疑似恋愛終了のお知らせ
恥ずかしいという気持ちは胸の内側から滲み出て全身を巡る。
その感覚はなんとも言えぬ不快感を伴う。
今までの自分の行動があの人にとってはおそらく迷惑だったのだろう。私のエゴは醜いものだと改めて自覚するのであった。
私が彼に出会ったのは社会人になって一年ほど経ったとき。私が仕事前に朝食を食べる、そして休日にもふらっと来てはそこでゆっくりしているカフェがある。店の奥の方、窓に向かったカウンター席で一人つまらなそうに携帯電話を弄んでいるのを見た。
私はいつもその近くの二人用のボックス席に一人で座る。ふと外を見ようと思うと彼が見えるのだった。
最初はなんとも思わなかった。ただ何度もその姿を視界の隅に捉えているだけ。しかしある日彼の顔がとても端正な造りをした美丈夫であることに遅ればせながらも気づいた。
現金な私の瞳は自然と彼に向くようになっていった。
視線がバレないように、私は自身の熱い眼差しを自覚しながらも極めて平静を装って彼を見つめ続けた。幸い私が気に入っていた席は彼のことを後ろからこっそりと観察するのに適していた。
綺麗に整ったうなじ。指先は骨張って且つしなやか。乾燥肌なのかたまにハンドクリームを塗っている。左利き、頬杖をつくのが癖でよく手の甲を頬に付けるようにして頬杖している。コーヒーは砂糖とミルク両方入れる派で、ソーサーがカチャカチャするのが嫌なのかスプーンで混ぜた後にカップをソーサーの上から机の上に移している。
あるとき、彼が伝票を持って立ち上がる際にズボンの後ろ左ポケットからハンカチが落ちた。
それに気づいていないのか彼はコートを羽織り、レジへと進んでいく。
あっ、と指がわずかに動くが声は出ない。
三、四メートル歩いても振り返らないので、きっと彼は気づいていない。
私は決心して席から立ち上がり、床に落ちているグレーの薄手の綿製ハンカチを手に取って振り返る。レジへと歩いていき彼にハンカチを両手で差し出した。
「落としましたよ」
「あ! ありがとうございます」
彼は一瞬目と口を見開いた後、少し目尻を下げると目を細めた。その光景を私は脳裏に刻んだ。
ハンカチを受け取る彼の細くて冷たい指が、僅かに私の指に重なって、心の中の私は飛び跳ねた。
彼と並び立つと意外と背が高く、私よりも二十センチメートルは高いだろうと思った。
「い、いえ」
彼は会釈をして、私は「では」と言ってすぐに自席へと戻った。
先ほどの自分の声が冷たい突き放したような声になってしまった気がする。そんな後悔をすぐにし始めてしまう自分に辟易とする。
私は左手の指先を反対手で撫でてから頬に押し当ててみた。
その日を境に私のカフェに行く目的が、彼に会うことになっていったのである。
さてどうやったら、たかがカフェのか客同士が仲良くなれるものだろうかと考えあぐねることしばらく。もちろんカフェに居るときも考え、風呂でも布団の中でも職場でも考えていた。
今まで恋人なんて一度たりともいたことのない者にとって、それは非常に大きな壁であった。他の人にとっても難しいかもしれない。
ある休日。カランカランと私が開いたドアは鳴り、彼と目が合った。その日は混雑して席の空き待ちをしていたようだ。心臓に悪い、いや良いかもしれない。
私は席待ち用の紙に自分の苗字を書こうとすると、結構な人数が待っており正直彼が居なければ別のカフェにしていた。いや、今日は混雑しているから席も選べないので特等席にも座れないだろう。
しかしペンを持ってしまった手前、このまま帰るのも恥ずかしいように思えてしまった。紙を見れば、人数欄に「1」と記載した人が三人ほど、この中のどれかが彼の苗字なのか。私は自身の苗字を書いて席待ち用の椅子へと腰掛ける。
帰る客も多くなり何名かが呼ばれて席へと案内されていく。
「一名様でお待ちのモロホシさま〜」
彼は椅子から立ち上がり、「はい」と一言返事をすると、店員に案内されていく。モロホシというのか。きっと諸々の諸にお星さまの星で、諸星と書くのだろうな。星々の輝く夜空みたいに彼に疑似恋愛していた。
頑張ろうとは思った。数ヶ月過ぎようが結局は赤の他人以上知人未満であった。一番頑張ったのはわざとハンカチを落としたことだったろうな。
拾ってもらえて嬉しかった! 彼は私が過去に貴方のハンカチを拾ったことを覚えていただろうか? 心の中で思ってくれただろうか。『ああそういえばこの人……いつもいるよな。前にハンカチ落としたのを拾ってくれた。縁があるな』と。考えてくれただろうか。
人間は人間の心の中を見ることができないからもどかしい。
そうやって、挨拶を交わす仲にもなれぬ私に変化が訪れる。
突然来た”その日”、彼はカウンター席にいなかった。彼は女の人と私の隣のボックス席に座っていた。
耳をそばだてるのも当然だろう。心の表面がざらつき、いくら豆乳ラテを喉に流し込もうとも喉の潤いは満たされない。そうしてそばだてた耳で拾った会話の欠片、彼は恋人からの連絡を心待ちにしては、いつも携帯電話の画面を見つめていることが分かったときの胸の痛みたるや。
心は、彼から離れるべきなのに今もこうして彼に向かっていってしまう。愚かな私を許してください。
嬉しそうに彼女とご飯を食べている彼の眩しい笑顔をこの席からは見れないのが唯一の救いだった。彼らの幸せそうな話し声に、私の蠟でできた全身は溶けて跡形もなくなった。
人間こういうとき、胸がスッと冷たくなってその冷たさが四方へ広がるのだ。
手を引いて、身を引いて。それがあるべき私。
だって私は一方的に彼に思いを寄せていただけ。
なぜ私は考えなかったのだろうか。彼に恋人がいる可能性を。いや考えた、考えたが認めない愚鈍な脳味噌がなんだかんだ理由をつけてそれを否定してきたのだ。
私は彼を知らない。