10、プリムローズ・アクワーリオ
イグナルスが自分の部屋に向って歩いていると、服の裾を引っ張られた。驚いて立ち止まると、小さな少女がそこにいた。
「イグナルスおにーさま」
「どうしました?」
イグナルスは膝を床につき、彼女と視線をあわせた。
プリムローズ・アクワーリオ。イグナルスの妹ということになっている彼女。
グラキエスによく似た、青の髪を揺らしながら、イグナルスの瞳を覗き込んでくる。
「おにーさま、遊んで」
「えっと……」
自分は兄ではないはずだ。グラキエスとは違い、この子はそれを知らない。
イグナルスはこの少女を騙している。それが心苦しくて、目をそらした。
「おにーさま」
しかし、彼女の緑の目は、イグナルスを捉えて離さない。その大きな目で見つめられ続けているのが居心地悪く、プリムローズに視線を戻した。
「……どうしました?」
イグナルスが返事をしたのに、彼女は不安げにイグナルスを見ている。
不思議に思いながら、イグナルスがプリムローズの言葉を待つと、彼女はぽつりとつぶやいた。
「おにーさま、どこにも、行っちゃだめ」
「え……」
自分の聞き間違いだろうか。イグナルスが呆然としていると、プリムローズがぐいと前のめりで、イグナルスに懇願する。
「おにーさま。遠くへ行っちゃやだ」
「えっと……」
なんの話だ? イグナルスは困惑でいっぱいになった。
イグナルスが将来的に家を出ようとしているのは、彼女に言っていない。それどころか、場所すら決めていない。それなのに「遠く」と。
「僕は、ここにいますよ」
「本当に?」
今のところは、という言葉を飲み込んだ。プリムローズが満面の笑みを浮かべているのを見ながら、やはり心苦しくなる。
そんなイグナルスに向かって、プリムローズは緑の瞳を真っ直ぐに向けた。
「おにーさま」
「……」
「やくそくよ」
「……」
黙っているイグナルスに、プリムローズがむくれた表情をする。
「やくそく!」
「……はい」
幼い少女にも関わらず、彼女の圧に負けたイグナルスはゆっくりと頷いた。彼女はまた、笑みを浮かべる。
愛らしくて、無邪気で。それでいて、イグナルスにも話しかけてくれる優しい少女。
この子と本当の家族だったら。抱きしめて、頭をなでて、可愛がることができるのだろうか。
彼女のわがままを、仕方がないと苦笑いしながら、受け入れることができるのだろうか。
自分にないものへの、羨望。
イグナルスは、奥歯を強く噛んだ。
無駄で、不要なものだ。こんな感覚、嫌いだ。
諦めろ。諦めろ。そう、自分に言い聞かせた。
「イグナルスおにーさま?」
「どうしました?」
「どこか、いたいの?」
「え……」
まるでイグナルスの心の内まで見透かしているようなプリムローズの言葉に、思わず固まる。
プリムローズは少し背伸びをして、跪いて視線を合わせているイグナルスの髪に触れた。
「おにーさま、いい子」
「え?」
「だいじょーぶ」
この子は、何を。何を見ているのか。イグナルスはすべての思考が止まる感覚を味わった。
イグナルスを現実に引き戻したのは、遠くからの声だった。
「プリムローズ、どこにいるの?」
「あ、おかーさまだ」
アクワーリオ侯爵夫人の声に、プリムローズがぱっと反応する。そちらの方へと駆けだそうとしたプリムローズだが、すぐに振り返る。
「またね、おにーさま」
「……はい」
プリムローズに『また』と返すことはできなかった。
美しい青髪をたなびかせながら、呼ばれた方向へ走っていったプリムローズを見て、イグナルスは息を吐く。
自分はまた嘘を重ねた。