33、水面下の話なのだから
次の日。イグナルスは自身に突き刺さる視線に困っていた。王太子、ヴェルスがじいっとこちらを見てきている。
それは、朝から放課後までその視線を感じていた。イグナルスは困りながらも、どうしたら良いか分からない。
休み時間にイグナルスのところに来ていたアデルバートもそれに気がついたようで、一瞬だけヴェルスの方を見てから、イグナルスに囁いた。
「今日、声をかけてくるかもね」
「僕もそう思うよ」
ヴェルスの昨日の雰囲気だと、アデルバートの言う通り、今日も声をかけてくるだろう。それは昨日から気づいていたし、自分の中で覚悟もしてきた。
「大丈夫?」
「うん。ありがとう。なんとかしてみる」
「そう?」
アデルバートは心配してくれているようだから、やはりイグナルスは頼りないのだろう。アデルバートに微笑みかけると、彼の表情は晴れなかったが頷いてくれた。
◆
授業が終わった頃、目の前に人が立った気配がした。イグナルスはゆっくりと顔を上げる。
そこに立っていたのは、髪にも瞳にも目映い金を持つ男。ヴェルス・アルバント。彼はやはりイグナルスに用があるらしい。
「イグナルス・アクワーリオ。今日は空いているだろう?」
「……」
「二度も断るなどしないよな?」
高圧的に、強い口調で問われたイグナルスはに選択肢なんて与えられていないも同然だ。
「……はい」
イグナルスは頷くしかない。どっちにしろ、向き合わなくてはいけない問題だったし、今日は了承するつもりだったから構わないのだが。
「ついてこい」
イグナルスの返事に当然のように頷いたヴェルスは、それだけを言い放つとさっさと歩き出した。イグナルスは彼を見失わないように、慌てて追いかけた。
◆
「お前のどこが良いんだ?」
空いている教室へと連れてこられ、開口一番にそんなことを言われた。王太子、ヴェルスと教室には二人っきり。学校内とはいえども、護衛はついているはずだ。そんな護衛に席を外させてまでして話したいことが、それか。
イグナルスは表情を変えないようにしながら返事をする。
「どういうことでしょう?」
「ラウローリエはなぜ俺よりお前を選んだのかってことだ」
「……もう一度聞きます。どういうことですか?」
イグナルスが問いかけると、ヴェルスは不快そうに眉を顰めた。何度も聞かれて苛ついているのだろう。
「アクワーリオの人間にしては、察しが悪いじゃないか」
アクワーリオ侯爵家。『この国の頭脳だ』とグラキエスも言っていた。それなのにイグナルスが聞き返していることを馬鹿にしているのだろう。
イグナルスは王太子と敵対するという意図はない。しかし、アクワーリオ侯爵家の人間として、舐められるわけにはいかない。イグナルスはグラキエスを思い出しながら、笑みを作った。彼みたいに、堂々と見える表情はできているだろうか。
「王太子殿下。殿下とラウローリエの婚約の話はなかったですよね? それなのに、私の婚約者のことを気にするとはどういうことですか?」
イグナルスは2人の婚約の話が水面下にあったことを知っている。しかし、「水面下」だ。本来、表にはなっていけない話。
それが僅かではあるが噂になっていた。アデルバートの耳に入るほど。それをどう考えるか、というと、関係者が漏らしたということだ。
本来なら表に出てはいけない話。それは、話として不成立になったあとも、表に出してはいけないはずなのだ。少なくとも関係者は。
だから、当事者であるヴェルスは私的な場以外で「あった」と明言することは許されるはずがない。昨日、ラウローリエは口にしていたが、それは私的な場であったから。ここは人目のある学校。誰が盗聴をしているかも分からないのだ。
あったことを仄めかすのもやめておくべきだろう。ましてや、そのラウローリエの婚約者に言うなどと、もってのほか。仮にイグナルスがその話を知らなかった場合、関係がこじれることは簡単に予想できる。
それを認識させるためにイグナルスは尋ねたのだ。それを理解したのか、ヴェルスは少し顔を引きつらせた。
「お前、生意気だな」
「そうですか? 申し訳ありません」
生意気な態度を取るつもりはなかったが、そう見えたのなら申し訳ない。イグナルスが素直に謝ると、ヴェルスは眉間にしわを寄せた。余計に不快にさせてしまったらしい。
そこでヴェルスからの質問に答えていなかったことを思い出し、イグナルスは口を開いた。
「なぜラウローリエが私と婚約をしたのか、でしたか? 私が何か王太子殿下に勝るところがあるとは思っていません。私は平凡な人間なので」
「それじゃあ、なぜラウローリエはお前を選んだ?」
「……それは私が勝手に申し上げられる話ではないかと。誰が聞いているか分からない場所なので」
利害関係はもちろん、個人的な感情も含まれている話だ。それこそ、この場で言うことはできない。
イグナルスがそう言うと、ヴェルスはしばらく黙っていた。彼はぽつりと言葉を零す。
「お前もどうせ俺のことを馬鹿にしているんだろう?」
「……え?」
そのヴェルスの目がどことなく陰りを帯びて見えたせいで、イグナルスは瞬きをした。ヴェルスは表情を変えず、はっと短く息を吐いた。
「まあ、いい」
そう言って、彼は部屋から出て行ってしまった。残されたイグナルスは首を傾げることしかできない。
王太子は、結局のところ何がしたかったのだろうか。その疑問は消えなかった。




