6、きみは、幸せ?
気がつけば彼女の家にお邪魔する日になり、イグナルスは緊張しながらもジェーミオス公爵家へと向かった。
ラウローリエとの話題を探しているときに、気になっていた彼女の噂があったことを思い出したイグナルスはそのことを口にした。
「ああ。その噂ね。確かにラウローリエ・ジェーミオスは大人しいという噂だったわね」
そのラウローリエの反応は、あまりにあっさりしたものだった。不快に思っている様子も、不満に思っている様子もない。
「でも、君はその……あまり大人しくないよね?」
「そうねー」
イグナルスは言葉を上手く選べず、直球にきいた。しかし、ラウローリエは気分を害した様子はなく、ころころと笑っている。
「家から出ていなかったから大人しいという印象がついただけで、別に私のことを知っている人が流した噂ではないと思うわ」
「ぜんせの記憶が戻る前の君は?」
「私は私よ。その性質は変わらないわ」
「そういうもの?」
「ええ」
その辺りの感覚はよくわからない。それでも、ラウローリエがそう言うのなら、きっとそうなのだろう。イグナルスは何の疑いも持たず、ラウローリエの言葉を受け入れた。
「それでなんで呼び出したの?」
「え? 一緒に遊べないかなあって思って」
「君がそれを望むのならいいけれど、何をして?」
イグナルスは誰かと遊ぶ、ということをした記憶はない。だから遊ぶと言われても、何をするのが良いか分からない。
「イグナルスは何が好きなの?」
「……特に何も」
ラウローリエが首をかしげた。イグナルスは彼女から目を逸し、目の前にならべてあるお菓子に視線を向ける。
ラウローリエに友達ができたことを喜んだラウローリエの両親が準備の手配をしてくれたらしい。申し訳なく思いながら、イグナルスは手をつけることができない。
「食べないの?」
「……」
ラウローリエからの問いかけにイグナルスは答えなかった。
唐突にラウローリエが苺をイグナルスの口に押し込んできた。
「ちょ」
「これ食べて」
有無を言わせないラウローリエに、イグナルスは目を白黒させながらも素直に従う。口に入れられた苺を味わう。苺に含まれる水の感覚が口の中に広がった。
「苺は好き?」
「分からない、けど」
自分に食べられる苺はかわいそうだと思う。それを口にはしなかったイグナルスだが、ラウローリエは困ったような笑みを浮かべた。
「これは?」
「自分で食べるから」
別のものを押し付けてこようとしたラウローリエをイグナルスは制した。あまり食べるのは申し訳ないが、何も食べなくても失礼だろうし、ラウローリエがまた押し付けてきそうだ。
イグナルスは近くにあったチョコレートを口にした。口に入れたらすぐに溶けてしまう感覚に、瞬きをした。その感覚が惜しくて、もう1個口にした。
「おいしい?」
ラウローリエに問われて、イグナルスは考える。この感覚をなんと表すか分からない。もしかしたらこれが。
「おい、しい」
イグナルスが戸惑いながらも言葉にすると、ラウローリエが満面の笑みを浮かべた。
「きっと、イグナルスはチョコレートが好きなのよ」
「……僕は、苺の方が好きかも」
「そうなの?」
ラウローリエがイグナルスを気遣って、渡してくれた。その事実が、嬉しかった。口元を緩めたイグナルスに、ラウローリエが笑みを浮かべる。
『忘れるな。お前が不幸をまき散らすということを』
自分の声が脳裏によぎる。その声の主は幼い頃の自分だ。誰も傷つけたくなかった。誰も不幸にしたくなかった。誰も苦しめたくなかった。
それでもイグナルスのせいで、アクワーリオ侯爵家は間違いなく歪みが生じた。だからこそ、イグナルスは自戒している。
イグナルス・アクワーリオは不幸の根源だ。これ以上、人と関わってはいけない。
それでも少しだけ。少しだけなら、いいだろうか。
今この瞬間だけでも、幸せを享受してもいいだろうか。
そこまで考えたイグナルスは、息を呑んだ。自分がそう考えたことに絶望した。
そんなこと、あっていいわけがない。この目の前の、優しくて、きらきらしている少女を傷つけていいわけがないのだ。
どうしたら彼女を傷つけることなく、不幸から遠ざけられるのだろうか。
「イグナルス?」
黙り込んでいるイグナルスをラウローリエが不思議そうに見つめる。イグナルスは口を開こうとしたが、言葉を選ぶことができない。イグナルスの口から言葉は出てこなかった。
「急がなくていいわ。時間はたくさんあるのだから。あなたが何を考えているのか、ゆっくり教えて」
ラウローリエの落ち着いた声が、イグナルスの心に染みこむように広がった。イグナルスは深呼吸をする。
「きみは、幸せ?」
「え?」
ラウローリエはイグナルスの問いに首をかしげた。イグナルスが紫の瞳を見つめ続けているとラウローリエが戸惑いながらも口を開く。
「幸せかどうか? 難しい質問ね。それでもこの世界で生きるのが嫌、とはまだ感じていないから不幸じゃないと思うわ」
「不幸は、この世が嫌になることなの?」
「だって、この世に絶望しながら生き続けるなんて、苦しいだけでしょう?」
この世に絶望しながら生きる。それはどんな風だろうか。よく分からない。イグナルスが考え込むと、ラウローリエも考える素振りを見せながら口を開いた。
「それでも、今の状況を不幸だと思っていないことが、そんなに悪い状況ではないということなのかも。でも、よく分からないわね。幸せも、不幸も。そもそも、定義づけられるのかしら」
もっと分からなくなる。不幸、と思っていないときは不幸じゃないのか。それでは、不幸なときは、自分は不幸だと強く感じるということだろうか。
ぐるぐると思考を動かしていると、ラウローリエがイグナルスの顔を覗き込んだ。
「イグナルスは、私に不幸になってほしくないの?」
「うん」
「イグナルス、あなたは不幸なの?」
「分からない、けど。違う気がする」
ラウローリエの言っていた不幸、には当てはまらない気がする。イグナルスはこの世に絶望はしていないし、不幸だという認識もない。
「イグナルスは、不幸ってどんな状況だと思う?」
「ぼく、は」
「うん」
ラウローリエの優しい視線に促され、イグナルスは口を開いた。
「本当なら崩れていなかった平和が、崩れる状態、とか」
「例えば?」
「……喧嘩、とか不幸だと思わない?」
ラウローリエはなにか言いたげであるが、黙り込んでしまった。ラウローリエは何かを遠慮しているのか、イグナルスが傷ついたり怒ったりすると思っているのだろう。それは申し訳ない。
「僕は気にしないから、君の考えていることが知りたい」
ラウローリエは少し考えたあとで恐る恐る、という様子で口を開いた。
「私は全ての喧嘩が不幸、とは思わないわ」
「なんで?」
ラウローリエの紫の瞳を見つめる。彼女はイグナルスを見ておらず、考え込むように目を伏せた。
「それは、喧嘩はしないにこしたことはないけれど。喧嘩の内容にもよると思うわ。意見が食い違ったとき、ちゃんと対話をしようとしている、ということだもの」
「対話?」
「ええ。対話をしたら、理解をする意思はあるのかなって思うもの。対話すらできなければ、知ることもできないわ。まあ、状況によるだろうけど」
喧嘩は、対話のこともある、とラウローリエは言う。それでは、侯爵と侯爵夫人のも、対話だったのだろうか。




