25、愛されていた
「イグナルス」
「はい」
改まったように真剣な声色で名を呼ばれ、イグナルスは姿勢を正してアクワーリオ侯爵の方を向いた。
彼の口の動きが妙にゆっくりに感じた。
「君は、私の姉の子であり、先王陛下の子だ」
その言葉は、イグナルスの思考を止めた。
すぐに言葉が馴染まず、脳に上手く入り込まない。イグナルスは呆然としたまま黙り込む。
隣のラウローリエが息を呑んだ。思考が止まったまま、そちらを見る。彼女は口元に手をあてていた。
「先王陛下に、子どもがいらっしゃったんですか?」
「ああ。もっとも、姉が妊娠中に先王陛下が亡くなったことで、公表はしていない」
先王の子ども。アクワーリオ侯爵の姉の子ども。それは、つまりどういうことなのだろう。このことを知って、何が変わるのだろう。
アクワーリオ侯爵がイグナルスを見ている。何かを、言わないと。イグナルスは無理やり口を動かした。
「えっと。その。侯爵様のお姉様が、僕の母ということ、ですよね?」
「ああ」
混乱したイグナルスは、アクワーリオ侯爵に言われたことを聞き返すことしかできない。アクワーリオ侯爵は嫌な顔をせずに頷いた。
「先王陛下が亡くなって。姉のもとには暗殺者が送られるようになったらしい。それでお腹の中にいる君を連れて、姿をくらました」
「暗殺者……? 誰から、ですか?」
反射的にイグナルスが尋ねると、アクワーリオ侯爵は苦しげに首を振った。
「それは分からない。しかし、先王の弟――現在の国王陛下か。あるいは先王の弟であった彼を王にしたかった人間か」
少なくとも、現王側の人間。そう考えられるから、アクワーリオ侯爵家は現王派と距離を置いているということだろう。
「それでは、侯爵様のお姉様は、どうなさったのですか? 僕が、邪魔だったんですか?」
急に、母と呼ぶことはできなかった。実感なんてない。
自分は、捨てられてアクワーリオ侯爵家に押し付けられたのか。
そんな意図を含んだイグナルスの質問に、アクワーリオ侯爵が慌てた顔をした。
「違う。違うんだ。君の実母、ウィスタリア姉上は君を大切にしていたよ」
「……それなら、なんで」
なぜ、イグナルスはアクワーリオ侯爵家にいるのだろうか。その疑問を口にする前に、表情を暗くしたアクワーリオ侯爵がゆっくりと話をする。
「田舎で君を育てているうちに、姉上に病気が見つかったんだ」
「病気……?」
頭を殴られたかのように、思考が真っ白になる。病気、という言葉。そしてアクワーリオ侯爵の暗い表情。
なんとなく、分かる。
「もう、いないのですか?」
「……ああ。彼女が亡くなる直前、私に連絡が来た」
少しずつ、思考が回るようになってきた。
暗殺者が排除したかったのは、アクワーリオ侯爵の姉だろうか。おそらく、違う。王位継承権を持つと予想できるイグナルスだ。
イグナルスを守るために、彼女は田舎に逃げた。そして、病気になってしまった。
都会にいれば、医者は間に合ったのではないか。
「僕が、いたから。侯爵様のお姉様は、田舎に行かなくちゃいけなくなって。そして、田舎にはお医者様があまりいないから、亡くなってしまったんですか……?」
呆然とするしかない。全部、自分のせいじゃないか。
背筋が凍るような感覚。どくどくと心臓の音がうるさい。
やっぱり、自分のせいで。
「違うよ。イグナルス。君のせいじゃない」
アクワーリオ侯爵の柔らかい声で顔をあげた。イグナルスのことを責める色はどこにもない。
「でも……」
イグナルスが口ごもると、アクワーリオ侯爵は優しげに目を細めた。
「姉上は、君を愛していたんだ。だから、君の将来を心配していたし、君がいたから予定よりも長く生きていた」
「……」
「君は、望まれていたよ。君のせいなんかじゃ、ないんだ」
すぐに気持ちは整理できない。それでも、アクワーリオ侯爵の表情にも、言葉にも嘘は全く見えなかった。むしろ、イグナルスを心配していた。
自分のせいじゃない。信じて、いいだろうか。信じたい。嘘であってほしくない。
アクワーリオ侯爵の声がしっとりとイグナルスの中に入ってくる。
「それでも、君は私達の子だ。アクワーリオ侯爵家の次男だ。それは変わらない。私も、レインリリーも君を愛しているし、我が子だと、思っているから」
アクワーリオ侯爵の言葉に、ぽろぽろと涙が零れだし、慌てて目元を拭った。それでも、すぐには止まらない。
大切に、してもらえていたんだ。愛されていたんだ。
近くに立つグラキエスから、優しく頭を撫でられる。
「イグナルス。お前が、叔母上の子どもだとかは関係ない。お前は、俺の弟なんだ。血のつながりだとかはどうでも良い。なかったとしても、変わらない事実だ」
グラキエスにしては穏やかな口調だ。その言葉に、心まで優しく撫でられた気がした。
横に座っているラウローリエからも空いている手を握られる。その手の温かさで、心まで温かくなってきて。
イグナルスの涙は止まることがなく、さらに泣き続けた。




