18、未来が決まる選択
イグナルスは浅く呼吸をした。
選んでいい。それは、酷く甘やかな言葉だ。1度その甘さを手にしたら、抜け出せない気がする。
「ぼく、は」
自分はどうしたいのだろう。本当に自分が選んでいいのか。どうするのが正しいのか。
言葉を失ったイグナルスに、グラキエスが苦笑した。
「すぐには難しいよな。お前の未来が決まるんだ」
「……はい」
王太子の側近、ラウローリエの婚約者。どちらとも、撤回が難しいことだ。
側近を途中で辞めればイグナルスは無能のレッテルを貼られ、貴族社会で生きていくのは難しくなるだろう。
ラウローリエとの婚約を解消することでもあれば、ラウローリエの経歴に傷がつき、イグナルスも良い縁談は望めないだろう。
どちらも実現させるのさえ難しいこと。それでも、ラウローリエとの日々を望むのなら、どちらかを選ぶしかない。
「……助言、ありがとうございます。グラキエス様」
「ああ。お前の好きな方を考えてみろ。ただ、嬢ちゃんと王太子の婚約が成立したあとにぶち壊すのは少し難しくなるから、そんなに悠長にはできねえ」
「はい」
緊張した気持ちのまま頷いたイグナルスは、グラキエスとの約束を思い出した。方法を考える代わりに、聞きたいことがあると言っていたような。
「それで聞きたいことって何ですか?」
「ああ。そうだったな」
頷いたグラキエスが、イグナルスの赤の瞳をじっと見つめてきた。そのグラキエスの目は、息を呑むほど優しい。
しばらく黙っていたグラキエスが、目を伏せて口を開いた。
「イグナルス、お前は俺のことが嫌いか?」
「え……」
イグナルスは言葉を失った。
これはどちらで答えるのが良いのか。グラキエスのことを嫌いと言えば、この優しい人はイグナルスと距離を取るだろう。厄病神の自分から、遠ざけるべきだ。
それでも。その言葉はでなかった。
グラキエスは、イグナルスに選んで良いと言った。この返事の答えも、イグナルスが選んで良いとしたら。
グラキエスに、嫌いだなんて言いたくない。
「嫌いじゃ、ないです」
彼の紫の瞳が大きく見開かれた。アメジストのようにきらきらと光るその瞳に意識を奪われていたイグナルスだったが、グラキエスが急に椅子から立ち上がったため、その美しい色は見えなくなった。
「えっと、グラキエス様?」
ぐしゃぐしゃと乱雑にイグナルスの金の髪をかき混ぜられて戸惑うイグナルスに、グラキエスが囁いた。
「それなら良い。お前が俺を嫌っていないのなら、それで」
その声色はあまりにも真剣で。イグナルスは胸がぎょっと締め付けられる気がした。
「なんで、そんなに、僕のことを……」
イグナルスはグラキエスに酷い態度をとり続けていた。会話は最低限。グラキエスの目を見ることもほとんどなかった。彼の瞳がここまで美麗なものであることをちゃんと認識したのは今日が初めてというほど。
それなのに、グラキエスはイグナルスを見捨てる様子がない。いや、グラキエスだけではない。このアクワーリオ侯爵家の人は、みんなそうだ。
不意に、グラキエスがイグナルスの顔を覗き込んだ。その顔に浮かぶのは、優しげな笑みだった。
「お前は俺の弟だ。かわいい弟に嫌われたくないのは当然だろう?」
「……ごめんなさい」
「なんで謝んだ」
「ごめんなさい」
こんなに優しい人の汚点となったことも、イグナルスが何の役にも立てないことも。イグナルスから嫌っているかもと思わせたことも。全部が申し訳ない。
「ばーか。そこはお兄様大好きで良いんだ」
お兄様。それを言えたらどれだけ良かったか。それでも、やはりその言葉をイグナルスが使うのは駄目な気がして。
「……すき、です」
流石に大好きまでは言えなかった。人に好きと言ったことが今まであっただろうか。
ラウローリエに苺が好きと言ったことはあるが。その対象は食べ物だ。
恥ずかしくなって、イグナルスは下を向いた。何も言わないグラキエスに心配になって、ちらりと彼を見上げる。
今日何度目か分からない呆然とした彼の顔を見て、イグナルスは首を傾げた。
「グラキエス様、どうしましたか?」
「いや……」
力が抜けたように頬を緩めたグラキエスが、イグナルスの髪を今度は優しく撫でた。
「イグナルス。困ったことがあれば、今日みたいに言うんだ」
「ありがとうございます」