23、アクワーリオ侯爵家にて
覚悟を決めたイグナルスは、大きく息を吸った。そんなイグナルスをラウローリエが心配げに見ている。
ラウローリエは少し考え込んだあとに、恐る恐るといった様子で口を開いた。
「イグナルス。私もついて行っていい?」
イグナルスはぱちりと瞬きをした。ラウローリエから言われるとは思わなかった。彼女が迷い気味であったのは、急な訪問が非常識であると認識しているからだろう。
イグナルスは迷うことなく頷いた。
「うん。君も、無関係じゃないから」
イグナルスからラウローリエに婚約を申し込んだわけだが。よく考えれば元から自分が原因で断られる可能性が高かったのだ。それなのに、ラウローリエに申し込んでしまった。
あまりにも衝動的に動いてしまった。だからこそ、断られる原因をラウローリエは知る権利がある。
「いいの?」
「うん。行こう」
ラウローリエは心配げな表情をしたままだったが、イグナルスは笑いかけた。
◆
アクワーリオ侯爵家。ラウローリエのジェーミオス公爵家と比べるとそこまで大きくない家だが、それでも近隣と比べると大きい。
ラウローリエが来るのは初めてなはずだ。彼女は物珍しげに周囲を見渡している。
イグナルスは、アクワーリオ侯爵の側近を見つけて声をかけた。
「アクワーリオ侯爵家に、今すぐお目にかかりたいと伝えてください」
アクワーリオ侯爵の側近、ノウスは、普段あまり表情が動かない。しかし、今回は目を見開いて、感情を隠しきれていなかった。
イグナルスが話しかけたのは初めてであり、しかもアクワーリオ侯爵のところに自分から行くのも初めてだ。驚くのは仕方がないだろう。
「えっと。はい。あの、そちらの令嬢は?」
やはり戸惑いを隠せない彼に、ラウローリエが非の付け所のない完璧な礼をした。
「お初にお目にかかります。ラウローリエ・ジェーミオスと申します。急な訪問失礼いたします」
「アクワーリオ侯爵の側近、ノウス・オールナと申します。フィリギドゥス様――アクワーリオ侯爵様に確認を取ります。少々お待ちください」
ノウスが去ったあと、ラウローリエが困った顔で笑った。
「やはり困らせてしまったかしら?」
「……今からの方が困らせると思うから、大丈夫」
自分で言っておきながら、イグナルスは首を傾げる。何も大丈夫ではない。それでも、妙に心が軽い。今日で全てが変わるかもしれないというのに、迷いはどこかにいってしまった。
「ラウローリエ。君と出会えて良かったよ」
「え……? まるで、最後みたいな……」
ラウローリエが何かを言いかけたところでノウスが帰ってきた。想定よりも大分早い。
「今から来て構わないとのことです」
「分かりました。ありがとうございます」
礼を言ったイグナルスは、ラウローリエに微笑みかけた。
「行こう」
「……ええ」
ラウローリエが釈然としない表情のまま頷いた。
◆
部屋にいたのは、アクワーリオ侯爵だけではなかった。アクワーリオ侯爵家の長男、グラキエス・アクワーリオもいる。
「イグナルス。俺もいていいだろう?」
「はい」
断言的な口調。イグナルスに断られるなどと思っていなさそうな余裕の笑みを浮かべているグラキエスを見て、イグナルスは頷いた。
イグナルスの背中を押したのは、グラキエスだ。彼に見届けてもらうことに、何の不満もない。
隣のラウローリエが少し眉をひそめた気がしたが、きっと見間違いだ。
「それで、どうしたんだ? イグナルス」
アクワーリオ侯爵の目は、いつも通り優しい。自分が緊張をしていないことに驚きながら、イグナルスは口を開く。
「聞きたいことが、あります」
「聞きたいこと……? なんだ?」
僅かに目を見開いたアクワーリオ侯爵を見ながら、イグナルスは日常会話を切り出すように淡々と問いかけた。
「僕は、何者なんですか?」
元々部屋は静かな空間だったのに、さらに静寂が広がったかのような感覚。イグナルスも音を立ててしまわないように、身じろぎをせず、アクワーリオ侯爵を見つめ続ける。
呆然としたような顔をしていたアクワーリオ侯爵が呟いた。
「あ、そっちか……。てっきり婚約の話かと……」
アクワーリオ侯爵の呟きをしっかりと聞き取ったイグナルスは核心にふれることを迷わなかった。
「それも、あります。ラウローリエと婚約したいです。でも、僕はできないですよね? だって、僕は。正統なアクワーリオ侯爵家の人間じゃ、ないですよね」
イグナルスがそう問いかけた瞬間、アクワーリオ侯爵の顔色が変わった。
「誰が言ったんだ?」
「え……?」
「お前がアクワーリオ侯爵家の人間じゃないなど、誰が言った?」
普段な温厚な侯爵が、はっきりと感情を露わにしている。怒り、だろうか。焦り、だろうか。アクワーリオ侯爵の感情は、イグナルスにはよく分からない。
黙り込んだイグナルスから、アクワーリオ侯爵は視線を外す。
「グラキエス?」
「俺は何も言ってねえって」
顔をしかめて首を振ったグラキエスのことをアクワーリオ侯爵はそこまで疑っていなかったようだ。すぐにイグナルスに視線を戻した。
「イグナルス。誰にそんなことを言われたか。教えてくれないか?」
「えっと……」
イグナルスは困惑を隠しきれなかった。このアクワーリオ侯爵の反応は、想定外だ。
何を、聞かれているのだろう。どんな答えが求められているのだろう。混乱しきったイグナルスの右手に温かいものが触れた。
隣に座っていたラウローリエが心配げにイグナルスの手を握っている。
それによって心を落ち着けたイグナルスは、アクワーリオ侯爵を真っ直ぐに見つめた。
「誰かに聞いたのでは、ないです。ただ、僕は。ここではないところで暮らしていたのを覚えています」




