16、嫌だという気持ち
イグナルスは、アクワーリオ家の庭にある椅子にぼんやりと、座っていた。そよそよと吹いてくる風が金の髪を揺らす。
何も考えるでもなく、ただ庭を見つめていた。
何も目的を持たず、通り過ぎていく風をひたすらに浴び続ける。それだけの時間が、イグナルスは嫌いではなかった。
しかし、思考とは勝手に進むものであり、気がつけばラウローリエのことを考えている。
ラウローリエ・ジェーミオス。いきなり「10年後に死ぬ」と言ってきた変な子かと思ったが。実際の彼女は「変な子」ではなかった。
イグナルスに「生きたい」と言わせてみせると宣言をし。煮え切らない表情を浮かべるイグナルスに声をかけて何度も遊びに誘ってくれた。
イグナルスのことを気遣ってくれて、優しくしてくれた。
今までの人生にはない体験。世界に陽だまりが転がり込んできたような気分だった。
それを失うことを考えると、身体が凍っていくような感覚がした。
「嫌、だな」
ぽろりと口からこぼれ落ちたのはそんな言葉だった。その言葉に、イグナルス自身が動揺する。
「僕、は。なにを」
愕然とするほど身勝手で、傲慢な考え。しかし、それは風と共にどこかへ飛んでいくことなく、イグナルスの中にいすわり続けた。
手を、伸ばしてもいいのだろうか。自分なんかが。ラウローリエとの日々を捨てたくないとほしがってもいいのだろうか。
そのとき、ラウローリエとピクニックをしたときの彼女の言葉が脳に浮かんだ。
『違うわ。あなた「なんか」じゃない』
ラウローリエはそう言ってくれた。
イグナルス自身が、自分の価値を決めなくても良いのではないか。自分のことを信じなくても、ラウローリエのその言葉を信じては駄目だろうか。それは、都合がよすぎか。
それでも、イグナルスは「ラウローリエとの日々」を望んでしまった。それが消えることを恐れてしまった。それを自覚してしまった。
「ごめんなさい」
誰に向かってというわけでもなく謝る。それでも、一度芽生えた感情を簡単に押し殺すことができなかった。
しかし。イグナルス・アクワーリオは無知で世間知らずだ。自覚をしている。その状態で、ラウローリエと日々を続ける方法を見つけることができるだろうか。
全く分からない。何も思いつかない。
それなら、誰かに聞くしかない。それでも、相談なんてしていいのだろうか。それも誰に?
途方に暮れたイグナルスが思い出したのは『兄』の言葉。
『困ったことがあれば言え。俺がなんとかしてやる』
頼って、いいのだろうか。いつも真面に会話をしてこなかったのに。それなのに自分が助けをほしいことだけは求める。そんな非道なこと。
しかし、それはイグナルス自身が選んだこと。どれだけグラキエスから罵られても、怒られても甘んじて受け入れなくてはならない。
そしてイグナルスは知った。
『私はあなたのことを知りたいの。だから、いっぱい対話をしたいの』
厄病神のような自分の話をちゃんと聞いてくれる人がいることを、ラウローリエから学んだ。だから、イグナルスはちゃんと言葉にしなくては。
断られるかもしれない。断られたとしても、それはイグナルスの報いだ。受け入れるのが当然。それをイグナルスは怖がって良い立場ではない。次にどうするかは、断られてからだ。
イグナルスは立ち上がり、家の中へと向かった。
◆
グラキエスの部屋の前で、イグナルスは深く息を吐いた。心臓の音はうるさい。ぎゅっと右手を強く握った。
ドアを叩こうとした瞬間、急に内側からドアが開いた。人とぶつかることがないよう、咄嗟に後ろに下がった。
「あ……」
「うわ、悪い。って、イグナルス?」
中から出てきたのは、グラキエスだ。
紫の瞳がこちらを見つめている。イグナルスも自分の目をグラキエスの瞳へと向けた。
はっきりと目が合う。グラキエスが息を呑んだ。
「グラキエス様」
彼の名前を呼んだのは初めてかもしれない。イグナルスはまた深い呼吸をした。
呆然としたグラキエスの紫の瞳が大きく見開かれるのを見ながら、イグナルスは思い切って口を開いた。
「助けてほしいことが、あります」
イグナルスの言葉に、グラキエスは口を開こうとした。そこから何も言葉は出てこない。
どうしたのだろう。イグナルスが不安げに見上げていると、彼はイグナルスの頭をくしゃりと撫でた。
「ああ。もちろん」
その返事が少し湿った声に聞こえたのは、イグナルスの勘違いかもしれない。