしたら困る。そう思ったイグナルスがすぐに否定をすると、グラキエスは片眉をあげた。
「ラウローリエ? 名前で呼んでんのか?」
「はい」
イグナルスの肯定に、グラキエスは表情を険しくする。何か気に障ることを言っただろうか。自分の言葉を脳内で繰り返すが、何が彼を苛つかせたか、思い当たることはない。
「ずるい」
「え……」
一瞬、何を言われたか分からなかった。グラキエスの不満を隠さない顔を見て、なんとなく分かった。
きっと彼は、ラウローリエと仲良くなりたいのだ。かわいくて明るいラウローリエのことを、噂で聞いたのだろう。
そうだとしたら、イグナルスができるのは、仲を取り持つことだ。
「ラウローリエを紹介しましょうか?」
「は?」
ぽかんとしたグラキエスは、その美しい顔を歪めた。ぐしゃりと青色の髪をかきあげる。
「違えよ。なんでそうなるんだ」
「え……。違いますか?」
「その敬語もやめろ。前から言ってるだろ」
何回か言われたことがある。それでも、「本当の兄」ではないはずのグラキエスに馴れ馴れしくするのは駄目な気がして。
イグナルスは黙り込んだ。視線を下に向けたイグナルスの顔を、グラキエスが覗き込む。
「イグナルス。俺のことを名前でも、お兄様でも、兄貴でもいいから呼べよ」
「……」
「俺にはお前が何を考えてんのか、分かんねえ」
「……ごめんなさい」
グラキエスを不快にさせてしまったことを謝ると、彼は一層苛立たしそうに、目を逸らした。
少しの沈黙のあと、こちらを向いたグラキエスがイグナルスへと手を伸ばす。
イグナルスが身をすくめると、頭に手を置かれた。普段は乱雑な動作のグラキエスだが、イグナルスの金の髪に触れた手は優しい。
「困ったことがあれば言え。俺がなんとかしてやる」
「……」
礼を言えば、それを受け入れたことになるような気がした。だから黙っていた。
そんなイグナルスを見たグラキエスは、少し口角を上げて部屋から出て行った。
「……ごめんなさい」
イグナルスは小さく呟く。出て行く前のグラキエスの薄紫の瞳に宿る色は、悲しげだった。
グラキエスは知っているはずだ。イグナルスが本当はアクワーリオ家の人間ではないことを。それなのに。なぜ。なぜ、こんなに優しくしてくれるのか。
「僕が、本当の弟だったら……」
仮にそうだったら。イグナルスはあの優しい兄に、微笑みかける権利があるのに。優しさに、縋ることができるかもしれないのに。
それでも、自分は駄目だ。偽物の弟の自分なんかが。あの格好いい人を兄と呼ぶことも、名を軽率に呼ぶこともだめだ。
それでも。先ほど、「グラキエスお兄様」と呼びそうになってしまった。もし、言ったら。もう戻れなくなってしまう。その優しさに、温かさに、浸かっていたくなってしまう。
「……ごめんなさい」
また小さく呟いたイグナルスは、深く息を吐いた。