29、物語とは違い
数日後。ラウローリエから時間をとれないかと聞かれたため、イグナルスは二つ返事で了承した。
学校に入学する準備で忙しいはずなのに、何の用事だろうか。何か問題が起こったわけではないと良いが。そう考えながら、イグナルスはラウローリエの家へと向かった。
「こんにちは、イグナルス」
「ラウローリエ。こんにちは」
ラウローリエの様子を見るが、彼女に異変はない。何か問題があったわけではないことに胸を撫下ろす。
「どうしたの、ラウローリエ」
「ちょっと、話しておきたいことがあって」
イグナルスは小首を傾げる。しかし、ラウローリエはこの場で伝える気はないらしく、彼女は美しく微笑んだ。それにぼんやりと見惚れる。
ラウローリエとの関係が何か決定的に変わったわけではない。それでも、イグナルスはラウローリエを前にしていると妙に気恥ずかしい感覚を抱くこともある。
彼女のことをずーっと見ていたい。それなのに、彼女に見られていると、どこか照れくさくて、目を見ていられなくなる。
「イグナルス?」
不思議そうに顔を覗き込んできたラウローリエに、イグナルスは僅かに息を呑んだ。その濃い紫色の瞳に吸い込まれる気がして、すぐに目を逸らした。
「何でもないよ。行こうか」
◆
目を伏せるラウローリエの正面に座りながら、イグナルスはようやく彼女の顔を見ることができた。どこか緊張しているようにも見える。
「それで話って?」
イグナルスがラウローリエを促すと、彼女は困ったように笑った。しばらく黙っていたラウローリエだったが、やがて決意したのか口を開いた。
「イグナルス。あなたに、私が前世で読んだ漫画の話をしたいと思って」
◆
この漫画の主人公は、とある女性だ。彼女は孤児院で育ったという。しかし、その中で治癒の魔法の才に目覚めた。
そうして、彼女は「聖女」ではないかと注目されることになる。
聖女。それは、希少な存在だ。治癒の魔法は、まるで奇跡の力。普通なら治癒に数日かかる怪我を、一瞬で治癒できるのだから。
しかし、聖女と認められるまでには、まだ足りない。「浄化」の魔法を使えることも必要だからだ。
浄化の魔法。それは魔物の発生源すらも浄化し、これ以上の魔物を増やさないために必要となる。魔物の発生源である「魔の地」は突然発生する。そんな地を浄化するのに、浄化魔法が必要となる。
治癒の魔法。浄化の魔法。この2つを使えるようになると、「聖女」と言えるのだ。
彼女はまだ浄化の魔法を使えていない。しかし、勉強をすれば使えるようになる可能性もある。
そのような理由で、彼女は「聖女候補」として学校に通うことになった。
学校は学費が高いため、貴族が中心となっている。しかし、学費さえ払えれば学校に通うことはでき、裕福な商家の人間などは通っている。
それでも孤児院出身の彼女は、考え方が合わずに浮いてしまう。そんな中、出会ったのは第1王子だった。
そして彼女は、第1王子との恋模様も描かれながら、人間として能力や精神面で成長していくというのが大まかな流れだ。
◆
ラウローリエの説明を聞いたイグナルスは、しばらくは自分の中で整理した。時間が経ったあと、イグナルスは小首を傾げる。
「……ん? 僕が死ぬ話をするのかと思った」
ラウローリエと初めて会ったとき、彼女に「10年後に死ぬ」と言われていた。それについて説明をしてくれるのかと思ったが、違ったらしい。
「その前に、物語の話をしておいた方が良いかと思って」
「そうだね。ありがとう」
イグナルスとしても「マンガ」の話の雰囲気を知ることができてありがたい。礼を言うと、彼女は困ったように目を伏せた。
「最近、前世の記憶が薄れている気がするの」
「え?」
「だから、イグナルスにも知っていてほしくて。私が、全てを忘れたとしても」
そのラウローリエは、悲しげだった。前世を忘れることへの苦しみが滲み出ているようで、イグナルスも悲しくなってきた。
ラウローリエの前世について、もっと聞いてみたくなった。
「前世の君は? どんな生活を送っていたの?」
ラウローリエはそんなことを聞かれるとは思っていなかったのか、ぱちりと瞬きをした。目を伏せたラウローリエの濃紫色の瞳に、僅かながら影が入った。
「平穏な生活だったわ。魔法も、貴族もない世界。学校に通って、働いて。小説とか漫画をたくさん読みながら、生きていたの」
その彼女の目は、とても優しくて、愛おしそうだ。思わず、イグナルスは尋ねていた。
「戻りたいの?」
聞いてから、しまったと思った。だって、そんなことは不可能なのに。それに、仮にラウローリエが「戻りたい」と言ったとして、イグナルスはどうしたら良いのか。
きょとんとしたラウローリエはゆるゆると首を振った。
「いいえ。懐かしくは思うけれど、この世界も気に入っているから」
その返答に、イグナルスは安堵の息を吐いた。ラウローリエがこの世界を嫌っていなくてよかった。イグナルスと婚約している現状から逃れたいと思っていなくて良かった。
「それで、結局なんで僕は死ぬの?」
イグナルスが聞くと、ラウローリエは目を伏せた。その表情はいつもより暗い。
「それがね、思い出したときから記憶が曖昧だったの。だから、その聖女を庇ったことが原因、としか分からない。ごめんなさい」
「そっか」
分からないものは仕方がない。どちらにせよ、人間はいつ死ぬか分からないのだから、焦るような話でもないだろう。
イグナルスはそう思ったが、ラウローリエは決意を秘めた瞳でこちらを見つめる。
「でも、絶対に死なせないわ。私と、一緒に生きてくれるんでしょう?」
そのラウローリエの頼もしい言葉に、イグナルスは頬を緩めた。
「うん。君と一緒に生きていきたい」




