27、10年後への宣言
アクワーリオ侯爵から話を聞いた侯爵夫人は、イグナルスのことをぎゅっと抱きしめて撫でてくれた。
されるがままになりながらも、イグナルスは呟いた。
「ごめんなさい」
イグナルスが謝ると、侯爵夫人はイグナルスの顔を覗き込んだ。彼女は、困ったような笑みを浮かべていた。
「イグナルス。あなたが私達を親と思わなくてもいいけれど、私達にとってあなたは私達の子どもよ」
その言葉に、イグナルスは首を傾げた。確かにイグナルスの両親は違うようだが。それでも、イグナルスを育ててくれたのは、アクワーリオ侯爵夫妻だ。
「僕は、アクワーリオ侯爵夫妻が、本当の両親だったら良いのにって思ってました」
虚をつかれたように目を見開いたアクワーリオ侯爵夫人が、イグナルスの頭をまた撫でた。彼女の表情を見ることはできない。
それでも、とても暖かくて。イグナルスは泣きそうになりながらも笑った。
◆
「ごめんなさい」
イグナルスはプリムローズにも謝罪をした。プリムローズは、しばらくはきょとんとしたように大きい緑の瞳でイグナルスを見つめていた。彼女はこてんと首を傾げた。
「おにーさま、どこにもいかない?」
「はい」
自分はこの家にいても良い存在なのだ。それを知ったイグナルスは、頷いた。
しかし、プリムローズは訝しんでいるようだ。緑の瞳をイグナルスから外さない。
「ほんとーに?」
「はい」
再び頷いたイグナルスを、プリムローズはまだ見つめ続けていた。イグナルスは戸惑いながらも、彼女を見つめ続ける。
プリムローズがにこりと笑った。彼女の中で、イグナルスの言葉を本当だと判断してくれたのだろうか。
プリムローズは、イグナルスに向かって手を伸ばした。
「ぎゅーって、して!」
イグナルスが触ると、壊れてしまわないだろうか。迷いながらも手を広げたイグナルスに、プリムローズが飛びつくように抱きついてきた。
慌ててイグナルスは受け止める。
プリムローズは、輝くような笑みを向けてきた。それにつられるように、イグナルスも笑った。心がふわりと軽くなった。
◆
その後。ジェーミオス公爵から許可をもらい……。というよりは、ラウローリエやジェーミオス公爵が知った以上、許可を出さざるを得なくなったというのが正しいだ。
イグナルスは無事にラウローリエと婚約をすることとなった。
婚約が決まり、それが公表までされた後。イグナルスは自分からアデルバートに手紙を書いた。ラウローリエ以外の人に送るのは初めてだから、ずっと緊張していた。手紙を書いたときから、送った後も、返事が届くまで。普段の生活を送っているはずなのに、心のどこかに手紙のことが張り付いてしまったように気がかりだった。
もちろんアデルバートがそれを無下にすることはなく。すぐにイグナルスはアデルバートと会うことができた。
アデルバートと2人で会うのも初めてだが。緊張をあまりせず、イグナルスの中から言葉はするすると出てくる。心の重りがどこかにいったようだ。
イグナルスは、アデルバートに向かって頭を下げた。
「アデル、ありがとう」
アデルバートが教えてくれなければ、イグナルスはラウローリエに水面下で婚約の話ができていることを知り得なかった。そのまま、ラウローリエが王太子と婚約をするところを黙って見ることしかできなかっただろう。
イグナルスが頭を上げると、アデルバートが穏やかな笑みを浮かべていた。
「余計なことを言ったか不安だったけど、良かった。おめでとう、イグナルス」
「ありがとう」
彼の銀色の瞳が優しく細められた。彼が何を考えているか分からず、そのアデルバートの美しい顔を見ながら、イグナルスは首を傾げた。
「なんか、良い表情になったね」
「そう、かな?」
「うん。それに、目も合うようになったし」
「そうかも」
アデルバートの銀の美麗な瞳を、あまりちゃんと見ることができていなかった。それは、イグナルスが人の目を見ていなかった紛れもない証拠。
今まで、惜しいことをしていた。
ふと疑問に思ったことを、イグナルスは尋ねた。
「アデルは、なんで僕に教えてくれたの?」
「君が、ラウローリエ様のことを好きだと思ったから」
すき。その言葉が「好き」を示していることに気がつくまで、少し時間がかかった。
「あれ? 違うの?」
「そっか。僕はラウローリエが好きなのか」
ラウローリエの日々を捨てたくない。王太子と婚約をしてほしくない。自分と、婚約してほしい。
そもそも、グラキエスが提示してくれた案はもう1つあった。その中でも、イグナルスは「自分がラウローリエと婚約する」方を選んだ。
それも全部、言葉にしてしまえば単純なことだったのだ。
「うん。僕は、ラウローリエが好きだよ。教えてくれて、ありがとう、アデル」
「うん」
自分のことのように嬉しそうに微笑む美形の友人を見ながら、イグナルスも笑った。
◆
イグナルスとラウローリエは、ラウローリエが気に入っている湖の近くに並んで座っていた。その水面が、太陽の光の変化とともに揺れ動くのをじっと見つめていると、ラウローリエの声がした。
「イグナルス」
「なあに? ラウローリエ」
名を呼ばれ、湖からラウローリエへと視線を移す。風とともにピンクブラウンの髪はふわりと揺れ、彼女の表情がよく見えるようになった。
「出会ったときのこと、覚えてる?」
「もちろん」
『あなたに、生きたいと言わせてみせる! そして、10年後にあなたを死なせない!』
彼女の言葉も。そのときの決意を秘めた表情も。忘れたことなどない。
イグナルスを見つめるラウローリエの濃紫の瞳は、吸い込まれそうな色をしていた。彼女が口角を上げる。それは、まるで挑戦的だ。
「改めてあなたに宣言するわ。10年後、あなたを死なせない。絶対に」
ラウローリエは、イグナルスに生きてほしがっている。それが真っ直ぐに伝わってきて、イグナルスは口元を緩めた。
「ラウローリエが望むのなら、僕も頑張るよ」
さあーっと吹いた風で、ラウローリエの髪がふわりと揺れ動く。その隙間から見える彼女の驚いた顔を見ながら、イグナルスは穏やかに笑んだ。
第1章、終
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